ミックス・ツイン。 …赤×緑(+弟)


 「弟さんとは、仲が良かったんですか?」

 ぽんっ、とボールををラケットで叩きながら、プーチンが尋ねる。

 「……良くはなかった」

 ぴんっ、とコートに落ちたボールを跳ね返しながら、キレネンコが首を振る。
 途端驚いたように真ん丸になった緑の眼の前に、ボールが弾む。慌ててラケットを振るいながら、プーチンは勢い込んだ。

 「本当?兄弟なのに?」
 「世の中仲の良い兄弟ばかりじゃない」
 「だって、双子なんですよね?生まれた瞬間から、一緒だったんですよね?」

 ぽこんぽこんとラリーの音に合わせて、取りとめもない会話が弾む。
 取りとめもない、と思っているのはキレネンコの方だけであって、向き合うプーチンはラケットを振るのと同じくらい一生懸命問うてきた。前髪を括ってつるんと出ている額は右へ左への移動で汗が浮かんでいる。
 そんなプーチンとは対照的に温度が限りなくゼロに近い表情のまま、キレネンコは「双子でも仲が良いとは限らない」と告げた。ましてや生まれた瞬間から一緒だったからこそ、仲が良くない場合とて、ある。
 途中、ぐふっと台にしている扉の下でブリッジをしている柱部分が合いの手を入れるが、それは気にしない。

 「でも、一緒に遊んだりはしたんですよね?」
 「……そこそこな」

 殴り合ったり首を絞め合ったりするのを遊び、と呼べばだが。

 具体的に『遊んだ』内容の説明を受けなかったプーチンが「やっぱり!」と嬉しそうに笑った。
 兄弟のいない家庭だったプーチンは、両親よりも自分に年近い肉親の存在に憧れを持っている。特に同じ受精卵から生まれた双生児なら、元となる両親より分かり合えるのではないかと思っていた。それこそ、二人居ればテレパシーからテレポートまで出来るくらい、仲が良いものなのではないかと。

 それは幻想だ、と実際双子だったキレネンコには訂正が可能だが、あえて口には乗せない。
 その瞳が輝いているなら、過去の捏造くらい構いはしない。

 入れようと思えばいくらでも点を取れる相手のコートに、きちんと返せる位置へボールを落としてやりながら、終わらないラリーがふとキレネンコの記憶の扉を叩いた。


 確かに、弟との仲は良くなかった。

 反りが合わなかった、と言い替える事ができるかもしれない。殴りあった回数だけ取るなら、他に殴ってきた連中の回数全て合計しても凌げるくらいに殺りあっている。
 けれど同時に、プーチンが言ったとおり、生まれた時からずっと一緒だった。

 ほんの子供だった時、ケーキを食べた時、一緒だった。(どちらが大きいかで殴りあった)
 スニーカーの新作が出たのを買いに行った時、一緒だった。(一足しかなかったから殴りあった)
 カードをした時、ビリヤードをした時、卓球をした時、一緒だった。(全部勝負がつかなかったから殴りあった)


 爆発で吹き飛ぶ時、一緒だった。

 吹き飛んだ後、今の身体に一緒になった。


 生きている間は減らず口を叩いて反発ばかりしていた相手は、黙って大人しく身体にくっついた。
 左顔に、右腹に、左足に。
 拒絶をすることなく、違和感を感じることなく、ただ在るのが当たり前のように、一緒になった。

 殴るため腕を振り上げる事がなくなったまま、一緒になった。

 


 「むほぉっ!」という叫び声に、はたと半眼になっていた赤眼が開いた。
 ころころと足元を転がるボールと、ラケットを離して額を押さえるプーチンの姿がその目に確認される。同時に卓球台がバタンと倒れてしまったが、こちらは完璧無視する。
 どうやらぼんやりしている間に力加減を間違えていたらしい。へろへろになって座り込んでいる相手には、心配するべきか謝るべきか。
 どちらの選択肢も感情を表すことが苦手な口には乗らない。代わりにへたっている相手へ、キレネンコは無言で近づいた。
 台をぐしゃりと踏み越えて立った傍らで、とりあえず額の様子を確認する。少し赤くなっているが重症ではないそこに浮かんだ汗を無造作に拭うと、深呼吸をしていたプーチンが顔を上げた。
 だらんとしていた手を上げ、覗き込むキレネンコの縫い合わせた顔に触れる。他の人間なら即行で振り払われている手は阻まれる事なく縫合痕を撫でた。

