い も う と    byゼニロフ




 昔、私には『いもうと』が居ました。





 私の家は代々続く医者の家系でした。実家は病院を経営しており、雇っている大勢の医師看護師に混じって院長である父と経理担当の母、私、そして『いもうと』とで暮らしていました。
 私が自分と他人を区別出来るようになった頃、既に『いもうと』は家に居ました。私たちはさほど、年が離れていなかったのです。
 といっても、その子の生まれた年がいつなのか、私といくつ違うのか、正確には私は知りません。また、その子は私と兄妹だと分かるほどの特徴はなく、父親と母親のどちらかに似ているわけでもありません。


 『いもうと』は、真っ白でした。


 絵本代わりに読んでもらった医学図鑑に載っている目も鼻も口もなく、手足もついていません。もっというなら、私と同じ【人間】に当てはまりませんでした。
 白いシーツを丸めて赤ん坊大にしたもの、それが『いもうと』でした。工芸品のマトリョシカから装飾を取り払い単純化したもの、とでも思ってもらえば構いません。
 口のない『いもうと』は勿論普通の赤ん坊のように泣き声を上げるわけではなく、這いずりも掴まり立ちもしません。時が経っても私のことを兄と呼ぶことも、ありませんでした。

 その子を『いもうと』と呼んでいたのは、母でした。

 母は病院で経理の仕事をこなすかたわら、子供の世話もきちんとする人でした。身内の欲目を抜いても真面目な人だったと思います。
 少々神経質すぎるきらいもありましたが、私は元々性格的に大人しく、両親の言う事は絶対だとしつけられていたため特別母を苦手だと思った事はありません。
 幼少期、私は自宅から母の仕事部屋へと連れて行かれ、そこで一日を過ごしました。
 その際、母は一緒に『いもうと』も連れて来ます。

 母はよく『いもうと』を移動させていました。
 食事をする際は食卓へ、夜寝る際はベッドへ、そして病院で仕事をしている間はデスク脇の腰掛へ。
 その際私が「いもうとが置いてある」と言うと、母は厳しく叱りました。「座る」でないと駄目なのだと、何回か繰り返すうち私は学びました。

 当時の私は母のその行動も『いもうと』の存在も、何も不思議に思っていませんでした。学校に入学するまで私に知識を与えてくれたのは母でしたので疑問を挟む余地がありまでせんでした。
 なので看護師や入院患者の会話から「いもうとが、」という単語が聞こえると、毎日見る白いのっぺりしたあの存在のことを言ってるのだと、そう解釈したのです。


 自分のその認識が世間一般とは異なると知ったのは、初等科に上がってすぐでした。
 世の【妹】というのは自分と血縁・非血縁関わらず【人間】の女子を指すと知った私は、ある日、母に尋ねました。

 「それは私の【妹】ではありませんよね?」

 確か、そんな訊き方だったと思います。
 すると母は今までにない勢いで、猛烈に激怒しました。
 ふざけるな、何を言っている、その子は絶対に「わたしたちのいもうと」なんだ、と。常の冷静さをすっかり無くし、髪をふり乱した母は私に手を上げる寸前でした。
 私がそれ、と表現したのも気に入らなかったようです。生まれて初めて母に恐れを抱いた私は素直に謝罪しました。
 ただ、心の内で私が完全に納得したわけではありません。母の言い方もまた、後から考えるとおかしなものでした。


 「わたしたちの」
 





 母が人でないその物体を家族として扱っていることは周知されていました。
 病院に訪れる不特定多数の人間からそれは子供層へも伝わり、次第に私は同級生から距離を置かれるようになりました。無視や陰口は日常で、時には暴力や身の回りの物が紛失するという事態も起きました。
 最も全ての原因が母にあるとはいいません。家柄や学力の差も起因していたのでしょうし、その頃から既に私は人より金の方が大切だというこの世の理を知っていました。集団生活を好ましく思わないのもあって、さほど問題と捉えてはいませんでした。

 「でも、お前の母ちゃんやっぱ変わってんなー」

 近所に住む男の子もそう言い不思議そうに首を傾げました。
 彼は他の子と違い陰湿な嫌がらせはしませんでしたが、思った事ははっきり口にするタイプでした。
 病院と外とを区切る柵の空いた箇所から敷地に侵入した彼は、部屋の窓際で読書する私に日焼けした顔を向けます。粗野故の擦り傷切り傷が絶えない彼が患者として我が家に来たことは一度もなく、遊ぼうという声が私の耳を素通りするのがいつもでした。

