私以外の誰か   byカンシュコフ





 『私以外の誰かが居る。』




 一人暮らしの自分の部屋に変な気配を感じたのは、引っ越してすぐでした。
 入居しているワンルームのアパートは築十数年経ってはいますが割と綺麗な見た目で日当たりも良好。怪しい噂があるわけでもありません。
 けれど、壁と窓で区切られた六畳ほどの空間で毎日生活を送るようになって、私は私以外の『誰か』或いは『何か』がそこに居るような気がしてならないのです。

 付けた覚えのないトイレの電気が帰宅したらついている、閉めたはずのキッチンの蛇口から水が流れる、部屋の隅の床が音を立てる。

 気味が悪くなった私は友人の一人に相談したのですが、彼女は「気のせいよ」と笑いました。
 確かに気のせいか偶然かで考えるのが一般的でしょう。しかし、私にはそんな軽く考えることが出来ません。最近は仕事が終わっても部屋に帰りたくないほどです。
 そんな私を見かねてか、今度友人が泊まって様子を見るということになりました……





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 ―――思えば、越してきた当初からそんな気はしていたんだ。

 ただあの頃は仕事が馬鹿みたいに忙しかったからそんなこと感じる余裕がなかっただけで。
 極悪死刑囚の世話という、肉体的にも精神的にも限界を感じさせる職務にくたびれきっていた俺には、自室に起こっている些細な変化などはっきりいってどうでも良かった。そもそも部屋自体まともに戻った覚えがないし。職場の仮眠室で寝るか、最悪徹夜だった。
 それが幸か不幸か問題の囚人が居なくなり、忙しいながらも一応人並みの勤務時間になった俺は安寧を得るべき自分の部屋に漸く身を置けるようになった。そこで、改めて変な気配に遭遇したのだ。
 つけっぱなしの電気だったり水道だったりは、この際うっかりだということにしておこう。足音のようなものが聞こえるのもきっと、建物が古いからだ。
 だが、それだけで拭えない違和感がある。帰って一番に飛び乗った安物のベッドマットが凹んでいるのは何故だ、敷金のため傷をつけずにいた壁へひっかいた跡があるのはどうしてだ。ペットなんか飼っていないし、そもそも動物が付けるには高すぎる位置にどうしてある。

 何より―――部屋にいる間中ずっと感じる、視線。どこからと決まっているわけではない、むしろ至る場所から飛んできて肌の上をざわめかせる。コレも、気のせいなのか?

 違和感改め気配のようなものは日に日に強くなってくる。昔ならストレスで神経衰弱に陥っていると判断して終わりだろう。ノイローゼ一歩手前だったのは事実なのだから。しかし今はそれほどでもない。俺がイカレたってわけじゃないんだ。つまり、これは世にも奇妙ななんとやら、なんだ。
 怪奇現象なんぞ鼻で笑っていたが、実際に我が身へ起きると中々冷静でいられない。一人暮らしだから猶更だ。
 誰かに相談出来ないものか。情けないとは承知の上、切実に考える。そこで俺は数少ない交遊関係の中からさらにより問題にならない顔をピックアップして心を決めた。
 翌日、仕事の休憩時間中に同僚の一人を呼び出した。脳みそ筋肉バカもとい豪放磊落を絵に描いたような大柄な労働監督者はせめて怖がって見えないよう憮然とした表情で話した俺の相談内容に、予想通り大笑いしやがった。笑いすぎて涙まで浮かべてやがる。

 「あっはっはっ、なんだカンシュコフ、おまっ、お化けが怖いのかよー、だぁっはっはっはっ!」
 「うるせーっ!てか最初に笑うなっつっただろ大声あげんなボケロウドフ!」
 「だってこの年になってお化けとかっ……部屋にお化け出たぁ、とかっぶわっはっはっはー!!!」
 「う、る、せ、ぇ、ーーー!!!」

 話さなきゃ良かった。そして人選も間違えた。誰だ、こんな馬鹿相談相手に選んだの。俺か。俺の馬鹿野郎。
 それでも面倒見が良いのがコイツの良い部分ではある。
 一通り笑い終えた奴は赤銅色の頭をぐりぐり両側から拳で締め付ける俺に対し「分かった」というポーズをとると今度の休み泊まってみようと言い出した。

