ドッペルゲンガー【独:Doppelganger】
「生きている人間の霊的な生き写し」の意味、または自己像幻視。
自分の姿を第三者が違うところで見る、または自分で違う自分を見る現象を指す民間伝承の一つ。
自ら自分の「ドッペルゲンガー」現象を体験した場合、死期が近いとも言われる。






追いかけていたのは…   byプーチン





 ―――ああ、こんにちは。今日もいいお天気ですねぇ〜ちょっと暑すぎますけどね。……はぁ、記者さん、ですか?雑誌の特集……実録怪談特集ですか。へー、夏らしいというか、すっごく怖そう……って、えぇっ、インタビュー!?ぼ、僕にですかっ!?むほーっ、大変!!あっ、でもでも、名前や顔が出るのはちょっと困るかなぁ〜。普段着だし、僕、写真映り悪いんで…………え?写真は撮らないんですか?名前も匿名??あ、そうなんだー……いえ、全然構いませんよ。
 うーん、でも怖い話かぁ……僕、怖がりなんでそういうの割とダメなんですよねー。聞くのも見るのも苦手で。実際自分の身に起きたりしたら多分、震えて布団から出られなくなっちゃうんじゃないかな。心当たりとなるとなぁ……うーん…………………………あ、


 えっと―――怖い話じゃあないんですけどね。変わった経験ならついこの間しましたよ。


 うん、ちょっと不思議な感じの。日が経った今も、微妙にしっくりこないというか……―――あ、それで良いですか?
 話すだけね、うん。分かりました。じゃあ、お話しますね。




 あれは……そう、一週間くらい前のことでした……―――





+ + +




 その日、僕は街でキレネンコさんを見かけた。


 ちょうど夕飯の材料を買いに出ていた時だ。
 八百屋さんの前で人参を必要な本数だけ買うか、それともまとめて買えばさらに割引くというおじさんの文句に踊らされて多すぎる一ケースを買うか、うんうん言って悩んでいた意識をふと逸らすと、車道を挟んで反対側の道に彼が居た。
 顔は見えなかったけど、人ごみの中から一段飛び出した頭頂の赤色は間違いない。キレネンコさんだ。僕は直観に近い速さで判断した。
 出かける時は靴磨きを一生懸命していたから留守番をお願いしたのだけど。何か用事があったのかもしれないし、ちょうどいい。彼に少し荷物を持ってもらおう。そうすれば問題も解決、万事円満。

 「キレネンコさぁ〜ん!」

 おぉーい、と僕は声を張り上げた。ついでに目立つよう、ぶんぶんと腕を振る。
 付近を歩く何人かが振り返ったから、結構な声が響いたのだと思う。けれど、肝心のキレネンコさんはこちらを見ないまま、スタスタどこぞへ歩いていってしまう。
 ありゃりゃ、困った。空振りに終わった手を下ろし、僕は慌ててキレネンコさんの背を―――八百屋さんには人参一ケース取り置きとお願いして―――追いかけた。
 車の切れたタイミングを狙って道を渡り、人ごみを避けつつ走る。キレネンコさんと僕とでは元々の足の長さが違うからスピードも全然変わってくる。僕が頑張って両足を動かしてもキレネンコさんは悠然と前に進むのでちっとも追いつかない。一定の距離を開けて赤が揺れるだけだ。

 「キレネンコさん、待ってくださいよぉー」

 走る傍ら呼んでみるけど、やっぱり聞こえないみたい。考え事でもしてるのかな。
 少し先を行くキレネンコさんは真っ直ぐ歩いた、と思ったら突然角を左に曲がったり、とても狭い脇道に入ったりする。その都度僕は一瞬彼を見失うのだけど、必死の上の速さを出して走るとまた赤色を発見出来る。彼の目的地がどこか知らないから、僕は兎も角その色を追うしかない。
 そうやって時々人にぶつかりながら、えっほ、えっほ、息を上げつつ走る。
 夕暮れが近づく周囲は少しずつ茜に染まっていく。絵具のような、熟した実のような、キレネンコさんが持つ色と同じ色。彼はそこに溶け込むよう進んでいく。一度も立ち止らない動きはとても滑らかで、僕の立てるパタパタという足音だけが響く。パタパタ、パタパタ。「ねぇ、キレネンコさん待ってってばー!」。無視なんじゃないかと思うくらい、彼は気づかない。汗を滲ませながら僕は追いかける。


 どれくらいの距離を走ったのかな―――夢中だったからよく分からないけど、僕は次第に目的の色と距離が縮まっているのに気づいた。
 ギリギリ見えるかどうかだった赤はくっきりとした緋色になり、そのうち髪の一本一本の揺れも分かるようになった。
 やった、もうちょっとだ。ゴールが見えると人は俄然張り切れるもので、その時の僕も浮かれを助走に一気に駆けった。
 足裏で地面を蹴飛ばし、いち、に、さん、し。ぐんぐんキレネンコさんへ近づいてく―――そのままいけばぶつかる勢いだったけど、まぁいっかと思った。足を緩めたら途端また間が空く気がしたし、ここまで気づかなかった彼をちょっとびっくりさせてやろう、とも思った。
 目の前一杯に赤が広がる。よしっ、と僕は最後の一歩を踏む。目測、ゼロ距離圏内。