 「それで、その白い人形?はお前の妹ってことで良いのかぁ?」
 「知りません」

 『いもうと』は『いもうと』です。わたしたちのいもうと。

 母の言った言葉をそのまま准えた私に、彼は赤銅色の髪をガシガシ掻きました。唇を尖らせ「わっかんねぇな〜」などと言いますが、どのみち彼に事細かに説明したところで理解できるとは思えません。九九でさえ、全部言えるか怪しいのですから。

 「……それより、壊した柵は弁償してもらいますからね」

 最近一気に度が進んだ眼鏡を押し上げ、私は彼との間にある窓を閉めました。



 その晩だったか、私は珍しく父と家で顔を合わせました。
 診察にかかりきりな父は私の起きている時間にはまず自宅に戻りません。病院でも忙しくしているため顔を見たのは久しぶりでした。母と比べると父の方が大分年齢が上なためか、記憶にある顔より一層老けた気がします。
 特に会話を要求されたわけでも必要としたわけでもないのですが、折角なので私は以前母に訊いたように『いもうと』に関して父へ尋ねてみました。思い返すと、父との間で『いもうと』の存在を取り上げたのはあれが初めてでした。
 父は母に輪をかけて厳格な人でした。口数も少なく冷徹な父は私の唐突な質問にも眉を寄せただけで、母のように取り乱したりしません。

 ただ、気のせいかその時一瞬、私には父が口ごもったように見えました。

 何かを言いたい、けど言えない。そんな雰囲気がしたと思ったのですが、しかし、私の気のせいかもしれません。
 結局父は「早く寝なさい」と質問に対する答え以外の返答をくれ、自分の書斎へと籠りました。
 翌朝、私が学校へ行く際も帰った時もドアに鍵はかかっていました。丸一日、父は出てこなかったようです。






 それから数年後に父が他界しました。
 父に代わり病院の責任者となった母は新しい院長を任命したり保険の受け取り手続きをしたりと多忙な様子でしたが、一時手の空いた夕方、私を伴い近くの山へ出かけました。父の葬儀が明けてから三日もしない内でした。
 手配したタクシーで山を登ること暫し、中腹辺りで母は車を止めました。
 そこは見晴らしのいい、開けた崖のような場所でした。土地開発の計画が着工段階で頓挫した、そんな名残を感じる一区画です。

 「ここで待っていなさい」

 母は一緒に乗っていた私へそう命じ、車を降りました。その片脇には『いもうと』が抱えられておりました。
 『いもうと』はいつも自宅と病院以外の場所へは連れて来ませんでしたが、この日だけは母が車へ乗せたのです。
 何をするのだろう。言いつけ通りに私が車の中で待機して窺っていると、母は携帯していたバックからおもむろに裁縫バサミを取り出し、『いもうと』の頭部と胴体の境目に当たる箇所に刃を当てました。そして、バチンッ、と。力を込めて二分にしました。


 ―――その瞬間、車内に居た私の耳にはとても大きな声が聞こえました。


 悲鳴、というのでしょうか。文章になっていない、獣が発するようなひしゃがれた声です。
 吃驚した私は思わず座った姿勢から飛び上がってしまいました。
 けれど、何故か同じ空間に居るタクシードライバーは反応を示しません。バックミラーを使って怪訝そうな視線をこちらへ寄越すだけでした。
 気持ちを落ち着けた私がドライバーに声が聞こえなかったか否か確かめようとしたところ、母が戻ってきました。
 その手に『いもうと』は居ません。分割した白い塊を母が崖下へと投げ捨てたのを、私は横目に見ていました。

 「良いのですか?」

 母はずっと『いもうと』を大切に扱っていました。「わたしたちのいもうと」と言っていたその子を突然遺棄したので、流石に私も驚いたのです。
 すると車に乗り込んだ母は首を振りました。


 「お父さんが死んだから、もう良いの」


 車をUターンさせるよう命じ、母と私は二人だけになった我が家へ帰りました。





 間もなく、母も鬼籍に入りました。その間までに母と『いもうと』に関する話をすることは一度としてありませんでした。
 私は子供の時からあった病院を畳むと、自宅と共に売却し違う土地へ移りました。帰ろうという意思も理由もなかったので、そのまま移動した土地に就職、今の暮らしを営んでいます。
 なお、これは余談ですが現在の仕事場には子供時代近所にいたあの男の子も勤めています。
 彼も故郷へ帰省することはなく、昔話をする仲でもないため、私が家族について語る機会は今後ないでしょう。



 私の話はこれでおしまいです。

 あの白い物体は結局のところなんだったのか、母がどうしてそれをいもうとと言い大切にしたのか、また突然捨てたのか、聞こえた声は嘘か本当かなど、その辺りは分からずじまいです。




 ただ、私には『いもうと』が居た。




 それだけのことです。













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2012.07.31