初めての贈物

 
 コンコンコンッと向こうから扉を叩く音に、カンシュコフは反射的に顔をしかめた。
 囚人からの合図は、大抵碌な事が無い。
 やれ飯がまずいだの隣のやつがうるさいだの背中がかゆいだの、 お前ら一体ここを何処だと思ってやがると吐き捨てたくなる。
 まじめに働いているこっちが薄給で喘いでいるというのに、犯罪者なんぞ豚の餌で 十分だ。所詮は社会の屑や滓の集まりだ。
 時折そんな邪魔で害でしかない連中を看守権限で打ち据える―――それは反抗的な態度の懲罰だったり、腹いせや暇つぶし紛れだったりする―――事があるが、管理側は上から下まで 一貫してその行為を黙認している。 そうでなければ殺人強盗強姦が朝飯前の極悪犯共の生活を見るなど不可能だ。
 無視してやろうか―――頭を過ぎった事を実行しても、誰かに見咎められる事はないだろう。
 ただ自分の担当するこの房の囚人は色々と厄介だった。臆する訳ではないが、要らない怪我をしてもつまらない。
 再度叩かれた扉に、カンシュコフは舌打ち交じりに重い腰を上げた。

 「―――何だ、541番。飯の時間は未だ先だぞ」

 小さな覗き窓から真丸い緑の瞳を確認して、カンシュコフは身構えていた体から力を抜く。
 扉の向こうでは囚人番号541番―――新入り囚人のプーチンが立っていた。社会の塵溜のようなこの場所に甚くそぐわない笑顔で、腰を軽く振ってリズムなんぞ刻んでいる。 開いた窓の位置へ目を持ってくるのに身長が足りないのか背伸びをしているのが、また囚人らしくない。

 「カンシュコフさん、ここは散髪の時間は無いんですか?」

 小首を傾げながら大きな声プーチンがで尋ねる。その姿に「お前一体何でこんなとこに入れられてんだよ」と思わずカンシュコフの方が尋ねたくなった。

 しかも、よりにもよって刑務所内でも指折りの凶暴囚人との相部屋。

 今の所問題は起きていないようだが、正直入所時は一週間もしない内に違う房に 移るだろうと思っていた。
 ちなみに、これまでこの共同房に入れられた囚人は大体その期間内には房を移動している。その際には悉くが、顔の半分を変形させていた。
 最もその悉くが元から潰れたような顔をした屑野郎だったので、同情した覚えはない。
 そんな狼藉者でも流石に人畜無害を絵に描いたようなプーチンには手を上げなかったらしい。
 猛獣の檻に小動物を入れたら食い殺さなかったという話と同じだ。―――単に相手にしていないだけかもしれないが。
 日向の匂いがしてきそうな生き物はここの次元には存在していないとでも思っているのかもしれない。
 かくいうカンシュコフもこの仕事に就いてから見なくなって久しい、微塵の邪念もな緑の瞳に若干居心地の悪さを感じながら、手を横に振った。

 「そんなもんねぇよ」
 「でも僕、結構髪が伸びてきちゃってて……」

 ほら、と摘んだ髪は確かにきた入所時から比べて大分伸びている。前髪などは目を通り過ぎ、小さめな顔を覆ってしまうくらいまで伸びていた。
 一応義務的に入浴の時間(という名の水をぶっ掛けるだけの行為)があるので不潔な事は無いが、顔を覆われて鬱陶しく感じるのも仕方ない。特に 太陽の下の生活を送っていた一般人にはそういった瑣末が気になってしまうものだ。
 だが、日陰者の囚人の髪をわざわざこざっぱりさせる必要などここには無い。
 カンシュコフが冷たくあしらうと、「うーん、うーん」と考えていたプーチンは、ぽんと手を叩いた。

