紳士協定 ―Gentlemen's agreement―

 
 「いくらか譲歩してやる」

 そう言った、切れて血を滲ませた口元は苦く歪んでいた。
 交渉の場において脅しと賺しと同様に引くことが時に戦術の一つであると知っているが、自分の提示した条件全てを相手に飲ませるのが信条の身としては自分から譲るのは非常に抵抗がある。
 それでもあえて譲歩を持ち出すのは、決着がつかない話に只管主張を押し付けるような愚かな頭を持っていないからだ。
 端正な横顔へ打痕を残したキルネンコは不愉快そうな表情を顕に、目の前の顔を睨んだ。
 氷点のK点突破―――真冬の雪降る庭へ裸で引きずり出された挙句水をかけられてしまった状態を心臓へと与えてくる目を、対する目は最初から死んでいるような、光の無い瞳で平然と受けた。
 微妙に口元を曲げて不快げな表情を作ったキレネンコは、整った顔に引っ掻き傷を作ってくれた相手を見据える。居丈高に譲歩とやらを見せようとする相手へ、彼はにべにもなく言った。

 「断る」
 「……」

 未だ内容も話さないうちから示された拒否の態度に、双子の兄より大人な対応を取ろうとしていたキルネンコが切れた口元をピクリと引きつらせた。
 向ける瞳の冷ややかさが一層増す。正確には、冷ややかに見えるのは刺すような眼光だけであり、それを宿す赤い瞳自体は苛烈に燃える色を増している。それでもなおキレネンコの目は臆する事無く、それどころか同じだけの剣呑さを光の無い瞳に浮かべて向かいの相手を睨む。
 その間―――雷雲と吹雪きを形成する視線の真下で、おずおずとプーチンが声を上げた。

 「あ、あのっ、二人ともとりあえず手当てを……」
 「「いらん」」

 特に、こいつには。

 ぴしゃりと両側から言われたプーチンは、低い低いステレオ音に首を竦ませた。その膝の上で不要扱いされた救急箱が困ったように揺れる。

 長ソファーへ珍しく、みっしり膝を詰めて並んで座った三姿。

 大変微笑ましい間柄に見えるその光景は、真ん中に座るプーチンの引きつった顔とそれを挟んでいる怪我の箇所以外ほぼ対称の顔によってぶち壊しになっていた。
 もう少し視野を広く取れば、ぶち壊しになっているのは雰囲気だけではく壁やら窓やら物理的なものも含んでいるのが分かる。プーチンが泣いて止めたから半壊で済んだものの―――本来は間続きでないダイニングと一体化して異様に広くなってしまったリビングにおいては、早々に引越しをしなければならない。
 それだけの状況を招いておいて、引き起こした当人達は腕をおかしくするどころかお互いの顔にやっと傷を付ける程度なのだから本当に一体どういうことなのか。いや―――本当に驚くべきは、恐らくその二人が傷を負っている事の方だろう。プーチンの知る限り、二人の身はちょっとやそっとの凶器ではかすり傷一つつくことない。 

 流石に同等の力で殴り合えば怪我もするのか―――知っても得をしない、というより知りたくなかった豆知識にプーチンは息をつく。
 平和と博愛を尊重する彼としては、双子の兄弟である彼らに仲良くしてもらいたいのだが。どうも、二人にはそれが通じないらしい。
 何年かぶりに再会した、死んでたかも知れない唯一の肉親同士は抱き合って喜ぶどころか恐ろしい顔で睨み合いをしている。しかも、かなり激しく。
 何故なんだろうなぁとぽやんと考えている、その自分こそ大抵渦中の原因であることに鈍いプーチンは気づかない。

 今日の騒ぎの発端も質せば、家に居たプーチンにふらりやって来たキルネンコが珍しい物を見せてやるから来いと言って―――というか、強引に連れて行こうとしたところ、キレネンコが同じく実力行使で阻んだ事にある。
 話し合って和平的に解決する、という選択肢は存在しない両者が家の模様替えをするのはあっという間だった。
 何とか話し合うように取り沙汰してからも、ずっと喧嘩の延長戦のような剣幕で牽制しあう二人の間に挟まれて、それぞれの手で肩を押さえられている状態でプーチンは途方にくれた。

