ぼくが生まれた日。

 

 目を覚ました時、壁の向こうの太陽は随分高い位置まで昇っていたらしい。
 カーテンを透かし差し込む陽光は明るい。本来なら、既に着替えて家事に取り掛かっているはずの時間帯。

 いけない、寝坊だ―――

 叩いた覚えがまるでない目覚まし時計を尻目に、慌てて跳ね起き。時計のすぐ脇、立てかけたカレンダーへ視線を移してからはたと思いなおす。


 そうだ。今日は陽が高くなっていても構わない。ご飯も洗濯も、慌ててする必要ないのだから。


 ホッと安堵の息を吐き、寝台に付いていた手足を伸ばす。早起きが苦なわけではないが、時間を気にすることなく心ゆくまで眠れるのは大変幸せな事だと思う。久々に貪った惰眠は実に格別だった。
 このまま二度寝してしまおうか―――目の前チラつく誘惑の手を取り、夢の国へ逆戻りするのだって今日は自由だ。体温を吸ったシーツは丁度良い微睡みを与えてくれよう。
 どぉーしよーかなぁ~、なんて。ベッドの中でゴロゴロ逡巡すること暫し。その行為自体ひとしきり楽しんでから、お決まりのパターンでむっくり体を起こす。
 ふわぁ、と気の抜けた大きな欠伸ひとつ。それが終わるのを待っていたかのように、耳元へ小動物の声が届いた。

 「コマネチ、レニングラード。おはよう」

 寝癖があちこちついた顔を向ければ、異なる鳴き声が揃って返事寄越す。
 とても仲良しなペット二匹は大抵片方へ同化して居るのだが、今朝は珍しく別個である。
 そしてもう一つ、普段と違うところ。

 「なぁに、くれるの?わぁ―――四葉のクローバーだ!」

 ぴょんと枕元へ飛び乗ったコマネチとレニングラードの、それぞれ口元に咥えたもの。差し出された幸福を呼ぶ四枚の葉に、思わず感嘆の声上がる。
 そういえば最近、ずっと庭に出て何かしていた。まさか自分のためだったなんて。小さな体の二匹が一生懸命探してくれたのだと思うと、感激もひとしおだ。
 早速これは押し花にしよう。

 「ありがとう、大切にとっておくね」

 改めて二匹へお礼伝えると、ピィピィゲコゲコ、あちらも嬉しそうに鳴いた。
 幸せな気分に後押しされるよう、ベッドを飛び降り、着替える。
 お気に入りのシャツに袖を通し、前髪を括って。リビングへ続く廊下に、そぅっと滑り出し―――一気に、駆ける。
 真っ先に向かうのは洗面所でも台所でもなく、玄関。抜き足差し足、でもスキップが混ざりかける足で一直線、あっという間にドアの前に到着した。
 その正面へ取り付けられた新聞受けに回収する朝刊はなく、代わりに茶封筒らしきものが端を覗かせている。やった、とついその場で飛び跳ねてしまった。
 職場の備品と思しき簡素な封筒を手に取る。宛名と差出人を確認、間違いない。期待と興奮で高まる心臓を押さえ、急いで封を切る。
 中には、十数枚の写真が入っていた。

 全体的にくすんだ色した大きな建物、頑丈そうな門扉に鉄格子。それから、一時世話になった懐かしい顔ぶれ。

 「あっ、ロウドフさん面白いポーズ!こっちのゼニロフさんの手は、撮影代出せってことかな?ショケイスキーさんも元気そうだし、皆お仕事頑張ってるんだなぁ~」

 殺伐した場所柄と対照的な賑やかな面々にクスクス笑いが込み上げる。公に出来ないこちらの事情は伏せたまま、あちこちでシャッターを切ってくれたのだろう。
 何枚か目には彼自身が映っていた。ちょっと照れたような、歯を覗かせた笑い顔。当時はもっぱらイジワルを企てる目だけ見ていたから、なんだか新鮮だ。
 次々めくっていき、最後の一枚。見覚えのある一室の壁に空いた大きな穴をアップで撮影したのは、彼なりの揶揄なのかもしれない。
 茶封筒には、写真の他に手紙も入っていた。びっしり字の並ぶそれは、後でゆっくり読むことにしよう。

