Are You Happy?

 


 パリンッ!



 ―――擬音語にするならこれほど明瞭で、且つ、限定的な音もなかろう。

 ソファから飛び上がったカンシュコフの驚きも一瞬だった。前出の通り、音を聞いた時点であらかた予想が出来ていたからだ。
 反射的に向いた首の先、まずは目に入るのは巨大な鉄の塊。
 通された際一番に「何だコレ」と思った、部屋の中心を占拠する物体。犬のような兎のような、よく分からないオブジェは元々は動くロボットだったと説明された(が、自走できそうな箇所は何処にも見当たらない。何より設計者の感性を問いたくなるほどに、甚だしくセンスに欠け ている)。奇抜なそれを飛び越えると、すぐ間続きのキッチンが広がる。
 鍋や皿が流しへ積まれているものの、割と整頓されている。監獄に入っている間は勿論料理なんてしようがないから知らなかったが、自炊出来るタイプだったのだ。仕事ぶりに評判のあった器用な手先を考えれば納得でもある。使い込まれた調理器具からは生活感が漂い、図らずもここの住人が充実した暮らしを送っている事をカンシュコフへ伝える。
 人懐っこいあの笑顔を浮かべながら、手ずから作った温かい料理を振舞うのだろう―――想像すると安心したような羨ましいような妬ましいような、表現しがたい気持ちになる。
 お玉片手に白いエプロン揺らして「おかえりなさいっ」とかなんとか、自分を出迎えてくれた日には即昇天出来よう。むしろ現世が天国。
 しかし、残念ながら今キッチンにいるのはエプロン姿でもなければ、天使でもない。

 ぼうっと、木偶の坊のように突っ立つ野郎一人。

 赤髪に覆われた無駄に高い背がそれより向こうを隠しているが、さほど障害ではない。結論から言えば問題はその足元、磨かれたスニーカーの先で起きていた。
 飛び散った無数の破片。粉々、というのがぴったりな様相。むしろそれ以外の表現見当たらない。そこから視線を少し上げてみる。すると、食事用とは別の丸皿が飾られていた。民族調の絵柄が可愛らしいそれらは当然そこの男の趣味ではあるまい。
 で、同じような間隔で並んだ内のその一画。不自然に空いた隙間を見つければ、外れる要素はない。

 「割っちまってやがんのー」

 あーあ、とわざとらしく呆れた声を上げると、向こうの肩がピクリ動く。ゆっくりスライドし自分を捉えた赤眼に、カンシュコフはとびっきりの人の悪い顔で嘲笑ってやった。鋭い歯を覗かせた笑みは多分、ここ最近で二番目に輝いている。


 ―――ちなみに一番は言わずもがな、かつて監獄で担当していた囚人の一人と再会した時である。


 当時と変わらない澄んだ深緑の瞳が見開かれた瞬間は忘れられない。そして、当時より幾分丸くなった頬が柔らかく綻んだのも。カンシュコフはあの日、生まれて初めて神仏の存在に感謝した。
 勿論、本来ならば喜ぶべきところでないのは分かっている。相手は全国手配の脱獄犯、見つけたなら取るべきは迅速な通報のみ。それが市民の義務でもある。個人の感情など関係ない。罪人である以上、法の下照らされ然るべき償いを全うせねばならな いのだ。
 しかし―――刑期も明ける直前、盗みも殺しも犯していない模範囚が、そんなに大罪人なのか?
 服役する三年の間に、かの囚人の心が優しく美しいことをカンシュコフは誰より知っているのだ。
 久方ぶりの笑顔を見せた後、「迷惑かけて、ごめんなさい」と管理不行き届きの問責を受けた自分を慮って表情を曇らせた彼を。また、暗く寒い檻の中へ追いやるのか。
 考えて、考えて、考えて。頭がこんがらがる程に悩み迷った末―――カンシュコフは、過去と現在に整合を取らせた。

 即ち、今このへんてこな家に住んでいる賑やかな青年は『プーチン』であり、脱獄犯『541番』は未だ人々の目を掻い潜り逃走中、と。
 精鋭ぞろいの民警にさえ背中を追わせる食わせ者が、こんなのほほんとした、ごく普通のチビであるはずがない。
 だから『友達』になっても、大丈夫だ。

