願わくば、花の下にて。

 
 刑務所の中に一本だけ、春になると薄紅の花をつける木が有る。


 海を越えた島国からやってきたというその木は、かつてこの場所に収監された異国の囚人達が望んでやまず、懇願か暴動かを起こした上で仕方なしに植樹されたらしい。植えられた木に花咲く季節が来る度に 囚人達は声を上げ、落涙し、そして消えていった―――故郷の土を踏むことのないまま、知らずの国で。
 涙か笑いか、曰くのある木は自分に向けられた数々の感情を吸い込むように大きく、泰然と成長して雪降りる大地へと根付いた。

 風が花びらを散らす中。歓声を上げてはしゃぐ小さな囚人の姿に、カンシュコフは目を細めた。

 ―――本当、ガキみたいやつだな。

 呆れたように思ったつもりだが、顔が緩んでしまう。
 子供のように考えなく、馬鹿みたいに純真な目をしたこの囚人が、けれどカンシュコフは嫌いではなかった。

 「あんまりはしゃいでると転ぶぞ、541番」

 薄紅の風が巻き起こる下、くるくる回るように走ったり跳ねたりしする姿は危うくて、つい声をかけてしまう。
 まるで保護者の気分だ―――実際面倒を見ている身分なので間違いではないが、花の下で二人逢瀬しているのに雰囲気が一向に出ない。相手があれじゃ仕方ないか、と彼は苦笑した。

 自由に外に出られない囚人の中で模範囚だけに許される束の間の自由―――刑務所側が設定した飴と鞭の政策の飴側に、普段から順応な態度で服役しているプーチンは乗る事が出来た。
 勿論一人で自由にさせるわけにはいかない。担当看守であるカンシュコフが監視の目を光らせる中、限られた区画内で且つ両の腕に手錠をかけた状態での自由だ。果たしてそれが 自由と呼べるかどうか―――受け取り方は人によりけりだろうが、模範囚とはいえ囚人に違いない相手なので仕方がない。
 けれど、本来であれば繋がれているはずのプーチンの手首に今、頑強な拘束具はない。房を出る時にはつけていたそれは、連れ出したカンシュコフの手でこっそりと外された。
 手錠をしたまま走って転んで、怪我でもされたら適わない―――そんな理由を言い訳のように呟きながら外された重い金属の環に、元気いっぱいだが凶暴ではない模範囚は満面に笑顔を浮かべて花の袂へと駆け出していった。

 「本当綺麗ですよね、すごいですよね、カンシュコフさん!」

 落ちてくる花びらを掴もうと手をばたばたさせ、プーチンは嬉しくて仕方ないといったふうに笑顔を輝かせた。くくった髪やらサイズの合わない囚人服やらに花びらがついているが、それすらも頬を緩ませる原因になる。
 普段監獄の中で陽気に楽しみを見つけている彼でも、やはり外はずっと恋しいものだった。久方ぶりの空の下は想像していた以上に広く、その下で咲き誇る花は限りなく美しい。
 大樹の向こうに高い壁と有刺鉄線さえ見えなければ、ここはどこよりも幸福な風景に思えた。

 「すごいなぁー―――キレネンコさんにも、見せてあげたかったな……」

 うっとりと花を見上げて房に一人残してきた相手の名を呟くプーチンに、それは無理だろう、とカンシュコフは胸の内で否定した。
 あの凶悪犯が模範的態度で服役するわけがない。そんな事ができるなら、この刑務所の存在理由そのものが否定される―――凶悪犯が凶悪でないなら、檻に閉じ込める必要などなのだから。
 第一アレが花なんか愛でるタマか?と思うのだが、プーチンは一人でこの幸せを謳歌することを気に病んでいるらしい。本当にお人よしな奴だな、とカンシュコフは呆れ半分に思った。
 まぁ、確かにこの景色は悪くない―――と彼は花舞う空を仰いだ。

 春の空は、青い。雲ひとつ無く晴天だ。
 長い冬から短い夏に向かうまでの束の間の、春。
 風は穏やかで、日差しは暖かで。ひらりひらり視界を掠める小さな花びらは、どこか心を落ち着かせる。
 素直な模範囚のように臆面なくは言えないが―――この景色が美しいと、若干捻くれたカンシュコフでも感じた。