 「俺が泊まった時にお化けが出ればアタリ、出なきゃお前の気のせいってこった」
 「……お化けじゃなくて気配だ」
 「なんだぁ、ストーカーだって言いたいのか?そっちのがよっぽど現実味ねーだろはっはっはっ!」

 ……本当、腹が立つな。
 だがまぁ、確かにその通りだ。過去いびった囚人など狙われる覚えがないわけではないが、それだったらもう少しストレートなやり口をするはず。それに……あの気配は、生身の人間とは違う気がする。
 斯様な点を押さえ、俺は不承不承頷く。こんなバカでも居ると居ないでは心強さが違うだろう。むしろこの騒々しさに不可解な現象も成りを潜めそうな気もする。

 とりあえず他言無用ともう一度約束させ―――同僚の守銭奴にでも知れればそれこそお化けより面倒なことになる―――俺はそれとなく安堵の息を吐いた。





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 さて、友人が泊まりに来てくれるその日、とりあえず私は部屋を掃除することにしました。
 気心知れた間柄とはいえ、お客さんです。それに、掃除に没頭している間は部屋に漂う気配を忘れられました。
 ベッドの周辺と台所、トイレと順番に綺麗にした私は一番手のかかる浴室の掃除に取りかかりました。
 濡れないよう風呂用スリッパに履き替えてから浴室内をシャワーで濡らす。ぴちょん、ぴちょん、と滴る水滴の反響がやけに耳に響くので、それが聞こえないよう力を込めて浴槽を擦りました。
 全体の汚れが落ちたところでもう一度シャワーで流し、排水溝の網に溜まった抜け毛などのゴミを取り除きます。これで掃除はおしまい。
 しかし、排水管蓋を持ち上げた私は信じられないものを発見しました。


 ―――長い、黒髪。


 ……私の髪は、肩より少し長い位です。しかも色は茶色。ロングヘアと呼ぶに相応しい長さをした黒髪は、絶対に混じるはずがないのに。何故か、排水管にはその髪の毛がびっしりと、大量に絡まっていたのです。
 最近誰かを泊めた覚えもなく、また、この髪質に該当する知り合いを私は知らないのです……私は呼吸も忘れ、呆然としました。

 どれくらいそうしていたでしょう。何も考えられずに立ち尽くす私の耳に、電話の呼び出し音が届きました。




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 別に男同士だし、どちらもとびきり綺麗好きというタイプではないので部屋が多少散らかっていても構わない。
 とは思うのだが、やはりある程度の見た目を保っておくのがマナーだろう。ロウドフが寝るスペースの確保だって必要だ。
 というわけで休み当日、相手が来るまでの時間を利用して俺は部屋の掃除を始めた。
 あくまで簡単にだから、投げてあった服や雑誌を端へ避け、雑巾で床を軽く拭く。台所とトイレもささっと完了。
 で、問題は風呂場だ―――トイレと併設のユニットバスは、実のところ今俺の住居で一番居心地悪い場所になっている。何故なら密室になるからだ。
 トイレは最悪ドアを開けて済ませられるが(そこ、汚いとか言うな)、シャワーを浴びる時は閉め切るしかない。閉めると、狭い空間になんだか自分のもの以外の気配が濃くなる、ような気がする。音の反響や籠る熱気も、なんだか悪いイメージに結びつく。シャンプーをする際目を瞑りたくない。瞑ったら開けたくない。兎に角、風呂場は嫌な予感がするのだ。
 だから他の場所より余計早く終わらせようと決め、俺はブラシを手にした。風呂用スリッパに足を突っ込み、仕切りとなるドアを全開にした状態で水が散らないよう調整しつつシャワーをかける。
 大丈夫、まだ陽も高いし何かだって出てくるには早すぎるだろ、何かって何なのか知らねぇけど。鏡とか極力覗いてねぇけど。大丈夫だろ。
 一人滅多に歌わない唄なんぞ口にしながらゴシゴシ擦り、泡を流す。ホラ、何も起きない。