 まぁ言ってしまえばただの方便、暗示にすぎないのだが。嘘も思い込めば局所的な真実に成り代わる。少なくともカンシュコフはそれで納得できた。
 ただ、一つ。納得しかねる内容があるといえば、ニコニコ笑うその横に無表情の死刑囚まで居る点だろう。
 縫合痕もはっきり写った、指名手配書の顔写真がいかにも極悪犯然としているのは当然だ。元犯罪組織の首領は平気で人も殴り殺せるのだから。ヤツこそ紛れもない犯罪者。すぐさま通報を、SWATを配備して一斉掃射を―――!
 ……と、思ったものの。他でもないその超危険人物と一緒に暮らすプーチンから、

 「一緒に居たいんです」

 なんて。はっきり言われてしまっては、ダイヤルを回す手も止まってしまう。上目遣いに真っ直ぐな目で見られるのは、覗き窓を通していた頃から弱かったのだ。
 でも、誰も知らない場所で二人きりなど心配だ。折角無事が分かったのに、キレた相手の手にかかり二度と相まみえなくなったら今度こそショックで立ち直れない。
 ―――その結果、プーチンと親交を深める兼その身の周りを監視するべく、カンシュコフは暇を見てはこの友人宅へ訪れているのである。
 ほぼ休みなしの職場で頻繁に有給を申請するため同僚上司の視線は冷たくなるばかりだが、愛しい存在を思えばなんのその。いずれ通いではなく同居になって、そのうち同棲、新婚生活へと―――



 話を元に戻そう。



 目的たるプーチンは現在、留守にしている。
 来た時は居たのだが、買出しを忘れていたらしい。困ったようにに眉を下げる相手へ「気にせず行ってこい」とカンシュコフは軽く笑ってやった。彼としても『お客さん』でなく、気の置けない仲として扱われる方が好ましい。
 なので、もてなし不要と説得し、兎ロボット(便宜上そう呼ぶ事にする)へ貼った買い物メモを片手に走っていく後姿を見送った。
 それから暫く。自分とは別にもう一人家に居る存在を極力意識せず大人しく待っていたところ、コレだ。
 立ち尽くす04番―――いや、プーチンを541番と別けるなら、ヤツの事も囚人番号で表してはならないのだろう―――もとい、キレネンコは黙ったまま。あちらもまた、来訪したカンシュコフに対し挨拶一つするでない。終始やたら草臥れたスニーカー誌を読み続けていた。
 が、今その手にあるのは彼気に入りの雑誌でなく、ジャムの瓶。
 プーチンが用意していったサモワールのお茶に入れるつもりだったのだろう。見かけによらず、甘党であったから。
 だが、部屋の間取りから見ても、キッチンはキレネンコの領域ではない。それが証拠に持っている瓶は未開封の物である。棚には使いかけのジャムがあるにも関わらず、だ。普段使わない場所だから取りやすい棚の方のには気づかず、高い場所で保管している新品が目に付 いたらしい。そして、腕を伸ばして取った際、誤まって近くへ飾っていた皿に当たり落としてしまった―――と。

 ドジである。馬鹿である。壊すしか能がない、社会不適合のダメ男である。

 ここぞとばかりにカンシュコフは心の中罵る。皿を割られたプーチンには気の毒だと思うが、今の[・・]キレネンコとも反りが合わないカンシュコフにとって向こうの失態は歓迎すべき事柄。喜んで貶して何が悪い。

 「うっわ、ひでぇ有様だな。こりゃあプーチンが帰ってきたら確実に泣くぞ?怒るぞ?『こんな乱雑な人もうイヤです!別れます!!』とか言われちゃうぞぉ~―――ぶがっ!」
 
 もっと責めてやろう。そう思いニヤニヤしながらキッチンに近寄ったカンシュコフの横面へ、綺麗に瓶底がめり込んだ。
 ガクリ崩れ落ちる背中に冷ややかな視線が降るのを感じる。顔を上げれば、赤眼に映る感情を怒りから無に切り替えたキレネンコがヒビの入った瓶で床を指した。


 「直せ」


 ―――相変わらず、なんて横柄な奴。


 いっそ爽快なほど昔と変わっていない。従うべき囚人の分際でアレコレ命じてきたのと、全く、同じ。もう記憶に誤魔化しさえ効かない、この尊大さ。横暴さ。痛いのと腹立たしいのとでカンシュコフはギリギリ歯軋る。
 壊しといて偉そうに言ってんじゃねぇよせめて見下すの止めろ、と思わず怒鳴りたくなるが、何とか精神力で堪える。先程の一撃から分かるように、監獄と違って身を護る扉がない分一層不利だ。(最も、鉄板の扉を挟んでも毎度折りたたまれてしまっていたが、)