 空と、花と―――そこに佇む、相手と。

 世界は、それだけで美しい。



 カンシュコフは時計を見た。

 そろそろ、収監の時間だ。与えられた時間はあまり長いとは言えないが、オーバーしてしまったら上の連中がこ五月蝿い。
 もう少し―――それこそ気の済むまでプーチンに花を見せてやりたいが、規定を破るわけにもいかない。花咲く木と向き合っている相手を促すことに僅か引け目を感じながら、カンシュコフはそれに目を瞑って「おい」とプーチンを呼んだ。

 「541番―――時間だ」
 「あ。はいっ!」

 告げて、カンシュコフはポケットから手錠を取り出す。
 冷たく、硬質な拘束具。あのごつさのない手首に、こんなものが要らないのは担当看守であるカンシュコフ自身が一番知っている。
 しかしこれも決まりごとだ。決まりごと、ルール、命令―――嫌になるくらい、この堀の中は窮屈だ。この広い空の下とは、大違いに。
 それを守らなければならない自分を納得させるように嘆息すると、カンシュコフは寄って来たプーチンに顔を向け―――固まった。

 目の前に立ったプーチンは、何時もどおり笑っていた。
 囚人服に、括った髪に、薄紅の花びらをつけて、一瞬の下界を満足したように。

 幸せそうな笑顔を浮かべて―――ぽろぽろと両目から、涙を零していた。


 「っな―――」

 カンシュコフの顎が、外れそうになる。
 見開いた目には外の景色が晴れ上がっているのを認識できる。ならば、その頬に伝うものは春先のにわか雨ではあるまい。プーチンの居た一箇所だけに降り注いだというなら納得できるが、 そんな異常気象を信じるほどカンシュコフの頭は流石に弱くない。
 ふるふると顔を指を指されたプーチンは、きょとんとした表情をする。まるで解っていない顔のまま自分の頬に手を伸ばした彼は、指先に触れた濡れた感触に初めて「ああ」と頷いた。
 どこかワンテンポ遅いその反応に、カンシュコフは驚愕したまま叫ぶ。

 「ちょ、お、おまっ、何で泣いてるんだよ!?」

 耳に入った己の声が滑稽なほどにひっくり返っているのを感じながら、それでも慌ててプーチンの頭から爪先までに視線を飛ばす。
 はしゃいでいる間にこけたのだろうか。だから気をつけろと言ったのに―――擦り傷なり泥汚れなりを探した彼は、しかしその体が花びら以外つけていないのに気づいた。転んだ痕などどこにもない。
 なら、何故泣いているのか。
 目の前で戸惑うカンシュコフをどう思ったのか、プーチンが小さく笑うと濡れた頬のまま笑った。

 「そんな、こけて泣いたりしませんよ―――僕子供じゃないですから」
 「嘘つけ。おやつの皿ひっくり返した時びーびー泣いたくせに」

 一瞬素でつっこみを入れたカンシュコフに、プーチンが頬を赤くして「あ、あの日はプリンだったから……」とよく解らない反論を試みる。さらに指摘をしてやろうかと思ったが、はたとそうではないとカンシュコフは金髪を振った。
 急いで手袋を外すと、今もって流れるプーチンの涙をぐいと素手で拭う。ハンカチのような気の利いたものは生憎と持ち合わせていない。ごわつく手袋で拭わないだけ、マシと思って欲しい。
 指先に触れる雫は温かいというより熱く、欠伸で生理的に発した涙以外最近拭ったことのないカンシュコフは大変変な気分になった―――まるで、命そのものが流れているようだ。
 ごしごしと擦る指に嫌そうな顔をするでもなく、プーチンはそれこそ子供のようにするに任せるまま佇む。

 「そもそも……何で泣いてるんだ、お前?」

 ついさっきまで笑って駆け回っていた空の下で、とめどなく泣いている。それも、泣きじゃくるのではなく、笑顔を同居させたまま静かに慟哭している。相反する表情を一緒にする器用な相手に一体何があったのだと 困惑を載せ見るブラウンの瞳の前で、プーチンは僅かに後ろを振り返った。
 見やった先にある、薄紅色の大樹。
 大きく枝を張った、大地深くに根を下ろした、春の一時だけに色をつける花。異国の囚人達が手に入らない自由の代わりに求めた、望郷の木。
 鮮やかな色を風で揺らすたびひらり、ひらりと花弁を飛ばすその木を見たプーチンは眩しいものを見るように目を細める。
 その横顔が今までに見たことのないほどに寂しく―――切なそうな色を帯びているのを見て、カンシュコフは伸ばしていた手を止めた。

