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愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。 …赤×緑+看守


 今日のカンシュコフさんは、何か機嫌が良いみたいだ。

 プーチンは覗き窓から見せたブラウンの瞳がどことなく楽しげなのを見てそう感じた。

 「カンシュコフさん、何か良い事があったんですか?」

 プーチンが尋ねると「別に何もねぇよ」とにべにもなく答えるが、その声が弾んでいるようにすら聞こえる。
 内緒ごとの楽しい事があったのかな―――どんな事なのか気にはなったが、普段眉を顰めてばかりいるカンシュコフの嬉しそうな様子に、プーチンは我が身の事のように良かったと喜んだ。

 季節は春。外に未だ雪は残っているようだが暖かくなってきた日差しに誘われるよう、皆幸せを感じられれば良い。

 他者と隔離された監獄の中にあっても、プーチンは誰かの幸せを思って喜び、笑った。

 ほわほわと二人、扉を挟んで笑いあいながら本日の食事が配膳される。
 常ならぶっきらぼうに扉下のポストから粗末な食事を差し出されるだけなのだが、今日は違った。

 「喜べ模範囚、今日の飯はご馳走だ!」

 端のかけた皿を高々と翳して叫ぶンシュコフの言葉に、プーチンが目を輝かす。

 「ごちそう!?うわー、本当ですか!」

 ただ飯が食べられるのが囚人の特権だが、その量や質は流石に成人男性の胃袋を満足させるとは言いがたい。
 好き嫌いなくきちんと出された物に感謝して食すプーチンだから文句はないものの、刑務所に入っている大多数がその食事内容に不服を抱いている。当然そんな囚人のわがままを聞いてやるほど、刑務所の管理側はお人よしの集まりではない。
 何とか毎日の飢えを凌ぐ程度の食生活で、ご馳走とはとんと縁遠いものになっていた。
 何が出るか分からないが、想像するだけで涎が出てきそうだ。

 聖誕祭などの特別な行事があるわけでもないのに何故だろう―――そんな当たり前の疑問も抱くことなく「どんなごちそうですかっ?」と勢い込んで尋ねるプーチンに、カンシュコフが重々しく告げた。

 「本日のメインは、数種のスパイスと赤ワイン、トマトに漬けてローストしたもち豚ロース肉―無農薬かぶらソテーと人参を添えて―」
 「むほーっ!なんだか分からないけど美味しそうな名前!」

 やたら長い料理名にプーチンのテンションが条件反射で上がる。
 わくわくと扉の前で期待に胸躍らせる模範囚に、カンシュコフはにやりと笑って皿を出した。

 「残さず食えよー」
 「はーいっ!ごっちそうごっちそう~!……ほ?」

 ホカホカと湯気をたてるきらびやかなご馳走を想像していた頭が、白い皿を見た瞬間思考を止めた。
 目の前の料理に、カンシュコフの告げていたご馳走の名前を懸命に思い出す。

 塩コショウ少々トマトスープに浸してスライスした脂身―かぶとにんじんの葉っぱを添えて―、だったろうか。

 どこか違うような気がする、と思うのだが、皿の上に乗ったものを順に示していくとそんな名前になってしまう。
 疑問符を一杯浮かべて皿を凝視するプーチンに、扉の向こうから爆笑が聞こえた。
 背伸びして覗き窓から目を出すと、蹲ったカンシュコフが腹を抱えて笑っている。堪えきれないのかバンバン廊下を叩きながら大声で笑うため、他の房の囚人達もなんだなんだと覗き窓から顔を出す始末だ。

 漸く一頻り笑い終えたのか、呼吸を整えながらカンシュコフは身を起こす。目じりの涙を拭いながら笑いの余韻を引きずっている彼に、プーチンはすっかり冷めてしまっている皿を差し出して首を傾げた。

 「カンシュコフさん、これってごちそう、なんですか?」

 自分が贅沢になっているだけなのだろうか―――謙虚にもそう思いつつ尋ねるプーチンに、カンシュコフは「それがご馳走なら犬の餌だって高級ホテルのディナーだな」と鼻で笑った。
 その発言からするに、どうやらこの皿のものはご馳走ではないらしい。しかし、彼は渡す際にご馳走と言っていたではないか。この矛盾はどういう事なのだろう。