 なんだ、と若干拍子抜けさえした。わざわざ他人を呼ぶ必要なんてなかったんじゃないか―――そうすっかり油断しきった俺は排水溝の蓋を開けた瞬間、固まった。

 排水管の上には網が張ってある。ゴミが管に詰まらないようにするためになのだが、そこにうじゃうじゃ髪の毛が引っかかっていた。



 俺自身の金髪に混じって、見慣れない、黒い髪が。



 ザァッ、と自分の血の気が引くのが分かった。彼女でもいるならまだ言い分はあろう、しかし悲しいことにその可能性はない。
 恐る恐る、黒髪の一本を持ち上げる。ズルリ、滑りを帯びて抜けた髪はかなり長さがある。それが何本、何十本と網に絡んであるのだ。眩暈がした。
 すぐ流せ、今すぐ見なかったことにしろ。そう脳が警告を発していたが、俺には動くことも目を背けることも出来ない。

 吐きだした白っぽい息が震えた―――気のせいか、風呂場の気温が低い。
 水を使ったせいなのか、それとも、もっと別の理由か……

 常識で説明できない状況を前に、どのくらいの時間が経過したかは分からない。
 唐突に、電話の鳴る音が聞こえた。




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 ビックリしつつも私は排水管から目を逸らし、慌てて鳴り響く電話の元へ向かいました。スリッパを脱ぐのももどかしく、床が濡れるのも構わず履いたまま部屋へと下ります。
 急いでいた、というのもあります。でも、それ以上に私は私のすぐそばにいる『何か』から逃げたかったのです……




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 反射的に飛び上がる。と、体から硬直が解けた。それまでまるで金縛りにあってたみたいにガチガチだった指先が自分の意思通りに動く。しめた、と俺は蓋を投げ捨て一目散に風呂場を飛び出した。
 足元は風呂用スリッパのままだが、関係ない。立ち止りたくなかった。振り向きたくない。ジリリリ、ジリリリッ、と鳴る電話へ俺は思いっきり手を伸ばす。




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 が、電話は私が掴む直前、切れてしまいました。きっと今日泊りに来る友人からだろう。そう思って私がかけ直そうと顔を上げると……―――





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 『おー、カンシュコフ。出るのおせーぞー』
 「……ロウドフ、か。」

 呑気にも聞こえる野太い声。滑り込むようにして出た電話の相手は泊りの約束をしている同僚だった。ガサツな性格の表れた大声が耳に痛い。それまでの緊迫感が馬鹿みたい感じた俺の両肩から一気に力が抜けた。
 ドサッとベッドへ座り込み、受話器を握り直す。「席外してたんだ、仕方ねぇだろ!」。腹立ち紛れに怒鳴ると、ほんの少し、室内の空気が自然に戻った。

 「それより何だよ?」
 『ああ、今酒屋に寄っててなー。折角だから一本買ってこうと思うんだけどよ、お前、タブレートフカとトロイノーイ・オジェコローンだったらどっちが飲みてぇ?』
 「そんな安酒買うくらいなら手ぶらで来いよ……」

 椅子からでも作れる粗悪品とオーデコロンのなれの果てと究極の二択はいくら土産でもらえても御免こうむる。
 結局、割り勘にして普通のウォッカ、それと幾つかのつまみを頼んだ。予想していたが、今夜は確実にどんちゃん騒ぎだ。大家に怒られない程度にしとかないと。
 少し約束の時間より遅れる、と言う相手に適当に返事をし、受話器を置いた。思わず溜め息を吐いた。しかしアホな会話をしたおかげというか、自分の中に冷静さが戻ってくる。
 ガシガシ意味もなく頭を掻いて振り返る。濡れたスリッパで歩いたせいで床に点々と水が落ちている。折角掃除したのに。とんだ二度手間だ。
 再びため息。そうして先に使った雑巾を片手に、今度はちゃんとスリッパを脱いでから濡れた跡を拭いて―――俺は、気づいた。気づかなくてもいいことに、気づいてしまった。


 床に残る濡れた足跡。
 スリッパを履いた俺の足は扁平な型しか残らない。なのに、腰を屈めた先にあるくっきりした形は素足がつけるものだ。


 横にある俺の足幅よりも、もっと小さな裸足の跡―――風呂場まで点々と続くそれは、丁度俺の目の前で途切れていた。









 なぁ、俺の前には何がいる?








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2012.07.31