 「仲良しだから、キレネンコさんと一緒になってくれたんですよね」
 「…………」

 いやそれは非常に大いなる誤解だ―――と無感情の赤い瞳が語っていたが、対する緑の瞳は穏やかに微笑む。

 「ありがとうございます、弟さん」

 この人を、生かしてくれて。
 この人と、一緒に居てくれて。


 身を与えた本人からは一度も言われなかった礼の言葉に。
 繋いだ左顔がぴくりと動いた、気がした。




*蛇足*
シーズン4で弟と再会した際に、赤はこの邂逅を非常に苦く思ったり。


――――――――――



アルトコロニーの定理。 …弟×緑(+赤)


 とんとん、と叩いて資料を整えると、プーチンは向けられた手へそれを乗せた。

 「他に何かありますか?」

 進んで雑用をかうプーチンに首がひとつ振られる。礼ひとつ述べない相手に文句を言うでもなく、にこりと明るい笑顔を返して彼はソファーに下がった。
 品の良い応接セットの上には湯気を上げる紅茶と、真っ白いクリームに覆われたケーキが用意されている。
 ふかふかのソファーに腰を下ろしながら、プーチンは早速フォークを手に取った。

 ここのケーキ、すごく美味しいんだよね。

 半分それが目的でやってきているのは―――ばれているかもしれないが―――内緒だ。
 「頂きます!」と手を合わせて、はやる気持ちのままフォークを突き刺す。繊細な見た目も芸術的な仕上がりで、そのまま部屋に飾っておけそうな位手が込んでいる。崩すのに良心が咎めさえした。
 抵抗無くふわんと沈んだフォークで掬い、大きく開いた口に運ぶ。出された品に合わせて上品に食べようとする努力は最初の頃に無理だと悟った。
 ぱくっと頬張った瞬間広がる味に、身も心もも蕩けるとはこのことかと思う。
 舌の上でとろけるように広がるクリームは濃厚なのに甘すぎず、掬っていくらでも食べられそうだ。柔らかなスポンジも口の中でしゅわしゅわと解けて消えてしまう。
 自分では絶対作れな、いや普通の町にある店でも絶対食べることが出来ないような、最高級品。ただ資料の整理を手伝っただけの報酬には、過分すぎる対価だった。

 ニコニコと上機嫌にケーキを食べながら、プーチンは向かいで仕事を続ける相手に尋ねた。

 「キルネンコさんは、休まないんですか?」
 「あとでな」

 煙草片手に資料を捲くる姿に、なんだか一人休んで申し訳ないな、とケーキを食べる手が止まってしまう。
 大した仕事をしたわけではない。頭を働かせたわけでもないのに、糖分を摂取したりしてよいのだろうか。
 かといって、やることも無いのにちょろよろしていたらそちらのほうが迷惑だろう。若干の後ろめたさを感じながらも、プーチンは大人しく座っていることにした。

 先程手元に渡した資料は速いスピードで捲られていく。特に何かに書き記したり、見直しに戻ったりということはない。そこに記載された内容は見下ろす光の少ない赤い瞳を通して、全て頭に蓄積されていっているのだろう。
 プーチンの脳裏に、まとめる際にちらりと見た文字の羅列が浮かぶ。詳しく何が書いてあったのかは読み解けなかったが、とりあえず膨大な文字量だった。
 あれを、全部短時間で理解しているのか―――目の前の人物が只者でない事を改めて実感した。