 ますます分からないといった顔をしているプーチンを、ブラウンの目が呆れ半分に見やった。

 「しらける奴だな。今日はそういう日なんだからいいんだよ」
 「え。今日って何かありましたっけ?」
 「ばーか。お前カレンダーつけてるんだろ。今日は何月何日だ」

 言われて、改めてプーチンはベッドの上にかけているカレンダーを振り返る。今日は丁度、起きた時先月の分のカレンダーを剥いだばかりだ。
 出所までの日にちを記録すべく、日付の上につけている印も今はまだついていない。

 本日は4月の初めの日―――そこまで思ってから、プーチンの口が「あっ!」と納得の形に開いた。

 「今日、エイプリルフールだったんですね!」
 「やっと気づいたか天然。正真正銘4月馬鹿だな」
 「うぅぅー……ごちそう楽しみだったのに……」

 馬鹿と言われたことより、ご馳走が夢の彼方に消えてしまったことに消沈してしまう。がっくりと肩を落とすプーチンに流石に決まり悪くなったのか、カンシュコフはごそごそとポケットを漁って中に入っていたものを覗き窓から放り込んだ。
 投げ込まれたものが、コツッとプーチンの脳天にぶつかる。「にゃっ!」と頭を押さえたプーチンは、足元にころころと転がる飴玉を見つけた。

 「ま、そいつで我慢しとけ」
 「わわっ、カンシュコフさんありがとうございま―――」
 「ちなみに、それ毒が塗ってるから気をつけろよ」
 「むほぉーーーっ!?」
 「……そろそろ学習しろって、お前」

 拾った飴玉を放って青い顔をするプーチンに、出所した後無事外で生きていけるのか本心から心配になってしまったカンシュコフだった。

 

 ご馳走もどきとデザートの飴を手に入れ、安くも上機嫌になっているプーチンはいつもどおり同室の相手の足元へ皿を運んだ。
 プーチンがカンシュコフと愉快な春の劇場を繰り広げている間も、その意識は欠片も逸れることなく愛読の雑誌に向いていた。
 今月号は新作スニーカーの発売予告特集がくまれているらしい。無感動な赤い瞳がどこか熱を持って記事を読んでいるのを見て、本当にスニーカーが好きなんだなぁとプーチンはしみじみ思う。

 いつもは憧れる位に冷静沈着で物静かで頭だって良さそうなのに、スニーカーのことが絡むと人格が変わる。それを良い方向と取るか悪い方向と取るかは人によるのだろうが、少なくとも靴は無気力な彼をこの世で確実に熱くさせる対象ではあった。


 だとすれば、今日唯一通じそうな話題のこれを選ばない手はない。


 若干の緊張といたずらをする高揚とで顔を高潮させながら、プーチンは彼を呼んだ。

 「キレネンコさん、知ってますか?」
 「…………」

 秘密の相談でもするように潜められた声へ、赤い瞳が気のない視線を僅かに寄越す。その目がほとんど雑誌から上がらないことに、何がなんでも成功させてみねばと変な対抗意識が燃え上った。
 ネタの用意は出来た。後はどれだけうまく、真実味溢れた演技が出来るか、だ。
 真面目で正直な性格をしているため、演技は得意ではない。落ち着いて、動揺をみせずに―――普段の彼のポーカーフェイスを真似て、なるべく平坦な声で続けた。

 「その特集のスニーカー、発売日変わったらしいですよ」
 「…………」
 「カンシュコフさんたちが言ってました。もう、街では販売してるんですって」
 「!」

 息を飲むような気配。ついで雑誌を持っていた手が、光速でページを捲る。
 プーチンの言葉の真偽を調べるべく、すでに目を通した特集ページをもう一度、それこそ穴が開くほど読み直す。
 仮にすでに販売されているなら即行で入手しなければ―――現物調達をしてくるのは勿論刑務所から出られない彼ではなく、力ずくで従わせた看守達だ―――そんな気迫が満ち溢れている。

 どこだ。どこに、そんなイレギュラーな情報が載っている。

 真剣な目で雑誌を睨むキレネンコの、予想以上の反応に騙そうとしていたプーチンの方が驚いてしまう。

 鬼気迫る勢いの彼に「ひょっとして、やりすぎちゃったかも……?」と些か臆してしまう。いくら今日が特別嘘を許される、ユーモアに満ちた日であっても相手がそれを許してくれるかどうかは別である。
 もくろみうまく成功した事の歓喜よりも、取り返しのつかない事をしてしまったかもしれないという慄きが今更ながら浮いた。
 とりあえず、素直にドッキリでしたと伝えよう―――当初の目的とは180度反転したプーチンが口を開いた。