 「あ、じゃあ鋏を貸して貰えませんか?自分で切ります」

 妙案だと言わんばかりの笑顔に、カンシュコフは思わず溜息を吐いた。

 「アホ。刑務所で囚人に刃物渡す訳ねーだろ」

 金属類はもちろん、食器の破片まで刑務所では囚人の手に渡らせない。一見凶器に見えないようなものでも、囚人が持ったとたん武器になる可能性はある。 労働作業で仕方なく扱わせる際は武装した看守が目を光らせている。暴動にしろ脱獄にしろ、囚人が引き起こす問題は直接管理側の生命に関わるのだ。 神経質にもなろうはずである。
 そう思うと、つくづく看守などという仕事に就くのではなかったと後悔する。最も飢饉に喘ぐ農夫も倒れるまで槌を振るわせられる職人にもなりたいとは思わなかったが。 どちらがマシか比べても大差ない。どんな職業に就いても、自分達は搾取されるだけなのだから。

 「じゃあ他の囚人の人達はどうしてるんですか?」
 「どうするって、お前。そりゃ、伸ばしっぱなしの放りっ放しだ。そいつみたいにな」

 目をずらしてもう一人の囚人―――04番のキレネンコを示す。
 この刑務所で知らない者はいないであろう噂の死刑囚も 今は大人しくスニーカーを磨いている。
 何を考えているのか解らない無表情がまた癪に障るが、かといって理由無くどやすわけにはいかない。というより、理由がないなら積極的に関わっていきたくない。理由があってすら関わりたくはない。
 その猫背ぎみの背中には鮮やかな赤髪が届いていた。
 長い髪は囚人の身分でありながら頭垢や脂で汚れていない。意外と潔癖なこの男の一面が垣間見えるようだ。
 それから、とカンシュコフは握った拳で頭部を撫でる仕草をした。

 「後はなぁ……バリカンで丸刈りにするか、だ」
 「ええーっ!?坊主ですか?それはイヤですー!」
 「だろうな」

 頭を押えて後ずさりしたプーチンに、カンシュコフは頷く。一応ここではそれが散髪と呼ばれる行為に当たるのだが、絶対にありえないだろうと思って言わなかったのだ。
 やってみるまでもなく、確実に似合わない。
 ごつい凶悪犯なら様になるそれも、童顔でチビなプーチンがすれば道化にしか見えないだろう。若しくは鼻を垂らしている年齢程度の子供か。
 そんな訳でプーチンの髪は必然的に伸ばしっぱなしに決まったようなものだった。
 肩を落としてしょげている小さな囚人に「ま、括るなり何なりで良い様にしろ」と慌てて告げ、カンシュコフは覗き窓を閉めた。







 「ほふー……残念だなぁ。でも、坊主はイヤだしなー」

 だってきっと、冬になったら寒い。
 薄っぺらな囚人服と防寒対策ゼロの監獄では自分の毛も立派な防寒具だ。襟巻きの代わり位にはなるだろう。
 ただ、普段の生活で伸びすぎた髪をそのままにしておくのは些か不便だった。踊っていると邪魔になるし、食事の時に間違って食べてしまう。

 「でも括るものなんてないしなー……どうしよ」

 荷物の大半は入所時に取上げられてしまった。ゴムにしろ紐にしろ、手元に髪を括れそうな物は見当たらない。
 暫く少ない所持品を漁っていたプーチンは諦めてベッドに手をついた。
 広くない房の中では自然、視線は自分のベッドがある側と反対の壁側へ目が行く。そうなると必然的にそこに座っている同居人の様子を眺める事になってしまう。
 向かい合う形になっているにも関わらずキレネンコの方はプーチンには興味がないようで、磨いたスニーカーを片目眇めてチェックしている。
 ワックスで丁寧に磨かれたスニーカーが艶を放っていた。
 仕上がり具合に納得したように僅かに頷くと、今度は抽斗から靴紐を取り出す。何種類かの靴紐を磨いたばかりのスニーカーに当てて色合いを吟味する。そのうちの一本に決めたようで、 キレネンコはスニーカーについている靴紐を解きにかかった。
 詰まる事なく動く長い指は、優雅な印象すら受ける。