 封筒を大事に懐にしまい、ドアを開ける。

 一歩外に出てから、またまた歓喜に両手を挙げた。
 ルーフ付きのポーチに置かれている箱は、最近街で評判なケーキショップのもの。
 雑誌やラジオでもしょっちゅう取り上げられ、あっという間に売り切れてしまうらしい。買おうと思ったら朝早くから行列に並ばないといけないのだとか。自分もかねがね食べたいと思っていたのだが、あまりの入手困難な具合に諦めざるをえなかったのだ。
 真面目なあの二人のことだから、権力を使って割り込むなんてことは当然しなかっただろう。お互い交代しつつ、寒い中順番を待ったに違いない。他に並ぶ人の半分の苦労で済むとはいえ、大変だったと思う。
 すぐにでも頬張りたいところだが、今は我慢。
 これは今夜、ディナーのトリを飾るデザートにするのだ。ごちそうでおなか一杯でも、彼らの頑張りをプラスした美味しいケーキはペロリ食べてしまえるはず。夜が心底待ち遠しい。

 「味見くらいなら良いかなー……ムハッ、がまんがまん!」

 引き寄せられそうになる誘惑へプルプル首を振る。ちゃんとろうそくを立ててからでないと。
 箱越しの甘い香りだけ、先に堪能しておく。

 その隣には、丁寧に包装された一本のボトル。
 神々しい黄金の液体で満ちたこちらも自分の大好物―――おまけに、滅多に口に出来ない最高級の品だ。
 かのロシア皇帝もかつて御用達し、頂いたその名前の通りボトルは本物のクリスタルで出来ている。さらにラベルを良く見ると、書かれた生産年はなんと自分の生年月日と一緒。一体、お値段はいくら位したのだろう。
 多分、こちらが慌てふためくのを見越した上で用意したのではないか。傷跡の下にんまり口端を上げる顔が目に浮かぶ。
 だが何より一番嬉しかったのは、祝いの言葉が一緒に添えられていたこと。緋色のリボンへ挟まれたメッセージカードには短いながらも、彼の流暢な直筆が刻まれている。
 多忙な彼が確かに自分を想ってくれている、その証は年代物のシャンパンよりも価値高い。

 「あれ、裏にも書いてる…『飲まれる前に、飲んどけ』?あはは、やっぱバレてる」

 好きな割に滅法弱いアルコールは、口をつける前に同居人の胃へ消えてしまう。自分への配慮とはいえ、やっぱり、飲みたい。
 今日くらいは、酔っ払うまで飲んでも許されるだろう。
 きっととびきり、幸せなひと時が訪れる。


 飲んで、食べて、歌って騒いで。一日、思う存分楽しく過ごすのだ。


 箱とボトルを抱え、意気揚々室内へ戻る。
 今日初めてきちんと入ったリビングには、予想通り彼が居た。こちらに背を向ける形で、プランターの人参へシュッシュッと水を吹きつけている。

 「おはようございます、キレネンコさん」

 ゆっくり、首だけ巡らせた相手が小さく顎を引く。彼の中での挨拶。喋るのはあまり得意でない彼だけど、ちゃんと応えてくれる。
 持っていた霧吹きを置き、今度こそこちらへ向き直る。毎日午後から行っている人参の世話はもう済んだらしい。
 水遣りだけでなく、スニーカー磨きも、新聞のチェックも。日課の全てを、今日は一足先に片付けてくれている。

 これでいつ、どこへ出かけ何をしても、気がそちらへ逸れることがないからだ。

 色んなものを手にニコニコしている自分を、赤い瞳がジッと見下ろす。
 相変わらず感情に乏しく、何を考えているのか判然としない。ひょっとしたら引き結んだ口が動くまで何時間もかかるかもしれない。
 それでも構わず、待つ。毎年心待ちにしている、その言葉を。


 大好きな人から告げてもらえる、瞬間を。



 「プーチン、」
 「はい」
 「……誕生日、おめでとう[С Днем Рождения]

 「―――ありがとう!」








 今日は何の日?



 ぼくが生まれた日!



 



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2012.02.24
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