満腹中枢神経の崩壊及び摂食中枢神経サイクルに対する思考と考察




 一度目は単なる本能的欲求と消去法だった。

 二度目は興味に対する確認と確定的選択だった。

 それが三度四度と続いたのは、多分―――



 どくりどくりと心音が頬の触れる向こうから聞こえてくる。皮と肉と骨とで出来た厚い層越しにも分かる、大きな音が鼓膜を震わせる。他人の生命など興味ないが、急き立てるようなその音は嫌いではない。
 むしろ顔を寄せた胸の、その胸郭を割り裂いて、濡れ滴る心臓を直に見てみたい。ゴム鞠のように弾力に富んだ臓器は音に合わせ、伸縮の限界を持って激しく脈動しているはずだ。
 柔らかく、反発性を持った熱の塊を、指先で摘み出してみたい。押し、触ってみたい。
 力を込めかけた爪を、けれど胸骨を押すだけに留める。

 生身は何度でも味わえるが、心臓は一度きりだ。それはつまらない。

 未練が残る指を退き、心臓の替わりに小さな赤い突起を舐める。途端、跳ね上がった体を押さえ込むのは容易い。 壁を背に自分に挟まれた状態から逃げ出せられるならそもそもこんなお粗末な檻の中に居ないだろう。
 直接口を寄せて含んでしまいたいが、そのまま齧り取らずにいられる保証がなかった。
 舌先に当たる筋肉とも骨とも異なる硬質さは、類似品が思い浮かばない不思議な触感だ。 歯で噛めばその感覚をもっと強く実感出来ただろう。押し返す弾力も歯の通る柔らかさもあるのだろうと想像すると益々もって実行できないのが惜しまれる。
 心臓と異なり二つあるのだから片方位構わないだろうか。
 舌尖で転がしている片方位なら。爪で引っ掻いている片方位なら。押し潰し、擦り合わせているうちに漂い始めた 甘い馥郁に衝動は募るばかりだ。
 頭上で短く震えていた夜気が止まる。顔を上げれば、大元は両の掌で口を覆って声を殺していたりしている。指の隙間からは僅かにくぐもった息遣いが漏れてくるだけだ。
 面白味の欠ける事をしてくれる―――邪魔な手首を引っ張ると、枷はあっさりと外れた。

 「っれ……キレ、ネンコさ…っん……っ」

 熱を孕んで掠れた声に、無意識に目を細めていた自分の姿を水鏡になっている緑の瞳が映す。瞬く度決壊し、熟しすぎた果実のような色合いの頬を雫となって伝っていく。
 透明なそれを一種の期待を持って舐め上げる。が、味蕾に感じた塩気に若干裏切られた気分になった。
 想像してたのは薄甘い、キセーリのような味だったのに。
 角砂糖を嬉々として舐めるような奴だからその成分が分泌されるのだと思ったのだが、涙は万人共通らしい。 しかし齧り付いた胸だとか指先だとか唇だとかからは仄かな甘さを感じた以上予測はあながち間違いでもないのだろう。

 そう。例えばここなら。

 竦められている首筋を、脈打つ頚動脈を覆う薄い皮膚を吸う。
 正確に口にしたいのは、その下を流れる血流だ。早鐘を打つ心臓が廻らせる、甘く熱い血潮。
 この際押え付けている手首でも構わない。歯を立て、穿った箇所から溢れる熱を味わえるならば。
 きっと涙とは間逆の、温かな甘露が口腔に満ちるだろう。蕩ける糖蜜が咽頭を滑り落ちるのだろう。

 想像するだけで喉が鳴る。

 肌へ残る薄い紅色が、マーキングのように狙った位置を示す。犬歯を沿わせたそこで少し顎に力を入れれば、目的は容易く達成されるだろう。
 何時歯を立ててやろうか。
 甘噛みをするつもりで齧りついたらそれが最後になるだろう自覚はある。タイミングを計るように、何度もラインを舌先で舐め上げる。湿りを帯びた肌も益々柔らかく甘みを増して、食い破られる瞬間を整えていた。
 それなのに今更生命危機を感じたのか、獲物は身を捻らせ、抜け出そうと肩を押してくる。
 仮に腰に回した腕を離してやったらそのまま座り込んでしまうだろうに。普段あれだけ跳んだり跳ねたり している割と丈夫な脚も、今は体へぶら下がっているだけの飾りに過ぎない。
 大した反発ではないが、そのまま捨て置いておくのも温い。
 折角人が気を遣って頭から齧り付いたりしないでいてやるのだから、大人しく被食されてしまえ。
 僅か擡げた加虐心に従って力の抜けている脚を撫で上げ、その更に上にある下肢の中心を掴む。
 途端、上がった嬌声がコンクリートの壁に反響した。
 強弱を付けて揉んでやれば、それに合わせて捕らえた体が跳ねる。