 髪を伸ばしたら、少しは彼のようにクールな感じになるかもしれない。

 未だに公共機関を子供料金で利用出来てしまうプーチンは、なら髪を伸ばすのも良いな、とあっさり納得した。
 意外と器用なのか、靴紐はあっという間に外された。
 キレネンコは外したばかりのそれを暫く眺め―――ぺっ、と。
 宙へと、弾いた。
 持ち主の手を離れた靴紐が緩やかな弧を描く。そのまま投げた方向、ぷらぷらと揺らしているプーチンの足元へ飛んで―――くる前に、レニングラードの舌に捕らえられた。

 「ほぅっ!?それは食べられないよ、レニングラード」

 もっしゃもっしゃと動く蛙の口を、プーチンは慌てて開く。
 幸い飲み込まれる直前だった紐は引っ張り出すことが出来た。微妙に湿り気を帯びたそれは 爬虫類の口に入った所為ではないだろうが、草臥れたように見える。
 取り出した靴紐を握り、プーチンはベッドから跳ね降りる。
 てててっと軽い足音を立てて、新しい靴紐を通しているキレネンコの前へと立った。

 「はい、キレネンコさん」

 差し出された靴紐に、しかしキレネンコは顔を上げない。見えていないのだろうか、とプーチンが更に腕を出そうとする。
 と、その手首ががっちりと掴まれた。
 掴んだ相手は顔を上げないまま、相変わらず靴紐を通している―――勿論、プーチンを掴む手と反対の片手だけでだ。
 大して力は入れていないように見えるが、実際は捕まえられている位置から前にも後ろにも腕が動かせない。
 きょとんとしているプーチンの手首は、掴まれたそのままに握り潰される―――という事はなく、ぐいっと押される力を受けて肘を自分側へと曲げさせた。自然靴紐を握る手は キレネンコから遠ざかり、プーチンの胸元へと追いやられる。
 自分の方へ押しやるかのような動作にプーチンは瞬きを繰り返すと、小首を傾げた。

 「これ、要らないんですか?キレネンコさん」
 「…………」

 無言。だが、掴む手は更に手首を押しやる。
 若干強くなった握力に普通は「何当然の事聞いてやがる」という気配を感じ取りそうだが、残念ながら掴んでいる相手は 普通とは微妙にずれているためそれは功を奏していない。
 一応要らないという意思だけは伝わったようで、プーチンは大人しく腕を引く。手首を掴む手もそれは阻止せず、 あっさりと長い指は外れた。
 両手で靴紐括りを再開したキレネンコの前で、プーチンは握った靴紐を眺める。

 少し草臥れてはいるけれど、切れているわけでもなく靴紐としての機能は未だ十分残っている。スニーカーとの相性が悪かったのだろうか。
 要らないと言ってたが、それはゴミとして捨てたという事だろうか。でもゴミ箱は彼のベッド脇にきちんとある。捨てるなら腕を伸ばすだけで届く距離にあるゴミ箱へ入れるだろう。
 と、いう事は。

 「―――ほぅっ!ひょ、ひょっとして、これ僕にくれるんですか?」

 ぴこーん、と電球がつくように浮かんだ推理に、靴紐とキレネンコとを交互に見やる。
 返ってくるのはやはり否定でも肯定でもない無言だけ。
 だがプーチンは聞き返す事をしなかった。はっきりと否定されない限り、大体において好意的肯定的に受け取るのがプーチンである。
 まん丸な瞳を輝かせ、今にも喜びのコサックを踊りそうな勢いで手の中のものを掲げた。

 「じゃあじゃあじゃあ!これってプレゼントですか?プレゼントですね!」
 「…………」
 「うわー、嬉しいなぁ!この紐なら髪も括れるかな?どう思います、キレネンコさん?」
 「…………」
 「有難うございますキレネンコさん!そうだ、僕もまたお返ししますね!」
 「…………」