 「―――キレネンコさん、つーかまーえたっ!」


 両手を広げ、思い切って飛び込む。
 それこそ空中にダイブする要領で遠慮会釈もなく頭から突っ込んだ。キレネンコさんは丈夫だから僕と衝突してもさほど大きな怪我はしないだろう。鍛えた体が支えてくれるのを期待して、赤へ埋まる。




 ―――……そう思っていたのだけれど。実際に感じたのはさほど固さのない、空気のような感触だった。




 あれ?と違和感に首をかしげる。まるで肩透かしをくらったみたい。
 よく分からず二、三度瞬く。すると、頭上から呆れたような声が降ってきた。

 「……何をやってるんだ、お前は」

 心底、理解に苦しむ。そんなニュアンスの漂うテノールに従いぐりんと首を上に逸らすと、見知った顔が目前にあった。

 「キルネンコさん?」

 長い赤髪が影を作る。ここまで追いかけてきた人と瓜二つな人相をしたキルネンコさんは僕の上で煙草をふかした。
 ふー、と吐き出された細い煙が空へ昇る。夕焼けの真っ赤な色に吸い込まれるよう、それはすぐに消えていった。

 「あれ?キレネンコさんだと思ってたんだけど、あれれ、キルネンコさんだったの?」
 「言ってる意味はよく分からんが。人の顔も判別がつかないほど呆けたのか?」
 「呆けてないですよ〜!キレネンコさんがこっちの方に来たんです」

 赤い目をやけに冷徹に眇めた彼の言い方は容赦ない。
 そこで僕は街中で彼を見かけたこと、その後ろを追いかけてあっちこっち走り回ったこと、それと驚かせるため飛びつこうとしたことを簡単に説明した。

 「でも、キルネンコさんと見間違えてたんですね」

 そこそこ長い付き合いになるのになぁ。恥ずかしくなって僕は身を縮ませる。
 けれど、弁解にもならない僕の発言にキルネンコさんは怪訝そうに眉を寄せ、首を横へ振った。

 「見間違えるも何も、俺はお前の後から来たんだが?」
 「……ほ?」

 ……そういえば、彼は僕の背後に立っている。前を行っていたはずの彼がこのポジションを取るのは少々難しそうだ。(彼の身体能力の高さを考慮すれば不可能ではないだろうけど、)
 僕がよく分からないでいると、キルネンコさんは再び煙草を口に運び、「まぁ、」と前方を見た。

 「仮にお前がキレを追いかけていたとして―――いくらアレが頑丈なだけが取り柄の単細胞バカであっても、これより先に用はないだろう」

 実に淀みなく吐かれる彼自身双子の兄弟へ対する悪口はフォローすべきかすまいべきか。迷っていた僕だったが、それよりも重要なことに気づいた。


 逡巡するよう首を巡らせた僕の目に足元が映る。何もない。本来なら踏む地面だとか草だとかを全て消し透明にしてしまって、その中で僕のサンダルを履いた足がぷらんと揺れる。
 足の下広がる透明はどこまでも広く、そして深い。透明の更に下は一面真っ黒だ。あの黒が底にあたるのかな?
 少し顔を上げると、今度は赤が見える。大きく、真っ赤な夕日だ。目に眩しい。今まではキルネンコさんの方を見ていたから気づかなかった。向き合った太陽はゆっくり低い位置の地平線へ沈んでいく。



 ―――僕は、浮いていた。太陽よりも高い山間の位置で。

 僕の足元の透明は正確に言うと空気であり、切り立った崖の向こうであり、空中だったのだ。



 「っむ、むほぉぉおおおおーーーっ!?」

 自分の現在地を理解した僕はジタバタもがいた。断崖絶壁の崖の際には落下防止の柵なんて見当たらない。落ちる、落ちてしまう!恐慌で半分パニックを起こす僕に後ろから「暴れるな。本当に落ちるぞ」と冷静な声で追い打ちがかけられる。竦んで瞬時に動作停止した。
 崖の先を越えた僕が浮いていられるのは、キルネンコさんが抱えてくれていたからだった。煙草を挟む側と反対の腕一本で軽々持ち上げてくれてる。自分も崖の縁に立ちながら平然とした顔をしているキルネンコさんは流石だ。
 ホッと安堵しながらも僕は急いで下ろしてくれるよう頼んだ。彼の腕力は信用しているけど、一旦下を見た後でいつまでも留まっていられるほどの勇気は僕にはない。

