そいつはいつも、その時間、その場所へ居る―――らしい。




巻き戻しの午後3時42分   byカンシュコフ




 その日の午後、過労労災が当たり前な職場で珍しく何もない時間を俺は過ごしていた。
 まぁ、勤務時間内だから堂々昼寝が出来るわけでもないんだけど、扉の脇で囚人を見張ってるだけってのは楽で良い。平和万歳。
 毎日こうだと良いんだけど、と思いながら俺は欠伸を噛み殺す。することのない暇で無為な時間、アンタなんかからすれば勿体ないって思うかもしれないな。でも、俺にとっては何より幸せなことだ。
 時計を見ると3時を半分周ったあたり。覗き窓に手をかける。特にタイミングは決まっていないんだが、房内に異常がないか時折確認しなきゃならないんだ。
 手狭な房は一目で端から端までチェック入れられる。壁の両端にベッドが一つずつと真ん中最奥にトイレ、鉄格子付きの換気窓。そのスペース内で二人の囚人は特に騒ぐこともなく大人しく過ごしている。
 死刑囚の04番は黙々スニーカー磨き、541番はトイレを踏み台に換気窓へへばりついている。
 本来外を覗く541番は注意対象なんだが、あえて俺は放置した。面倒くさかったのもある、それと監獄内でも指折りの模範囚が脱獄するとは考えにくいって判断だ。刑期ももうすぐ終わるしな。あと、ようやく鉄格子を掴めてる身長じゃ何か出来るもんでもない。
 扉側へ背を向けている541番は俺の目には気づかないまま、不意に04番を呼んだ。

 「ねぇ、キレネンコさん。あの人なにしてるんでしょう?」
 
 なにしてる、ってんならお前が一番何やってんだって状況なんだがな―――04番はいつもの通り無言。呼びかけにコイツがまともに返事するわきゃねぇんだ。
 分かってないのか541番は鉄格子の外から視線を外さないで、再度、

 「ねぇねぇ、あの人なにやってるんでしょう?」

 なんて繰り返す。
 ああ、なんだか呆れを通り越してすごく可哀そうな生き物見てる気分になってくるぜ……
 当然ながら04番は反応しない。スニーカーを磨く手はそのままだから寝てるわけではないし、俺のところまで届くくらいだから同室の奴はちゃんと聞こえているだろうに。「なんだ」くらい言ってやれよ。

 「ねぇ、キレネンコさん」
 「うるせぇな、静かにしろ」

 根性があるのか鈍いのか、めげずに対話を試みる541番へ俺が返事した。5分も続けるなんて諦め悪すぎだろ。

 「04番相手に何言っても無駄だってのは知ってるだろ、541番」

 ついでに早いとこトイレから降りろ。振り向いた541番のくりっとした目に脅すつもりで棍棒を唸らせてみせる。
 ビビった541番はダラダラ冷や汗を流しながら、でも、とまごついた。

 「あの人が何してるのか気になるんです、看守さん」
 「あの人ってのがまず誰だよ」
 「あそこにいる人。ホラ、塀の近くにある鉄塔のとこ」

 そう言うと鉄格子の隙間から指を指し示す。……あのな、扉前の俺がお前の指すその場所、見えると思ってんのか?
 仕方なく俺は腰に下げた鍵で扉を開錠し、房内に入る。ちらり04番を確認。奇襲にあうかと身構えたが奴はスニーカーから目を離さない。スニーカー馬鹿で助かった。
 換気窓へは数歩で辿り着く。俺の身長ならトイレに上る必要はない。ちょっと背伸びをし、541番と横並びに狭い窓枠を覗く。

 「見えますか?塀の角あたりにあるのです」

 監獄を囲む高い塀の周りには放送用のスピーカーがついた鉄塔が何本か建っている。541番が言ってるのはそのうち一つだ。
 距離があるから見えにくいが、目を凝らすと確かに人影らしきものが鉄塔の一番上辺りに見える。しかしあんな場所、普通の職員には用のないところだ。業者の修理が入るとも聞いてないし―――考えられるとしたら、脱走者か。
 折角何もないと思った日に限ってこれだ。俺は緊張するより先につい溜め息をついちまった。とはいえ、無視するわけにもいかない。
 俺は時計を確認する―――3時42分。走れば数分で辿り着く距離だろう。道中仲間に連絡して早々に連れ戻さないと、上司に締め上げられる。
 鉄格子にぶら下がる541番へベッドに戻るよう言い、俺は房を出ようとした。