 「こんな粉々なの、直るわけねーだろうが」

 天井近くから床へ叩きつけられた皿は見事なまでに木っ端微塵。くっつけようにも接合面がないし、絵柄もさっぱり。パズルのように時間をかければいつか完成する、なんてレベルではないのだ。第一、持ち主のプーチンが帰ってくるまでさほど時間もないはず。
 意地悪く喜んだカンシュコフとて、この光景を目の当たりにしてしょげるプーチンの姿は見たくない。どうせなら綺麗に直してやって、喜ばれついでに株を上げたいくらいなのだが。完全に、お手上げである。
 無茶振りしたキレネンコも、流石に復元が無理なのは分かったのだろう。黙って破片を見つめている。
 色と相反して熱の宿らない双眸には、反省も狼狽も見受けられない。ひょっとしたら、あくまで自分に非がないなどと不遜な考えを巡らせているのかもしれない。

 ただ―――かつて監獄に居た時なら、早々にその目は足元から外れていたはずだ。
 何もなかったかのように定位置へ戻り、皿が割れた事自体忘れたに違いない。
 他人にとって大切であろうと、自分には無価値。熱の篭らない目でそんな考えを隠そうともしない死刑囚だから、尚更、カンシュコフは彼が気に食わなかった。

 その気に食わない奴が、立ち止まっている。
 注いだお茶も冷めてしまったことだろう。雑誌も読みかけにしている。それでも、動かない。

 「…………」

 時間ごと止まったような空気の中、カンシュコフはガリガリ金髪を掻いた。何度か首を振り、深く息を吐く。

 「あのなぁ……誤魔化そうとかセコイこと考えないで、素直に謝れよ」
 「……謝る?」
 「そうだ。頭下げて『悪かった』って詫びろ。心底から反省して見せろ。あのお人よしのプーチンの事だ、そこまでは怒らねぇだろ」 

 よしんば皿を繋ぎ直せていても、一度壊したのは事実。どのみち謝罪は必要な事である。なら、潔く過失を認める方が少しは誠意が伝わろう。
 まぁ、キレネンコも割ろうと思ってやったわけではなし。事情を話せばそう難航せず赦してもらえるだろうと予想する。
 あとは自ら頭を下げるなど今までの人生で一度もなかっただろう、この俺様天下がちゃんと「ごめんなさい」を言えるかだが―――謝る、と小声で繰り返すのを見ていると、若干不安が残る。果たして赤髪の下の辞書にそんな単語は載っているのだろうか。
 仕方ない、礼儀知らずの箱入り男(ブタ箱という意味ではない)へレクチャーの一つでもくれてやろう。
 血も涙もないと思っていた元担当囚人から垣間見えた人間らしさに、幾分寛大な気持ちでカンシュコフは歩み寄ろうと―――

 「ただいまです~」
 「ッダ!?」

 した瞬間、開かれたドアから陽気な声が入ってきた。同時に、金髪の後頭部が瓶で殴打される鈍い音が上がる。
 前のよりも強い一撃に、庇う間もなくカンシュコフの顔面は床へと衝突―――丁度、破片の上へ着地した。粉々でも、砕けた陶器は大層鋭利である。

 家中に響き渡る、大絶叫。声に消されてしまったが、グサササッ!と突き刺さる音が、確かに聞こえた。なまじ量が多いだけに大きな傷より痛い。

 腕の良い整形外科医の手配が必要か心配される最中、両手に荷物を携えたプーチンが兎ロボットの向こうからひょっこり顔を覗かせた。

 「あれ、二人ともお腹が空いたんですか?丁度良かった、ケーキ買ってきたんで食べましょう!」
 「…………」

 応接用のソファでなくキッチンに居る二人を見ておやつを探していると勘違いしたらしい。ニコニコ、ケーキの入った箱を掲げ微笑む。自分の居ない間に何か起きてはいないか、などという疑念は一片も抱いていない。
 早速皿とフォークを準備しようと脇をすり抜けるその背をキレネンコの赤眼が追う。
 が、一文字の口は引き結ばれたまま。プーチンを呼び止め、口火を切ろうともしない。
 あわよくばこのままやり過ごそうとでもしているのかもしれない。実に誠実さに欠ける、卑怯にしか見えない頭上の姿勢に、