 「……第一、毎回上がり込んで来るな」

 眉間に皺を寄せたままキレネンコが口を開く。告げる、というよりは吐き捨てたその言い方が、彼の心情を非常によく物語っていた。
 そもそも、キレネンコはこの片割れがこうやって上がりこむこと自体かなり嫌がっている。引っ越すたびに毎回新居の連絡をしていないにも関わらず、何故か探し出してまでしてやってくる相手のその目的が肉親の自分ではなく、同居人のぽやんとした相手にあるのだと知っている彼はその来訪を一度たりとも快く迎えた事がない。
 理由としては全うな職種でない―――日の下を歩けない、一般小市民とは隔絶した裏の世界に住まう相手と係わり合いになる危険を挙げているが、それが最大の理由でない事は明らかだった。
 現に、プーチンを連れ出す相手がかつて世話になった看守だろうと平和を守る民警だろうとそれこそ野菜を別けてやるから取りに来いと誘う八百屋の店主だろうと、その赤い瞳は不機嫌そうに歪められる。
 無表情で分かりにくいものの、見るものが見れば雄弁に内心を物語っているその目を当然のように見抜いているキルネンコは、そんな双子の片割れに鼻を鳴らした。

 「囲ってなけりゃ、自信がないのか」

 随分と弱腰な性格になったな―――せせら笑うように片頬を上げた向かいで、キレネンコの硬い表情がより硬くなる。無言で、他の人間だったなら一発で心臓発作を引き起こせる目を見せた。

 「……お前が口出しする権利はない」
 「お前が決める権利もないはずだが?」
 「俺の物をどうしようが、俺の勝手だ」
 「―――ほう?」

 きっぱりと断言したキレネンコに、見やるキルネンコは瞳を眇める。
 意味ありげに片眉を上げると、彼は半眼のまま薄く嗤った顔を下に向けた。そこには戸惑うように首を左右させているプーチンの姿がある。
 一体どうしたら良いのか―――というより、すでに二人が何を話しているのかが分からなくなっていたプーチンは、不意にかち合った赤い瞳に「むほっ!?」と叫んだ。先程より鋭さを潜めた、それでもどこか肉食獣のように向けた先の対象を竦ませる目に反射的に居住まいを正す。だらだらと全身に流れる冷や汗を感じていると、愉快げな声で「お前はどうなんだ?」と言われた。

 「ほへ?」
 「ソイツはお前の行動も意思も全て、自分が決めると抜かしてやがる。お前は、それで良いのか?」

 咄嗟に反応できなかったプーチンに、キルネンコが尋ねる。
 自由に出歩きたいのか、それとも指図されるがままに囲われていたいのか―――そう問われた内容に、プーチンは瞬く。

 それって所謂『籠の中の鳥』ってやつなのかな―――と、頭に浮かんだのはよく聞くようで実際はあまりない言葉だった。

 『籠の中の鳥』というのには、自分は当てはまらないとプーチンは思う。
 別に軟禁されているわけではないし、刑務所の時のように物理的な檻の中に居るわけでもない。むしろ、逃亡の引越しを繰り返す身は一箇所に留まっている期間のほうが短い。自由といえば、どこまでも自由だ。

 ただし―――自由なのは、二人一緒に居る時限定で。

 実際には、この生活を始めてプーチンが一人で出歩くことがあまりない、というのは事実だった。
 鈍いプーチンでも流石に何年も一緒に、それこそ24時間寝食共にした上で気がつけば常に目をやっている相手の顔が、古馴染みの知り合いへ会ったりするのに「ちょっと出かけてきます」と言うと、若干表情を変えるのは知っている。加えて、告げてから承知の返事が返ってくるまでに、間がやたらある事も。
 そこから帰宅がうっかり時間を忘れて遊びすぎて暗くなったりなどすると、非常に重い空気で持って迎え入れてくれるのも経験している。こっそり玄関を開けた途端、暗雲のオーラを浮かべて、無言で「分かっているだろうな」という目でもってして仁王立ちをしている長身を見て、何度飛び上がったことか。
 その度に正座する勢いで謝るのだが、結構根深いというか、大分時間をかけなければキレネンコはその空気を崩さない。へそを曲げたように無言で口元を結ぶ、そんな相手の表情を見たくないためになるべく―――ふらふらと何にでも興味を持って頭を突っ込んでいく性格を鑑みた上では―――大人しくしている。