 腕っ節も強くて頭も良くて、おまけに見た目も良いだから羨ましい限りだ。
 さぞかし生きていくことに苦労は無いだろうと思っていた―――が、ここ最近、プーチンはその考えを微妙に訂正した。

 確かに優秀なキルネンコは仕事をそつなくこなしてゆく。ところが、それを追い抜かせないくらい、彼の元には仕事が溜まっている。
 溜めているわけではなく、次から次に新しい内容が上がってきて元量が減らないのだ。
 取引先の状況、国営企業の構造、配下にある管理地の現状、対抗勢力の動向等など、知った範囲だけでも多岐に渡る。とりわけ機密性の強い内容はキルネンコもプーチンには触らせようとしなかったので、全体を考えれば本当に一人でやるとは思えない。

 「マフィアのボスって、大変なんですねぇ」

 しみじみ呟くプーチンを、赤い瞳が横目で見て嗤った。

 「金に飽かして遊んでると思ってたか?」

 露骨な表現で言われて、ケーキをむせそうになる。……流石にそこまでではないが、似たようなことを想像していたのは事実だ。
 慌てて紅茶を飲みながら―――これも普段使っている茶葉とは比べ物にならない、上等な物が入れられているのがカップを上げただけで分かった―――プーチンは手を振った。

 「い、いえっ!そんなことは、無いです、けど……」
 「アレを見てるとそう見えるかもしれんがな」

 ふん、と鼻で笑って資料が放られる。机の上の紙束が、また層を高くした。

 「僕が会ったとき、キレネンコさんはボスをしてませんでしたよ?」
 「今と大差ない。自分のやりたいことをやって、興味の無いことは全部放置してた」
 「そ、そうですか……」

 あっさりと吐き棄てるように告げられる言葉に、曖昧に頷く。弟のキルネンコから見れば、彼の人はそんな性格らしい。
 自分からは進んで話さない同居人の、知らない過去が分かるのもプーチンがここに通う理由のひとつだ。共同生活を始めてから足掛け三年以上で付き合いは長いといえるが、それ以前の事になると当然知らない。
双子の彼の弟を通じて、ほんの子供の時分の話まで聞けるのは大変貴重だった。
 最も、話に上げられる側はそれが非常に嫌らしく、加えてばらしてしまう相手と顔を合わせたくないのか滅多に一緒には来ない。今日も動物二匹とアパートメントで留守番をしている。約束した夕方の門限までには何があっても戻らないとな、と時計を確認する。時刻はまだお茶の時間。もう少し余裕はあった。
 お土産にケーキを半分持って返ろう、とちょっと未練の残るフォークを引きながら、プーチンはそ思い浮かべた同居人に良く似た相手を見た。

 「でも、二人で一緒に仕事をしていたんでしょう?」

 今と同じように山積みの仕事を、二人で片付けていたはずだ。一人なら手に余る仕事でも、同じくらい優秀だろうキレネンコが入ればもっと楽にこなせていたに違いない。
 首をかしげるプーチンに対し、向かいの煙草を咥えた口元がはっきり歪んだ。

 「言っただろう。あれは立場が何だろうが、興味の無いことはまずしない」
 「……ということは?」
 「面倒事は俺に押し付けてやがったってことだ」

 ふはぁ、と大きく煙が吐き出される。その様にプーチンはおや?と思った。
 双子の兄の昔話を暴露するとき、彼はたいてい面白そうな―――言い換えると、意地の悪そうな―――顔で嗤っている。赤い瞳の奥に、苦虫を噛み潰す片割れの姿を想像するように、片頬を上げて応じるのだが。
 思い出すように細められた眼は、少し遠くを見ている。そこに誰でも良くする、しかし彼が見せることは滅多にない色を見つけた気がして、プーチンはまじまじとキルネンコを見た。

 「……キルネンコさんって、ひょっとして―――」


 苦労、してますか?