 「―――ぁぁあああっ!もう許せねぇ!!!許しちゃおけねぇっ!!!」


 ついに、カンシュコフの忍耐が爆発した。


 「くそっ、ちょっとでもマトモに近づいたと思った俺が大馬鹿だったよっ!おい聞いてくれプーチン!」
 「あ、カンシュコフさん。苺ショートとチーズスフレとガトーショコラ、どれが好きですか?お客さんだし一番最初ににどうぞ」
 「ん?ああ、お前先に選べよ。それに客扱いもしなくて良いって―――じゃなくて!」

 つい横へ逸れかけた話に、慌ててカンシュコフが首を振る。頬肉がピリピリするが構わず、起きたこと全て洗いざらいぶちまけた。

 「聞けプーチン!この冷血非道な元死刑囚はなっ、留守中お前が大切に飾ってる皿割りやがったんだぞ!
 俺は素直に謝れって言ったのに、コイツときたら頭一つ下げやしねぇ!それどころか割った事隠蔽しようとまでしやがったんだっ!
 悪人なのは知ってたけど、根性まで腐ってやがらぁこの犯罪者ぁっ!!」
 「お皿?」

 緑の瞳がクリリと丸を描く。その目へよく分かるよう天井と床を交互に示すと、人よりちょっと鈍いプーチンにも漸く理解が及んだ。
 あ、と開いた口に合わせ、深緑が微かに翳りを帯びる。

 「あー……割れちゃったんですかぁ……」
 「そうだっ!最低だろ!?愛想尽きただろぉ!?思いっきり怒れ!殴れ!何なら俺が代わりにボコボコにしてやっから、遠慮なく離縁状叩きつけろ!!!」

 殺気も十分なカンシュコフは今にも殴りかかりそうな勢い。制裁の代行を頼んだら最後、向こうの息の根が止まるまで拳を止めないのではないか。実際、今までの積もり積もった恨みも込めると自分の将来やら命やら全て捨てて殺りに走りかねない。
 そうなるとここは前科者ばかりが集う、再び悪の巣窟と化すわけだが。

 「割れたものは、仕方ないですよねぇ」

 しみじみ呟く一言へカンシュコフは「そうだそうだっ!」と激しく同調し―――思考含め、止まった。何が、仕方ない?
 腕を振り上げた格好で固まる彼に、向き合うプーチンは微笑みを浮かべてみせる。そこに束の間落ちた影はなく、すっかりいつも通り。穏やかそのものの様子に、思わずカンシュコフの怒りまで削がれかける。

 「ぅ、え?で、でも、お前ソレ、気に入ってたんじゃ……?」
 「そうですねー、とっても可愛いお皿でしたから」
 「だろ!?だったら割られりゃ腹も立つだろっ!」
 「ん~……でも、仕方ないことですし」
 「仕方ないことあるか!」
 「だって、わざとじゃないんでしょう?」

 こてん、傾げた首が尋ねているのはカンシュコフではなく、その隣。当事者―――というかカンシュコフに言わせれば元凶以外の何者でもないキレネンコは無言のまま、数回瞬いた。
 横から見る限り、単なる生理現象の一種にしか思えなかったがそれだけでプーチンは大きく頷く。

 「ね?意地悪とかじゃなくて偶然割れちゃったんだから、これは仕方がないことなんですよ」

 腹水盆に返らず、形ある物はいつか壊れる。割れてしまった以上は相手を責めても仕方がない。
 まるで悟ったように言うプーチンに、けれどカンシュコフは唸る。
 確かに言っている事は分からなくもない。どんなに憤っても皿が割れる前まで時間を巻き戻すことは不可能なのだから、怒るだけ無駄だといえばそうだ。わざとじゃないというのも一応事実である。
 だが、毛ほども変化しない表情といい腰から上曲がらない長身といい、どう客観的に見てもキレネンコに反省の色は皆無。こんな態度を取られて、どうして悪気がないからとあっさり許せよう。到底納得できない。

 「で、でもなぁ……」
 「お皿はまた買えるから大丈夫ですよ。それに、新しい素敵なお皿と出会えるかもしれないし!」

 素晴らしきポジティブ精神。流石獄中生活を三食タダ飯昼寝付きと喜んで送っただけのことはある。
 これ以上どんなに不平を説いてもプーチンが考えを反転させることはないだろう。下手に食い下がって皿一枚許せない心の狭い奴だと思われたらそれこそ本末転倒、とんだとばっちりだ。カンシュコフも諦めるしかない。
 渋々ながらもカンシュコフが折れたことによって、この件はとりあえず無事解決。何事もなかったように再びおやつの用意へ取り掛かろうとしたプーチンだが「そうだ!」と言い、ケーキとは異なる箱を手に振り返った。