 それを不自由だとは思っていない。
 が。

 改めて第三者からされる包み隠さない問いに、プーチンは口ごもる。
 チラッと、反対側のキレネンコを見ると、何時もの無感動な目に戻っている赤い瞳は一瞬目を合わせた後でふいっと逸らされた。自分は関与していないとでも言いたげにあさっての方向を見ている。
 引っ掻き傷の残る横顔を眺めながら、プーチンはあまり意識していなかった自分の意思の置き場を考えた。

 別に、家の中でキレネンコと一緒に居続けるのは一向に構わない。むしろ、両手を広げて大歓迎するところである。
 会話自体はあまり無いが、雑誌を読んだり靴を磨いたりしている彼と同じく空間にいるだけで時間は過ごせる。その生活を無くすかどうかと問われたなら、プーチンは一も二もなく『籠の中の鳥』になる宣言をしただろう。

 けれど―――そうでなく、共に存在を認め合って生活を営む、想いあって暮らす場合であるなら。


 ……そんなに自分は信用がないのだろうか。


 そう、考えてしまわなくもない。
 どこかに出かけたら帰ってこない薄情者だと彼に思われているのではないか―――彼の横以外、帰る場所などないというのに。

 目を伏せて、プーチンは息を吸い込む。

 色々な物を見たい、とは思う。新しい街に移る度、端から端まで歩いて今まで知らなかった物を見て、出歩くのを好まずに家に居る彼へと発見を伝えて共有したいと。
 知り合いに、友達に会いたい、とは思う。前科者である自分達を受け入れて、どこへ移動しても変わらず接してくれる人たちに会って、人と会いたがらない彼へ皆元気だったと伝えて分かち合いたいと。

 それをどうしたいのかと―――自分の意思でまだ選択出来る余地があるのなら。自分は。




 「………僕、キレネンコさんが居た方が良いって言ってくれるなら、居ます」



 例え、それが外を出歩くことも他の誰とも会えなくなるとしても。
 心配した、と赤い瞳を曇らせさせる事がなくなるのなら。
 それでいいと、思っているから。

 
 思い悩んで漸く出せた、はっきりとしたプーチンの答えに。

 何故か、勝者の笑みを浮かべたのは、傷口から滲む血の止まった口元の方だった。


 「……成程。随分と、従順に飼いならしてるじゃねぇか」

 フッと嗤いながら、完全に冷気を納めた赤い瞳が外された相対者の方へ向く。揶揄するような視線の先、賞賛とも聞こえる言葉を受けた赤い筋をつけたキレネンコの横顔は非常に―――それはもう本当に最悪だと言わんばかりに、苦々しく顰められていた。
 それを見上げたプーチンは、当惑する。
 何故、彼が望むようにすると答えたはずなのに、そんな渋い顔をするのか。
 食卓へ魚を出した時よりも本日の訪問者を家に上げた時よりもずっと憮然とした表情はプーチンの想定とは全く異なっていた。
 一体何があったのか―――光の無い目をゆるりと向け、狼狽するプーチンとその向こうでしたり顔で嗤っている双子の弟を見て。苦いものをすり潰したような口元から、重い溜息を吐いた。