 「あ、看守さん。あの人、」

 なんだよこのくそ忙しい時に。振り返ると541番がまた外を指指すんで、俺は苛々しながらもう一度窓を覗いた。
 鉄塔の上にはまだ脱走者らしき奴がいる。立ち上がってるのか、真っ直ぐなシルエットだ。
 しかし横の塀を越えられたら厄介だな。塔の先は地上より塀の方が俄然近いし、駆けつけて引きずりおろすのは結構大変―――、


 一旦、俺の独白みたいな思考は止まった。鉄塔に立つ影が僅かに揺らぐのが見えた。
 そいつはお辞儀をするように腰を折り、伸びたままの膝を下に向け、そして鉄塔に接している両足の裏が離れて、


 「看守さ―――」
 「っ見んな!!!」
 「むほぉっ!?」

 咄嗟に真横に居た541番を掴む。勢いの加減もつけずトイレから引きずり下ろした奴の上げる素っ頓狂な悲鳴に混じり、





 グシャッ。





 ……そんな音が、聞こえた。
 熟れたトマトを握りつ潰すような、生々しい音。余韻を引くでもなく、実にあっけない軽さが逆に俺の背筋を慄かせた。
 耳から得た情報と想像が瞬時に頭へビジョンを描かせる。果汁によく似た真っ赤な色をぶちまけた地面、その上に転がる正しくない向きへ関節の捩じ曲がった人型。
 もしかしたら脳みそとか骨とかも飛び散ってるかもしれない。あの高さだからそれくらい激しくても何ら、不思議じゃない。
 鬱々とした気持ちを抱え、俺はそっと鉄格子の向こうを確認した。怖いものや気持ちの悪いものを見たくないって思いつつ見るのは人間の性なんだろうかな。

 「………………?」

 けど、何故か視界の先にはそれらしい色も物体も発見出来ない。
 人影は勢いもなく、吸い込まれるように落ちてったように見えた。なら、着地地点は鉄塔の真下かその近くだろうに、俺の目には茶色い土と所々生えた草の緑しか見えない。

 (見間違えか―――?)

 その割にははっきり、落ちていく様が見えたんだが。それに、音も。鼓膜にへばりついたあの音は、鮮明に記憶となって残っている。
 ひとまず状況を確かめるべく、俺は未だに何が起きてるのかよく分かってない541番とまるで無関心な04番を置いて房から出、直接鉄塔の元へ向かった。




 …………その後の結論から言うと、鉄塔付近に飛び降り死体は見つからなかった。



 途中出会った仲間を二・三人引きつれて立ち合い兼捜索をしたんだが範囲を広げても血痕すら出てこない。
 納得がいかなかったけど、他の連中がもう無駄だろって言うのを押し切るだけの要素はない。有耶無耶なまま諦めざるを得なかった俺に、ふと、一人が思い出したように言ったんだ。


 ―――そういや、この鉄塔で昔、脱走に失敗した囚人が転落死したって聞くな。


 ……まるで取ってつけたような話じゃねぇか。おまけにオカルト。
 でも、現状と俺が見聞きした内容を合致させて考えると「お前ソレ視ちまったんじゃねぇの?」という仲間の言葉を妄言と切り捨てるのは難しかった。
 気になって職場の奴数名にも訊くと、その事故を知ってるのは半々だった。うち知ってる側からは合わせて怪談も教えられた。
 曰く、囚人が転落死した時間になると鉄塔にかの霊が現れ、もう一度転げ落ちる瞬間を再現するのだと。


 午後3時42分。


 あの時、時計を見た自分を心底ついていないと思う。







 ……それから俺はその時間が近くなる度、なんとなく担当房の中を覗いてしまう。
 時には541番が性懲りなくトイレによじ登って外を見てる事もある。俺は急いで怒鳴り、奴の目を逸らさせる。房内に入って換気窓に近づくのはまだ抵抗があるので、口だけで。喧騒を嫌う04番に八つ当たりみたいに殴られることもある。何もない時間なんて、やっぱり俺にはないんだ。時計を見る。

 ああ、また―――



 グシャッ。



 その音が今日も聞こえてくる。







――――――――――
2012.07.31