 「あああありがとうございますぅー……」
 「随分変わった遊びだな」
 「あ、遊んでたわけじゃ、ないんですけど……」

 両足を地面につけ、大きく息を吐く。まだフワフワ浮いている気がする。キルネンコさんから離れた背中は一気に噴出した汗でぐっしょり湿った。
 さっきのぽっかり開いていた透明と黒の崖下を思い出す。もし落下していれば僕は到底放送出来ないようなグチャグチャのメチャメチャになっていたに違いない。骨格なんて分からないほどに折れねじ曲がって、血と脂が入り混じったピンクっぽい色の塊になった僕。想像するだけで総毛立つ。
 騒ぎっぱなしの心臓を落ち着かせるため、改めて深呼吸をする。


 ―――それにしても、僕は一体いつの間に崖の上に来たんだろう?
 キレネンコさんだと思う人を追いかけてずっと走っていたけど、いつ街中を抜けたのか思い出せない。割と高さのある山だから登るのだって大変だったろうに。


 それに、前に居たはずの彼は、どこに行ったのかな。


 おっかなびっくり崖側を振り返ってみる。
 でも、見えたのは暗さを増す崖の底と沈みきる手前の赤い夕日だけだった。





 それから僕はキルネンコさんの車に乗せてもらい家まで送ってもらった。
 ちなみに、何故キルネンコさんが町外れの山に居たかというと仕事の帰りだったらしい。投棄場にする土地の利権がなんとかで(難しいことだったからよく分からない))来ていたところ、たまたま走る僕を目撃して付いてきたのだ。「面白そうな気がした」と嗤う彼の感性と偶然とがなければ僕は谷底で永遠の行方不明者になっていたのだから感謝の限りだ。

 八百屋さんで取り置きしていた人参を回収し、家の玄関をくぐるとソファーに座ったキレネンコさんが居た。
 出かけに見た時と寸分変わらない姿勢のまま、黙々スニーカーを磨いている。スニーカーの光具合から見てもかなりの時間を費やしているのが分かった。

 「キレネンコさん、ただいま。あの、今日どこかへ出かけませんでした?」
 「…………」

 念のため尋ねると、キレネンコさんは無表情に小さく首を振る。違うんだ。
 ということは、やはりあの時の彼はキレネンコさんではなかったのだろう。キレネンコさんの燃えるような赤い髪を見ると、勘違いだったとは思いにくいのだけれど。
 唸る僕に留守番をしていた彼はそれ以上特に聞き返さない。代わりに、「……それより、」と目を鋭くした。

 「……何故、ソイツがいる」
 「ほ?」
 「さっきまで逢引してたからだろうな」

 ぐいっ、と後ろへ寄せられた体に振り返ると、キルネンコさんが崖際で引き留めたのと同じよう片腕を回してニコニコしていた。助けてくれたのと送ってくれたお礼を兼ねて夕飯に招待したのは僕だ。人参もたくさんあるし、食べ手が多いのは好ましい。そう思ったのだけれど……
 煙草を吸い終えているもう一本の腕も回って一層背後が密着するのと、ガタンッ!と激しい音を立ててソファーが蹴り倒されるのは同時だった。(繰り返し言うけど、ソファーだよ。椅子じゃなくて、二人掛けの一人じゃ運べないような重たいソファー。それが倒れたんだ)
 真後ろと真正面、剣呑さを帯びた赤目が交差する。



 その夜、僕は本物の『恐怖』を体験した―――





+ + +




 ―――……あの時は本当、『お化けなんて怖くないさ』って言葉がよく分かりましたねー……止めるより先に逃げ出したかったです。いやまぁ、いつものことといえばそうなんですけど。この世の物とは思えない暴れ具合でした、えぇ。壁とかもね……冬だったら寒風に晒されて風邪ひいただろうから、夏で良かったです。
 結局こんな話だったんですけど、大丈夫でした?あんまり怪談っぽくはなかったかも……オッケーですか、良かったぁ!!これっていつ頃の雑誌に載るんですか?本屋さんに予約お願いしておかないとっ!あっ、あと最初に約束した通り、名前は匿名でお願いしますね?他の二人にも迷惑がかかっちゃうんで……はい、はい……じゃあ個人情報厳守ってことで。ありがとうございます。発売はー……
 あ、ちょっと待って、


 「キレネンコさんだ」


 ええ、そう。あそこ、少し赤色が見えるの、多分さっき話したキレネンコさんなんですよ。いや、でもキルネンコさんかも―――二人ともそっくりだから、時々見間違えちゃうんですよね。えへへ。
 どこかに行くのかなー。ちょっと追いかけてみよう!
 あっ、話聞いてくれてありがとうございました。雑誌になるの、楽しみにしてますねっ!







 そうして僕は、誰もいない路地に向かって走り出した。








――――――――――
2012.07.31