 「なんだか……あの木の下に居たら、帰りたくなったんです」
 「…………外に、か?」

 まさか房に帰りたかった、というわけではあるまい。帰るというのなら、囚人の彼が最終的に帰る場所はこの監獄の外に他ならない。
 ならば―――あとほんの数ヶ月我慢すれば、望みは叶う。もうすでに折り返し地点は過ぎ、ゴール目前である。もう少し、夏が来るまでのほんの少しの辛抱だ。
 そうカンシュコフが励ますよう口を開こうとした時、プーチンは緩く首を振った。

 「ここの―――刑務所の、外に帰りたいわけじゃないんです。外には、僕を待ってくれている人は、いないから……」

 告げられた言葉に、カンシュコフは入所時に見た身辺調書を思い出す。541番と番号の振られた調書の家族構成欄は、空欄だった。
 独り立ちしたからか死別したからか―――この国では、どちらもさほど珍しい事ではない。カンシュコフとて、今のプーチンと同じ年頃には両親が揃って他界した。つまり、そこから現在に至るまで、カンシュコフはプーチンと同じく孤独の身である。
 それをどうこう思うことはない―――一時経ってしまったという理由もあるが、独り身の己を不憫に思うほどの余裕は追い立てられる日々にはない。
 けれどプーチンは違うのだろう。
 刑務所から出れば、確かに彼は自由だ。好きにどこでも歩いていけるし、何をしても咎めるものは居ない。
 ただ……暫くその身を置くところはないだろう。
 入所前の職場は当然クビになっているし、かつては友人だった人々も一度服役した相手を快くは迎えてくれない―――前科者と付き合って、資本主義者だと後ろ指をさされるわけにはいかない。 明るく誰にも好かれるような性格でありながら、この三年間誰一人プーチンの元へ面会に訪れなった理由はそこにある。誰しも、他人の友人より自分とその家族の方が大切だ。
 前向きで悲しいことを考えない彼でも流石にそれには気づいているようだった。誰かに面会者が来る度にとても喜び、同時に少し寂しそうな目をしていたことを、扉の前にいつも居るカンシュコフは知っている―――丁度、今と同じような目をしている事を。

 刑務所暮らしを食事付き看護施設と思って気楽に構えていた彼の、唯一の誤算。
 今までの対人関係を清算してダメージを覚えないほど、その心は人に対して情薄くない。

 一人きりの外に追い出される事―――ひょっとして、プーチンは出所の日を待ち望むのと同じくらいここを出たくないのではないかと、カンシュコフはありえない事柄を推測してみる。
 誰だってこんな人が生きるのに最低の場所には居たくない。ゴミの掃き溜めとなんら変わらないここに留まっていたいなど、収監されているわけではなく管理側の立場で居るカンシュコフですら、思わない。
 それでも、ここならプーチンには接せうる存在が―――それは友と呼ぶ小動物だったり仕事を強要する監督者であったり賃金をまともに支払わない経理や鎌を翳す処刑役、ついで常に嫌でも一緒に居なければならない 凶悪な死刑囚に。それから、仔細の面倒を見るカンシュコフが、居る。
 どちらをより多く望むのか。その心を図り知ることは、きっとカンシュコフには出来ない。

 風が吹く。先程までは綺麗だと感じた花舞う光景も、今はどことなく物悲しく感じる。これも全てそこに映る景色へと潜り込む、小さな背中によるものだろう。
 風に乱された髪をガリガリ掻きながら、カンシュコフは根を張ったように佇む背へ声をかけた。

 「プーチン」

 呼ばれた己の名前に、プーチンは顔を上げる―――その呼んだ相手が、普段立場上本名を呼ばないということに気づかないまま。
 不思議そうに丸められた緑の瞳に、カンシュコフの顔が映る。普段顰められているか三日月型の意地の悪い笑いを見せている彼は、複雑そうな―――しかしどこか優しい目をした顔を映す。
 カンシュコフのブラウンの瞳はプーチンの頭上を飛び越え、花を揺らせる大樹へと向けられている。春の陽射しの下、青空の空と舞い散る薄紅の花びらを見つめる彼は独り言のように漏らした。