 「………………門限」
 「え?」
 「外泊は、認めん」

 瞬くプーチンは、その言葉が見つめている自分に対して言われているのだと気づいたのは、上から声が飛んだ後だった。

 「どこの頑固親父だ、お前は」

 失笑を含んだ比喩に、ギロリとキレネンコが目をむく。すぐ隣でそれを見たプーチンは思わず飛び上がりそうになったが、それよりも。

 「い、良いんですか?僕、遊びに行っても」
 「……今までも、悪いと言った覚えはない」
 「そ、そうですけど……」

 明確に言われなかっただけで、あまり良しともしていなかった気がするが。
 そう言いたげな緑の瞳に、キレネンコが舌打ちでもしそうな表情をしてみせた。

 自分の心情は、自分が一番良く知っている―――何でもないように送り出してみせていたからといって、手元から出て行かれることを面白く思ったことなど、一度も無い。
 そうかといって、腰巾着ではあるまいし特に行きたいと思わない、むしろ会いたくない連中へ顔を合わせるためだけにくっついて行こうとも思えない。結果留守番をすることになるのだが、その間どれだけ気分がささくれているのか果たして遊び歩いている側は分かっているのか。

 しかし―――帰ってきて「楽しかったです!」と笑顔で報告する相手を、どうして止められようか。

 束縛するために―――その笑顔を封じ込めてしまうために、一緒に居るわけではない。
 最終的に、帰ってくる場所がこの腕の中なら、それで構わない。……今はまだ、思いきれていないだけで。


 が。まさかそれこそ奴隷かペットのように従属させていると相手に思われてしまっては、大問題だ。
 想いがすれ違うどころか、見つめる瞳に異様なレッテルすら貼られかねない。
 なので、隣でプーチンが、

 「じゃあじゃあ!カンシュコフさんと会ったり、民警さんとこの詰め所に寄って来たりしても良いんですか?!」

 と勢い込んで尋ねてくるのも、キレネンコは自制に自制をして頷いた。

 確かに折られる首を驚きに丸くしていた目で確認したプーチンは、思わずほぅと息をもらす。
 譲歩というのなら、これほどにまでない譲歩の姿勢を見せているキレネンコにただただ驚愕するだけだ。
 衝撃的な瞬間に、キレネンコが首どころか肩まで落としている事に気づかないまま、プーチンは傍らを振り返る。
 その先の、つい先程まで遊びに行けないと思っていた相手の方を見ようとした瞬間。頭が、引っ張られた。

 肩に置いていた手でプーチンの頭を抱え込んだキレネンコは、「但し」と再び向かいの相手をねめつけた。

 「―――手は出すな」

 一句一句、よく聞こえるようにはっきりと告げた禁止事項に、返って来たのは軽い鼻を鳴らす音だった。

 「最後まで犯らなきゃ良いんだろ」
 「……………」
 「ふぉぉおおっ!き、キレネンコさんなんかギリギリいってるんですけどっ!」

 頭蓋骨に陥没しようとする指へプーチンが悲鳴を上げる。膝の上の救急箱が、むしろ自分のために使われそうな勢いな位、痛い。
 上がった悲鳴に頭から手を離し、代わりにプーチンがなるべくソファーの真ん中からずれるようキレネンコが引き寄せる。明らかに信頼をしていない様子の相手に、キルネンコは相変わらずの余裕を見せた。

 「交渉成立だな―――なんならオメルタの誓いでもするか?」

 傷つけた指同士の血を合わせ、契約の証とする裏世界で最も固いとされる血の契り。混ぜた血を裏切ることがないように、との意味合いを持つそれを果たしてすでに元の血が混じっている双子がやる意味はあるのか分からないが、とりあえず慣れた事例を持ち出した彼に「あっ!」と、ストップのかかる声がした。

 「待って!約束って言ったら、これですよ!」

 ニコニコとしながらプーチンはしゅぴっと指を立てた。
 中指でも親指でもなく、天を指す小指。それへ怪訝そうな二対の赤い眼の向けられる中、プーチンは右手と左手、それぞれに両脇の相手の小指へと指を絡めてお決まりの文句を口にした。

 「指きりげんまーん―――嘘ついたら、針千本飲ませちゃいますからねっ!」

 そう、にこやかに告げられた違反のペナルティに。 


 針千本くらいなら、余裕だ。


 約束とは破るものだと認識している相手達に、指を切ったプーチンがにっこり微笑んだ。

 



――――――――――
2010.4.29
どこかのガールズサイド。
もう3Pで良いじゃん。(死)