 一人で会話をするというある種の才能を見せながら、プーチンは上機嫌に跳ねる。

 後でこの靴紐で髪を括ってみよう。きっとクールな感じに仕上がるに違いない。
 それから、彼へのお返しを考えよう。ここに来てから初めて貰ったプレゼントへの、素敵な贈物を―――

 心なしか粘液でベタベタと湿っている靴紐を掲げて踊るプーチンの向かいで、きゅっと真新しい靴紐を結ばれたスニーカーが一足、仕上がった。

 




 



――――――――――おまけ


 「キレネンコさん!これ、どうぞ!!」
 「………………」

 ずいっと広げたスニーカー雑誌への視線を遮る様に、目の前に突き出された腕。

 言うまでもなく、非常に邪魔だ。

 顔の前にある腕を押しやろうと手を上げ―――キレネンコは、そこに握られている物体を見つけて止まった。
 黄色い、ふわふわとした綿毛のような物体。丸い綿ぼこに、申し訳程度に長さのある綿がついている。
 これは何か―――自己への問いかけからコンマ一秒程度で弾き出された答えは言うまでもない。
 これは、塵だ。人の目の前に持ってくるような代物ではない。
 若干睨みを利かせて突き出された塵の更に向こうへ目をやると、自由な一人生活を破壊してくれた相手―――所謂同居人―――の間の抜けた顔があった。
 一体何が可笑しいのか、入ってからずっとへらへらと浮かべた笑顔は変わらない。伸び始めた前髪をここ最近天辺で結んでいるのが唯一の変化だが、別にそんな事は キレネンコにはなんら関係がない。あえて感想を言うなら、間抜けっぽさが増長したようだ。
 目が合うと、前髪を括った同居人はへらっとした笑いを一層強くすると、更に腕を突き出してくる。
 結果として塵も近くなる。
 眉間の皺が深くなるのが自分でも分かった。叩き落とす―――その意思を代行しようとした腕は「この前の、お返しです!」という言葉に再び止められた。

 お返し、とは何のだ。

 怪訝そうな目を読み取った―――わけではないだろう確実に言いたい事がたまたま返答として成り立つものだっただけだ―――プーチンは空いている方の手で自分の頭の天辺を指した。

 「この前のこれ、貰ったプレゼントのお礼です!」

 言われ、成程―――と納得する。
 塵のお返し(むしろ仕返しか)には、塵か。間の抜けた顔をしている割には、中々高等な嫌がらせを仕掛けてくる。
 さて殴るのと蹴るのと絞めるのはどれにしてやろうかと思案しているキレネンコの思惑などやはり理解せずにプーチンが続けた。

 「何を贈ったら良いかずーっと考えてて、でも僕ここに来たばっかで自分の物ってまだあんまりないんです。
  だから、持ってる物の中でこれが一番綺麗かなーって思って」

 どうやら持ち主の審美眼からすれば、この黄色い綿ボコのような塵は綺麗な物らしい。道理で来て大して日も経っていないのに部屋の反対側の空間が 魔窟のような散らかりを見せているわけだ。その魔窟を構成する中から取り出された塵―――一体、何を渡そうとしているのか。
 塵に触れるつもりはないので、視線だけで問いかける。
 半眼の赤眼に、プーチンは最大級の宝物でも自慢するように胸を張った。

 「これはね、コマネチの羽です!ねっ、綺麗で―――ほぎょぉっ!!!」

 スパーーーンッ!と鋭い音を立て叩かれたプーチンが羽をくれたヒヨコの友人へ頭から突っ込んでいった。
 響き渡る鳥類の立てるものではない悦った鳴き声と硬質な衝突音。それに振り向くことなく、キレネンコは掴んだスニーカーを飾っている場所に戻して雑誌を捲った。

 結論。塵は結局塵だ。

 



――――――――――
2010.2.23
結構色んな所で見かけるプーチンの髪留め靴紐説。
あると思います!