 「プーチン。俺はな、両親も兄弟も居ない」
 「……そう、なんですか?」
 「ああ。それから一人になったから家も放した。今は刑務所の寮に入ってる」

 最も寮に入ってからも激務のためにまともに帰った記憶はない。帰ったとしてもいつだって寝るか食事を取るか―――まともに自分の部屋として機能した試しはない。
 肩を竦めて見せるカンシュコフに、プーチンは神妙に頷く。戸惑いを浮かべた濡れた瞳は、何故そんな話をするのか分からない、と伝えていた。
 それに構わず、カンシュコフは自分の身辺を語る―――今まで、一度も囚人相手に話したことのない踏み込んだ話を。

 「友人を作ろうにも刑務所で看守やってるなんて言ったら引かれる。同僚は反りの合わない連中ばっかりだ。そもそも、付き合おうにも向こうもこっちも忙しくって、休暇に誰かと会おうなんて思いもしねぇ」
 「はぁ……カンシュコフさん、大変なんですね」
 「全くだ。漸く休みが取れたと思ったら、房で問題が起きてるから出て来いとか言われる。どっかの大馬鹿野郎な死刑囚のせいでな」
 「あは、あはははは……」

 大馬鹿野郎、と示された相手が誰だか知っているプーチンは、曖昧に笑う。当の相手を馬鹿だとは思わないが、彼が何か手を振るう度に担当看守であるカンシュコフに仕事が出来ているのは一応プーチンも分かっていた。
 ここ最近胃薬が手放せなくなり本心からげんなりしているカンシュコフを慰めるようにプーチンは手を伸ばす。
 普段互いを隔てている扉は、今ない。その肩か頭を撫でようと伸びた手が触れる前に、プーチンの頭にカンシュコフの手が乗った。
 きょとんとしている緑の瞳に、「だからな」と声が降る。
 その声の主は、普段見せない穏やかな笑みを浮かべて、プーチンを真っ直ぐに見た。

 「俺の職業を知っても平気で、休みに放り出しても勝手に一人で楽しんで、それでこっちも笑わせるような変わった奴が。知り合いに、欲しかったんだ―――プーチン」

 全てを無条件に理解してくれる血の繋がった肉親はもういない。望んで出来るとしたら今度は自分の子供になるわけだが、そこまではまだ考えていない。
 だから他人同士で構わない。自分の幾許かを知って理解してくれている相手と知り合いに―――友人になれないか。
 特に、この三年間生活の大半を付き合った模範囚と別れるのは、今まで何人もの他人と囚人と無感動に別離をしてきたカンシュコフでも少しだけ辛かった。ここで今後も宜しく、と言える関係になれるならそれはむしろ歓迎すべき 事だ。

 流石に友人より踏み込んだ関係を提示は出来ずに、カンシュコフは驚いたように見上げてくる相手の返事を待つ。


 泣き濡れていた顔が花綻ぶように微笑みを浮かべるのは、花びらが通り過ぎるほんの少し間の後。








―――おまけ(赤×緑)―――



 「―――じゃ、戻るぞ」
 「はいっ!」

 若干照れくさくなって目を逸らしたカンシュコフに、プーチンは満面の笑みで返事をする。そこには先程まで流れていた涙は、もうない。
 時間は少し上回ってしまったが、先程の何にも変えがたい交わした約束があれば、上司の小言くらい幾らでも聞ける。かけなければならない手錠も、この際だ通用口までつけずにおこうと 何時になく投げ鉢な―――それでいてやたらと幸せな気分でカンシュコフは友人となったプーチンの肩へ手を回そうとした。
 手袋を外した手が、囚人服からむき出しになった肩に触れようとした時。


 花びら舞うの空を、カンシュコフが舞った。


 風に漂う花びらと同化し、「一枚二枚と散っている様は本当に儚いなぁ」とひどく悟った心境を感じていた彼は、その気持ちを打ち消すように満開に咲き誇る木へと突っ込んだ。
 頑丈な大樹はぶち当たったカンシュコフの身体を枝を折ることなく力強く受け止め―――ということは衝撃がもろにカンシュコフ自身にくるという事なのだが―――薄紅の花を揺らす。
 途端空にぱぁっと紙ふぶきのように舞い散った花びらの下、プーチンは戻ろうとしていた建物側から出てきた相手に気づいた。