 一瞬喉から出かけた言葉は、声にせずに飲み込む。

 向かいでそれ以上言うな、と吊り気味の目が睨んでいたからだ。
 ともすれば同情にも聞こえる言葉を貰うほど、落ちぶれてはいない。
 無言で釘を刺されたプーチンは、しどろもどろに代わりの台詞を探した。

 「えーっと……でも、外で仕事する時はキレネンコさんも一緒だったんですよね?」

 いつだったか、聞いたことがある。
 役割分担、というわけではないが、取引の交渉等外的な仕事をこなす際はキレネンコが主立っていたという話だ。
 そういえば理由は聞いてなかったな、と首を傾げるプーチンに、

 「人相が悪いから場に適してる」

 と、一卵性双生児の弟は言ってのけた。

 正確には普段にこりともせず、無言で威圧感を与えるキレネンコの方が若干交渉相手への牽制になるという事らしい。もっとも、蓋を開けてみればその内に潜む危険度はキルネンコの方も大差ないわけなのだが。裏方作業をサボっているのだから少しは仕事をしろ、と言う事らしい。
 「それに」と言いかけたキルネンコが、煙草を持つ手で口元を覆う。

 珍しく―――本当に珍しく、言葉を濁すような素振りを見せた皮肉の得意な相手に、緑の瞳がじぃっと凝視する。

 疑問符を一杯に浮かべた無垢そのものの顔が見続けること暫く。見据える先で、赤い瞳に微妙な、何種類もの感情が混ざった、大変複雑な気持ちを宿して、紫煙が吐き出された。

 「……兄貴だからな」

 一応、アレでも。

 ぱちり、とプーチンが瞬いた。
 半分のケーキが乗った皿のように真ん丸な目の前で、ぷかぷか漂う煙の向こうの目は明後日の方向に向いている。それが今しがた『兄』と呼ばれた人物と同じ癖であるのを、プーチンは思い出した。

 兄だから。
 好き勝手やって、裏方作業を回してくる事もある。
 兄だから。
 同じ頂点の場に立ちながら、前に立たせる。

 別に気を使っていたわけではない。ただ単に、成り行きでそうなる事が多かっただけだ。
 兄弟の間で優劣はなく、常に立場は対等で平等。同一とすらいえる。
 それでも、最終的にその位置に落ち着く際に吐く言葉はやはり『兄だから』だ。

 短くなった煙草を灰皿に押し付け、キルネンコは新しい報告書を手に取る。どうやら休憩は更に後回しにするらしい。
 そこまで急ぐ仕事でも、ましてや決して仕事熱心な性格ではないのだが、茶を置いてある場所へ座ろうという気が起きなかった―――起こさなかった、というべきか。

 新着の情報にはデパートの跡地買取の談合が上がっている。大して特徴ある土地ではないが、新地そのものに均してある事とグレーゾーンの界隈にある事が読み取れる。手を出して痛くはないと即座に判断を下して書類を投げる。予め順序良く資料が並べられていたおかげで、漸く今日の仕事に限がつきそうだった。
 割合良い秘書になれるんじゃないか、と実力を買った相手へ褒美に自分の茶菓子もやろうと顔を上げると、呼んでもないのに向こうから傍らにやってきた。

 双子の片割れに懐き、且つ向こうも気に入っているらしい、希少生物なみに天然な相手は大きな丸い目を持ってして見てくる。曇りとは無縁の澄んだ緑色はこの世界ではまず目にかかれない、手に入れるのが
困難な存在だ。

 アレもそれは苦労するだろう。

 今頃寂しく留守番中の部屋でくしゃみの一つでもしている兄の姿を想像して、口の端を上げようとしたキルネンコの頭にぽふりと何かが乗った。
 
 何か―――若干見開いた目に、それが寄って来たプーチンの手だというのが判る。

 赤毛の上に軽く載った小さな手が、頭部に沿って軽く前後する。
 そのリズムを楽しむように、プーチンがにっこりと微笑んだ。
 
 「頑張ってたんですね」

 いや、良く頑張りました。
 そう言わんばかりに贈られる、童顔の小さな相手からの賞賛。
 年齢からも社会的立場からももうそんな褒め方を受ける事のないキルネンコは、想定外の事態に。