 「キレネンコさん。お買い物の途中靴屋さんの前通ったら、これをキレネンコさんにって頼まれたんです。新しいスニーカー、予約してたんですよね?予定より早く入荷したんですって!」

 スニーカーの一語を耳にした途端、紅い瞳がキランと光を宿した。
 今まで何を言われようとずっと無感情を貫いていたのに、この反応。いそいそ両手を出す相手へ、カンシュコフは多いに呆れ返る。
 気にしていないらしいプーチンは「良かったですね!」と素直に喜びを共感しているが、どう考えたって不謹慎だろう。嬉しかろうと自重して当たり前。一言も責めなかったプーチンに対し失礼だ。自身でもちらとも罪悪感が疼いたりしないのだろうか。
 やっぱり、監獄に居た頃から変化したと思ったのは気のせいだったんだろうな―――目に見えない喜色の空気を真横で感じながら、カンシュコフは肩を落とした。
 最早腹を立てる気力も湧かず、何だか空しささえある。どうしようもない奴だと決め付けていた反面、プーチンが共に居ることを選ぶだけの何かがきっと、どこかしらにあるのではないかと推測したのだが。
 やるせない溜息をカンシュコフが吐く。矢先、

 「……―――ぅ」 
 「!?」

 掠れたような空気の振動に、バッと隣を見上げる。その時既に横へ姿は居なく、首を更に捻ると赤髪揺らして歩く背が目に入った。
 スニーカーの箱を携え、自分のスペースへ一直線。振り返りもしない後姿を、カンシュコフはなんとも表現しがたい、複雑な表情で見送った。







 「…………なぁ、プーチン」
 「はい~?」

 鼻歌交じりにケーキを皿へ移すプーチンの傍ら、カンシュコフはせっせと床を掃く。で、割った本人はというと靴の鑑賞に忙しそう。手伝いを申し出たのは自分だが、些か釈然としない。
 というボヤキは言っても仕方ないので破片と一緒に塵取りへ押し込み、代わり今最も気になる事を口にする。

 「アイツ、変わったか?」
 「キレネンコさんのことですかー?」

 まぁ、それ以外に三人称で示す相手は此処にはいない。ああ、と小さくカンシュコフは頷く。
 カンシュコフが知っている限り、キレネンコは同室のプーチンが食事を運ぼうとトイレを譲ろうと、一度たりとも感謝を示したことはなかった。謝るのと同じくらい、世話を見てもらったら礼を言うという一般的な常識がかの囚人には備わっていなかったのだ。当たり前だが、それよりも っと長く面倒見てきたカンシュコフも扉の向こうからお礼を言われたことなんてない。

 ―――だから余計、プーチンの共同生活が不安に思えたのだ。
 どんなに甲斐甲斐しく尽くしても、尽くさされるだけ。労わられることなく小間使いのように扱われる彼が、いつか、辛くなる日が来るのではないかと。
 例え、それがプーチン自身望んだ生き方の末であっても。『友人』の不幸を、カンシュコフは望まない。

 プーチンが、うーんと首を傾けた。

 「特に変わりないと思いますよぉ?静かだし、綺麗好きだし、スニーカーも大好きだし」
 「まぁ、確かにその辺は変わってねぇみたいだけど……」
 「あと優しいのも昔からですしね!」
 「いやそれはないから」

 冗談でない本心を同じく正直にカンシュコフは否定する。優しい奴は人の顔で自分の不始末を覆い隠したりしないものだ。顔中絆創膏だらけのカンシュコフにとってそこは譲れない。
 ダメだ、全く参考にならない。唯一今と昔の比較が出来るプーチンがこうなのだから、もう主観の通り昔から変わらずの無愛想でキレやすいフーリガンと捉えれば良いだろうか。所詮評価は人それぞれなのだし。
 なら、とカンシュコフは質問を変える。

 「お前―――今、幸せか?」

 一般人の立場を捨て。友達も居ない見知らぬ街に来て。
 捕まるかもしれない危険と隣り合わせで。
 煮ても焼いても食えない同居人といつも一緒に居て。

 皿が割れる程度、確かに大したことじゃないと思えるような生活―――懸念が、解消されたわけではないのだけれど。

 箒で最後の欠片を浚ったカンシュコフは、向けられる満面の笑みに「そっか」と笑い返した。




 君の幸せを、一番に望むよ。




――――――――――
2011.01.29
プチ・キレ・マシンに載っていた家設定が凄かったので、つい。