 「あ。キレネンコさん」
 「…………」

 外出権を認められず房で留守をしていた同室者の名前をプーチンが呼ぶ。咲き誇る花よりももっと色濃い緋色をした眼は、普段の無感情を若干機嫌を悪くしたように 眇められていた。手錠もせずに監獄から出てきた彼に、プーチンがあれ、と首を傾げる。

 「キレネンコさんも、外に出してもらえたんですか?」

 質問に相手からの返答はない。ただ、キレネンコの歩いてきた方角にカンシュコフと同じ制服を着た面々が倒れ臥して呻いているのを見れば、答えは一目瞭然だった。普段面倒を見るカンシュコフが プーチンと出ていたため、代わりに武器を手に頑張ったのであろう彼らは哀れにも素手の死刑囚に悉く沈められた。内最も不幸な一人はカンシュコフへぶつけられるべく、首根っこを掴まれて投げ飛ばされた。
 至る所に花びらをつけたプーチンを見下ろしたキレネンコは、その眦が自分の眼と同じ色に染まっているのに気づいた。腫れているそこに触れ「何をされた」と小さく尋ねる。花の根元へ叩き飛ばした相手を、鋭く睨み据えながら。

 「え?いえ、別に何もされてませんよ」

 首を振るプーチンに、しかし赤い瞳は訝しそうに顰められる。今しがた、肩に手を回そうとしているのを見たばかりの眼は信じられないと語っている。
 そもそも自分の居ないところに連れ出して、二人きりでどうこうしようという時点で怪しかったのだ。プーチンがやたら嬉しそうにしていたので目を瞑っていたが、待てども待てども帰ってこない身にどれだけ焦燥を感じたことか―――本人はそんな自己の心情に全く気づかず、ただ苛つくまま房を突き破って出てきたのだが。
 勿論その事を微塵も察していないプーチンは「でも、良かった」と危険なオーラ丸出しの相手へ邪気のない笑みを浮かべた。

 「キレネンコさんとも一緒に花を見られて。ね、すごく綺麗ですよね?」

 ほら、と差す指に従って、キレネンコの視線が春色の大樹へ向けられる。ここ数年灰色の壁ばかり見てきた彼は色鮮やかな異国の木を無感動に眺めると、まだ見飽きずに「きれい」と言っているプーチンの肩へ手を置いた。

 「……戻るぞ」
 「あれ?もう良いんですか?」

 堪能するというほどの時間も取らなかったキレネンコにプーチンが伺うが、その身体はすでに来た方へと向いている。どうやら脱走する、という発想は浮かばなかったらしい。それだけでも帰る際に足で踏まれてしまうだろう看守たちの苦労が 浮かばれるものである。
 促されるように肩を引かれたプーチンは不平を述べることもなく踵を返す。美しい花の下にも幾らでも居られるが、この無口な同室者と向き合っていられるなら煤けた天井の下でも一向に構わない。
 一歩先行く相手を追いかけようとしたプーチンは、思い出したようにくるりと後ろを振り返った。

 「カンシュコフさん、ありがとうございましたっ!また、後で―――!」

 大きく手を振った彼は、咲き誇る花にも負けないほどの満面の笑顔を浮かべてそう叫んだ。


 「おぃ……待て、541番……」

 桜の袂、呻くような呼掛けは軽快に響くサンダル音に掻き消されてしまう。
 遠ざかる背に、プルプルと伸ばされていたカンシュコフの腕が力なく落ちた。

 ―――最後の最後で、これかよ。

 がっくり、と立ち上がる気力もなくなってしまう。大樹の袂に倒れた彼は、せめてとズキズキする体を反転させた。
 仰向けになった顔の上に広がるのは、雲ひとつない青空と満開の花。

 見上げた景色は、どこまでも綺麗で、美しくて。懐かしい、すこし切なくなるような気持ちを持たせて。
 鼻先を掠める花びらに、彼は思わず一句、詠んでみた。


 ―――願わくば、花の下にて 春死なん。

 



――――――――――
2010.4.20
お友達宣言の看守。
でもこの後脱走されて凹みます。