 「あ、あのですね。キレネンコさん。今日は4月1日なんです」
 「…………」
 「エイプリルフールなんですよね、今日。僕もさっき、カンシュコフさんに騙されちゃって。あはは……えーっと、その」

 嘘ついて、ごめんなさい。

 ぺこり、と頭を下げるプーチンに、雑誌を捲っていた手が止まる。
 記事を検索していた瞳が、ゆるりと傍らで向けられているちょんまげ頭を見た。

 成程、今日は世間一般ではエイプリルフールとかいう、一体どういう意味があるのか分からないけれど何故か根付いている奇怪な風習の日だった。という事は、先程の販売日が変わった云々は先程謝った通り、嘘なのだろう。分かってしまえば、大したことのない内容だ。

 騙そうとした行為が気に障らないではないが、ふとキレネンコは考え直す。

 今日はエイプリルフールだ。何のためにあるのか分からないが、隣人を非常に寛容に受け入れるよう暗黙に了解している日なのだ。

 ふむ、と一つ頷いてから、彼は雑誌を閉じた。


 パタン、と耳に聞こえた音に、ああこれで僕の人生終わったかな。とプーチンは深く項垂れた。
 調子に乗って死期を早めるとは、正真正銘4月馬鹿だ。この4月1日という日に名を残す男になったかもしれない。
 せめてもらった飴を食べておけば良かった―――未練としたらこれほどにまでないちっぽけな内容を浮かべながら鉄拳を待っていたプーチンに、しかし手が当たったのは頭ではなく、肩。
 それも拳の状態ではなく開いた掌が、両肩にぽんっと、乗った。
 吃驚して顔を上げると、いつの間にかベッドから降りて前に立ったキレネンコが、高い位置から見下ろしてくる。
 見上げた顔に怒りの表情はなく、逆に冷静すぎるほどの整った顔がプーチンをのぞきこんでいた。

 「―――今日は、何をしても許される日だったな」

 じっと。本気で言っているらしい瞳に、プーチンは思わずたじろいだ。

 「え……?い、いや、それはちょっと、拡大解釈しすぎなんじゃ……」

 許されるのは、嘘だけだったはず。それも、罪にならない、他人に迷惑をかけない程度の範囲のもので。

 例えば、その獲物を見つけた鷹のように、本気の鋭さを持たないレベルの内容までが、許容されるはず。


 じり、じり、と押されるに遵ってムーンウォークをするプーチンの背が、壁に触れる。
 下がる場所のなくなったプーチンに対し、まだ前進する相手との距離が自然縮まってくる。

 超至近距離から見る半眼の赤眼が、光った気がした。

 

 ついた嘘を許してもらいながら、同時に色々と許さなければならなくなったプーチンは一つ身をもって学んだ。

 教訓。いつ、いかなる時でも、人を騙すのは宜しくない。


――――――――――



その名に冠す …看守→緑


 「おーい、541ばーん。ちょっとカード付き合え……っと」

 トランプ片手に覗き窓と併せて開いた口を、慌てて閉じた。
 扉の向こうのベッドの上に模範囚が転がっていた。
 小さな換気窓から差し込む光が丁度彼のベッドの上に陽だまりの輪を作っている。その輪の中に納まった彼は起き上がる気配を見せない。

 折角カモにしてやろうと思ったのにな―――行き場のなくなったトランプを弄び、毒づいた。

 突けば勿論起きるだろう。マジックハンドでちょいちょいと囚人服を引っ張れば、むにゃむにゃ言いながら身を起こすはずだ。
 緑の瞳をぼんやりさせ「あ~……カンシュコフさん、おはよーございます」と寝ぼけながら言うであろう事が想像に容易い。頭の回転がすっきりしていない相手ならゲームも簡単に勝てる。退屈しのぎにはもってこいだ。
 そう思う、が。

 わざわざゲームのために、起こす必要はないか。

 光の中浮かぶその幸せそうな寝顔に気がそがれてしまい、本来の目的を溜息一つで諦めた。


 寝相が悪い彼らしく、シーツは横に跳ね飛ばされてしまい、穏やかに上下する胸が見える。静かな空間に、薄く開いた唇から漏れるすうすうという寝息すら聞き取れる。手足を引き寄せて胎児のように眠る姿は窮屈そうに見えるが、緩みきった頬はどこまでも心地良さそうだ。