 「んぁっぅ!あっぁ、あっ、やぁっ…んんっ!」

 先程より一層強く体が藻掻くが、抱えた腰は違う意味合いを持って揺れている。離した手首は抵抗する事なく、逆に震える指が縋るように腕に添えられた。舐め取った頬をまた涙で濡らしながら、蕩けきった瞳が、表情が悦楽を伝えてくる。

 掌の中で形を変えている物を「食い千切ってやる」と耳朶に吹き込んだら、一体どんな表情をするだろうか。

 そこだけではなく、首筋に歯牙を埋め、耳朶を噛み千切り、思うまま望むまま余すところなく貪りたいと告げたら、この緑の瞳は何色に染まるだろうか。

 砕けたように力ない体は、腕を滑る指先は、甘い鳴き声を上げる唇は、消え失せてしまう前にどうするだろうか。

 終ぞ感じた事のない高揚が背筋を駆ける。

 破壊衝動?違う、そんな意味抽象な感情ではない。
 では、性欲?否。もっともっと単純で分かり易く、欲求の中でも最上位にあるもの―――


 食欲。


 欲求を通り越した、『生』の代名詞。己を残す為に他の生命を取り込むその行為。
 それだ。
 舐め吸い啜り齧り噛み切り砕き肉も骨も血も脳髄の一滴すら残さず嚥下して捕食したいという、この衝動は。
 天啓の閃きはその他諸々の枝葉へ結びつき、正しく納得をさせる。
 性交渉など、結局は食事の代替行為に過ぎないのだ。味覚やら嗅覚やらの五感から充足を得て、埋め埋められ空いた空間を詰めてゆくだけの 養分のない摂取作業。
 今までその意義を見出す事無く最短で欲求解消のみを行ってきたのは、それだけ対象が食指を刺激しないものばかりだったからだろう。溜まった性欲を吐き出す事は出来ても、 不味いものをわざわざ味わおうとは思わない。
 その点、今捕らえている相手は悪くない。味も食感も好みに合ったが、何より鮮度が落ちないのが良い。新鮮なナマモノは美味いに決まっている―――魚を別として。
 ただの摘み食いのつもりが何時しか渇望を覚えて、空腹が空腹を呼ぶ循環を築く事になろうとは流石に予想しなかったが。
 回数を重ねれば重ねるほど、衝動は強く満たされないものになってゆく。
 中毒性を孕む原始的欲求に理性が勝てるはずもなく、そして本来行為の根本にある『生命維持に必要』という要素すら既に持ってない。
 飢餓している訳ではないのに、食べても食べても、充足感に見切りがつかない。口の中が乾く。手元にあれば幾らでも欲してしまう。
 ―――ならば。


 欲求のまま、全て喰らい尽くすまで。


 欲しければ入りきらなくなるまで、乾くなら飲み干せなくなるまで、食して。
 自制も節制も統制も浮かぶ余地なく、存分に噛み締めて。
 歯が突き刺さる愉悦を、口腔に広がる悦楽を、喉を通り抜ける快感を、甘味と芳香と弾力と嬌声と媚態を満足するまで味わって。それからデザートに口径摂取出来ない奥深くに残った熱を吐き出してしまおう。
 ゆっくり、ゆっくり、時間をかけて食べ進めれば良い。狂ってしまった中枢神経が満たされるまで、ゆっくりと。
 痺れた意識に届くか分からないが、食事の合図を告げる。
 白い食台で捧ぐ神への感謝ではなく喰われるだけの獲物への最期通告として。
 仰け反る喉元へ、齧り付く。


 



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2010.03.08
多分裏分類。