 今日は隣にあの凶悪無比な死刑囚が居ない―――牧師の説教を受けに呼ばれていった。聞きもしない説教を受けさせる位ならさっさと処刑しちまえ―――から、気も緩んだのだろうか。普段から陽気に振舞っているが、あんなのと一緒ではストレスも溜まるだろう。一番被害にあっている自分はなんといったって、胃痛にまでなってしまったのだから。
 今日くらいはゆっくり寝させてやろう―――珍しく嘘偽りなくそんな気持ちになった。
 同じ相手に悩ませられる者通し、親近感が湧いたのかもしれない。

 ゲームには休憩室で暇をしている、むさい同僚でも誘うか。

 そう思って踵を返そうとしたが、体が扉の前から離れない。目が、扉の向こうから離せられない。
 起こすつもりはないのに、その瞼が開けば良い、と思った。

 「……541番」

 ここでの彼を示す名を、呼んでみる。が、すぐにこれは違うと判じた。

 「模範囚」

 看守である自分にとっての、彼の代名詞を呼んでみる。否、これもしっくりこない。

 「…………プーチン」

 滅多に呼ぶことのない、呼ぶ必要のない、本当の名前を呼んでみる。


 ……何か無性に恥ずかしかったが、言いなおすことはしなかった。
 これが、彼の名だ。

 
 「プーチン」

 可哀想なプーチン。
 大したことのない、ほんの些細な失敗でこんな塵の掃き溜めみたいな所に追いやられてしまって。
 本当ならずっと縁のないこの場所で、無為な時間を送ることになってしまって。

 「プーチン」

 気の毒なプーチン。
 外で陽の光を浴びることも出来ず、大地を蹴って走ることも出来ず、檻の中に居続けないとけないなんて。
 楽しそうに踊れば突かれ、大きな声で歌えば怒られ、幸せそうに笑えば文句を言われるなんて。


 ベッドの上に出来た小さな陽だまりしか、居場所が無いなんて。


 「プーチン、お前は」

 ここに居るべきではない。在るべき場所はそんな小さな陽だまりではなく、溢れる光の袂だ。
 薄暗く日の当たらない、こんな場所で存在してはいけない。

 でも。
   
 「プーチン、俺はな」

 ここにお前が来てくれて良かったと思うんだ。
 お前がここから出る日が来なければ良いのにと思うんだ。
 小さな陽だまりの中、寂しく一人ぼっちでお前が居る事にほっとしてるんだ。
 ここで誰もお前の名前を呼ばない事が、ここで他の誰もお前を必要としていない事が、嬉しくて仕方ないんだ。


 ―――そうすれば、扉の前に立つ自分の事は味方だと思ってくれるだろ?


 名前すら、まともに呼べないこの想いを。


 「プーチン、ごめんな」 


 きっと誰も、愛とは言わない。



――――――――――



この胸を、愛を射よ …赤×緑


 丸い頬の上に、細い筋があるのを見つけたのは黄昏の中だった。

 差し込む鋭いオレンジが濡れた場所を反射させる。キラキラと光るそれを美しいとか儚いとか形容する前に思ったのは、何故、だった。
 ベッドの上、日が落ちる間際の陽光を浴びて眠るのは、誰よりも幸せでなくてはならない存在だというのに。柔らかな頬を濡らして、何故泣いているのか。

 部屋を出る時には、笑っていた。

 「行ってらっしゃい!」と笑顔で手を振られた所為で、行く気もなかった改悛の説教に行ったというのに。戻ってきてみれば、知らないところで泣いている。

 人を追い出したりするからだ。

 どれ位前に泣いたのかは知らないが、そこに浮かぶ表情は安らかとは言いがたい。
 いつもと変わらず胎児のように丸まって眠る体を弛緩させる事無く、胸に引き寄せた手を握り締めて身を守るように縮まっている。
 夢の中良からぬものに片足を掴まれたか。外がまだ明るいことも知らず、静寂の闇に飲み込まれているのか。

 ―――馬鹿な奴。

 指先で触れた頬の軌跡は未だ湿っている。目元に残っている雫を突くと、音もなく弾けた。

 「……おい」

 濡れた顔に、手を置く。
 いつまで寝ている。いつまで、泣いている。
 仄暗い檻の中に居ながら日差しを受けて、いつまで光のないそこに一人居る。


 「プーチン」


 お前の居場所は、そこじゃないだろう。 

 


 「……ぁ……レ、ネンコさん……?」

 ふるり、と揺れた瞼が開く。瞬きに落ちる涙がないよう拭うと、焦点の合ってない瞳が見上げてきた。
 その涙を浮かべさせた夢を、覚えているのか。

 「何を泣いてる」
 「え……?……あ。あぁ、ぼく、寝てたんですね……」

 もう、夕方だったんですね―――黄昏の陽が照らす横顔は笑っているくせに、泣いている。
 未だ夢の続きを見ているように、切ない笑顔を浮かべて見上げてくる。
 本当に、馬鹿な奴。
 一体何を見ていたのか。言葉に出来ない、胸の締め付けを感じていたのか。
 緑の瞳を曇らせ、涙を零すまでの恐怖など、ここに居る限り―――自分の傍に居る限り、ないだろうに。
 頬を撫でる手に触れてきた手は、だから縋るためだけにあれば良い。

 「なんだったのかな……なんだかね、すごく、寂しかったんです……」

 温かくて落ち着く場所に居た気がするのに、気がついたらとても胸が苦しかったんです―――

 誰も居なくて、一人ぼっちで、誰も必要としてくれていなくて、暗いところに置いていかれて。
 誰も、僕の名前を呼んでくれなくて。
 寂しくて哀しくて、怖くて仕方なかったんです。

 そう、未だ泣いている顔を無理矢理笑わせて、告げてくる事に。
 いい加減、気づけと言ってしまいたい。

 「プーチン」

 この声は、聞こえているだろう。

 「はい……?」
 「プーチン」
 「はい。何ですか、キレネンコさん……?」

 呼応してとぼけたような顔が見上げてくる。潤んでいた瞳は一点の濁りなく自分を映す。
 自分のものより温度の高い額へ、顔を合わす。首筋に回した手を手繰り寄せれば微笑んで口を近づけてくる。
 何の疑問も持たず触れる柔らかさへと、身を預けてくる。


 それで良い。


 「プーチン」


 独りになんてしない。必要としないなんて言わない。

 何度だって、その名を呼んでいる。
 この声が聞こえる方へと、歩いてくれば良い。


 

*蛇足*
タイトルはポルノグラフィティから。


――――――――――



アンチ・クローン …双子幼少(微流血表現)


 父親が1つ。母親が2つ。

 「……どう分ける?」
 「どうでも」

 3つの形見を前に問い掛ければ、気のない返事が返ってくる。
 涙も嘆きも見せないまだ子供の兄弟が、それでも無くした物の大きさを理解している事を周囲は知っていた。
 不慮の事故だったのが未だ救いだったろう。屈指の実力者として名高い首領とその連れ添いの名に傷はつかず、家は無事に残った。あとは幼い面差しの嫡子が成長するのを待つだけだ。

 窮屈な黒衣を纏った彼は、傍らに立つ己の半身を振り返った。

 「それより、どっちが継ぐかの方が重要だろ」

 重要、と言った割には全く興味を乗せてない赤い双眸が、同じ色の目を見る。相手も全く興味を示していないのが、その瞬間に分かった。

 「順当に行けば、キレが継ぐんじゃねぇの」
 「順当って何だ」
 「兄貴なんだから先だろ」

 至極当然のように若干母親の胎内から出るのが遅かった弟は言ってのける。確かに、一般的にいえば家は長兄が継ぐ。
 跡を継げば当然、血を分けた兄弟であろうと格段の差が生まれる。与えられる地位、名誉、財産―――全て受け取るのは家長であり頭首だ。
 大概の人間が羨み、欲してやまず、奪おうと躍起になるそれを、拘泥する事無く回そうとする。それに対して返ってきた答えは「面倒だくさい」だった。

 「お前継げ」
 「断る。面倒だ」

 速攻で兄と同じ台詞で、譲られた座を蹴飛ばす。十字架の下に埋めたばかりの両親が泣きそうな話だが、二人にはそれすら興味がない。
 暫し睨みあうように互いを見ていた赤い瞳が、同時に外れた。
 ここでまだ十数年近く先になる話を繰り広げても仕方がない。どれだけ重要であろうと今後の変容を受け、改めて正式に決定する事項なのだから。

 そうなるとやはり、先だって解決しなければならないのは目の前にある2で割り切れない形見だった。
 ―――2つある母の物は何とかなる。
 相談することもなく、お互い片方ずつ形見を、その手に取る。

 軽く、小さな貴金属。鈍い光を弾くそれは、永久の別れを遂げたヒトの命が宿るには些かちっぽけだ。

 鋭利な先端を外し、どちらからともなく向き合う己の片割れへと左手を伸ばす。
 触れた左頬に、そして抓んだ左耳に。同じ鼓動を、感じる。
 元となる父より近く、与えた母より均しい、ガラス玉の向こうの自分。
 その内側へと手を付き伸ばすように、右手に携えた切先を押した。


 ブツッ―――


 皮を突き破る音が、やたら近い。目の裏が真っ赤になるような刺激が脳を駆けてゆく。
 沿わせた左手の指に感じる、生温い体液。その鉄錆の匂いまで、一緒だ。

 「……普通は氷で麻痺らせるのか?」
 「……つーか、テメェ骨に刺しただろ」

 左耳を中心にじわじわ広がる熱。それをお互いに微塵も漂わせず、相手の耳を貫いた切先を、パチッと留める。
 流れた血で汚れてしまった手を向かいの顔から離す。
 改めて二人の視線は、自然と残された形見に向いた。

 2つなら等分できる。4つでも割り切れる。しかし3つの場合は、さてどうしたものか。


 どちらがどうすると切り出す事をしないまま、熟慮するには十分な時間が過ぎた頃。長い赤髪が揺れ動いた。

 「キル」

 父の遺した物を手に、短く弟の名を呼ぶ。向けられた顔へ、形見を扱うとは思えないぞんざいさでそれを放った。
 緩く宙に描かれる軌跡を、彼が反射的に掴む。開いた手の中に冷たい物体を見た途端、嫌そうな表情が広がった。

 「……まさかこれをやるから継げ、とか言う気か」

 眉を寄せて呟いた疑問に、押し付けた相手は『当然だ』と言わんばかりの目で見てきた。その明快ともいえる発想に、思わず拍手を贈りたくなる。勿論、目一杯の皮肉を込めて。
 はぁ、と幼さ残る顔が見せるには少々似合わない重々しい溜息をつきながら、彼は手の中の物を相手の手へと押し付ける。
 乾いた赤い汚れのこびり付く手の中で、温い熱を帯びる金属が確かな形として触れる。
 左耳に突き刺したものがヒトの命の軽さを示すならば、互いの手の間にあるものは自分たちの人生のつまらなさを物語っているようだ。

 「こんなので人生棒に振れるか」
 「俺は要らん」
 「俺だって要らん―――継ぐ継がないに関係なく、2つも要らん」

 1つで十分だ。

 異物を刺した左耳の、ひりつく熱が膿むような疼きへ変貌している。じくじく、ずきずきと、耳たぶを中心に広がっていくようだ。
 押し付けた手をさっさと引く。受け取る素振りを見せなかった相手の手へ、それでも形見は落とされる事無く乗った。
 これ以上不毛な問答はごめんだ、とばかりに向けられた背に声はかからない。
 編んだ赤髪を揺らしながら扉へ歩み寄った彼は、ふと兄を振り返った。

 半分に割った命の片方。一人だった自分の半身。
 父が居なくなっても、母が居なくなっても、変わらずに居る存在。
 離れようとしても、立ち位置を変えようとしても、結局行き着くのは一つ分の居場所。
 ならば―――


 
 片割れの居なくなった部屋で、彼は手の中の形見を見た。

 押し付けられた―――うまい事逃げた弟に、けれどあえて追うほどの労力を費やす気は起きない。

 疼きを訴える耳朶に、今度は己の手で切先を突き刺す。
 ぶつんっと音を立てた箇所から滴る熱に、片割れの血で染まった指が濡れる。乾いた赤の上から、新しい赤が指を染める。
 弟より1つ増えた形見に、しかし差異はない。


 「『どっちか』なんて、決める意味ないだろ」


 告げられた、その言葉の通り。

 互いの身に刻む物すら、二人で一つだ。


 

*蛇足*
日記から移行時タイトル変えました。

 



――――――――――
2010.5.2
4月分日記再録。