 ―――ぶっ。


 とりあえず、吹き出した。



 「……キルネンコさん?」

 俯いたまま口元を押さえて微妙に振動をしている相手に、プーチンが手を止める。
 なんだか、お腹が痛い時みたいだ。
 不思議そうに覗き込もうとした顔が、後頭部を掴まれて急激に前進した。

 「―――どうせするなら、これくらいしろ」
 「ふわわわわっ!」

 唇に感じた柔らかい感触と、甘いケーキの後味を打ち消すような若干の苦味に、真っ赤になって口を押さえる。
 はわはわと右往左往する相手の頭を、普段より邪気のない笑みを浮かべたキルネンコがくしゃりと撫でた。


*蛇足*
伊坂幸太郎さんの作品で『長男は好き勝手やって、
その皺寄せが次男に来る』という場面が
印象に残ったので参考にさせてもらいました。
でもキレ様からすれば自分以上に奔放なキルは面倒な弟でしかなかったり。
苦労するのはお兄ちゃんも一緒。

お互いが険悪なのでぶらこんでないと言い張る。



――――――――――



災難は7度、報いは1度。 …運+狙


 「ボリス、待てよ―――!」

 上官室の扉を破壊する勢いで開けて廊下に飛び出した相棒に、コプチェフは声をかける。
 向こう見ずな背中を慌てて追いながら―――そんな際でも退室の挨拶は忘れずに―――、聞く耳を持たないと分かっていて呼びかけた。

 「待てって。少し落ち着きなよ」
 「うるせぇっ!付いてくんな!!
  状態確認?現状把握まで待機?―――ふざけんじゃねぇ!」
 「ちょっと、声でかいよボリス」

 廊下どころか本部の建物全てに響き渡るような怒声に、コプチェフが声を潜める。聞きとがめられればあまり愉快な結果を起こさないだろう内容も、今頭に血が上っているボリスには分かっていない。
 いや、分かっていてもこの直情型の相手は言いたい事を言うのだろう―――横で諌めながらも、コプチェフは溜息をついた。
 震えた空気に背後を振り向く事無く、ボリスは進む。ブーツを踏み鳴らし、床を蹴破らんばかりの力強さで廊下を進むと、行き着いた先のロッカールームの扉を躊躇いなく蹴り開けた。
 また始末書物だな、と蝶番が馬鹿になってしまった扉に一瞥くれ、振り向かない背にコプチェフも続く。呆れたような目をしている彼の前で、ボリスが自分のロッカーを掻き回した。

 手錠、警棒、拳銃、換えの銃弾―――諸々の装備を手荒に詰め込み、最後長大な銃を手に取る。

 相棒の相棒ともいえる存在―――ドラグノフ狙撃銃を肩に担いだ相手に、コプチェフは気のない声で言った。

 「VSS携帯の許可は下りてないはずだけど?」

 途端、ギッ!と睨み付けて来る漆黒の双眸に、うわぁと両手を挙げる。怒気を通りこして殺意を乗せた目を、誰が治安を守る民警だと思うだろうか。
 だから制服を着てない時には同僚から職務質問されるんだよ。そう、普段からきつい目つきの相棒に思う。

 第一、殺意を覚える相手は自分ではないだろう。

 迸る殺気に一向に恐れる様子のないコプチェフの前で、ボリスが咆えた。

 「うるせぇっつってんだろうが!あんなクソみたいな命令、聞けるかっ!」

 感情をぶつけるように、拳が激しくロッカーを叩く。薄いとは言いがたい鉄板に、歪んだ痕がくっきりと残った。
 始末書がこれでまた一つ増えた。
 だが、後でその書類に唸るだろう相手は一向に意に介していない。入り口の壁にもたれて腕組みをしているコプチェフがいなければ、その体は激情のまますでに外へ飛び出していただろう。

 気持ちは分からないでもない。
 自分のプライドだって、同じように傷つけられた―――あの、無茶苦茶な逃亡の仕方をする車と運転手に。

 そうは思う。だが、それで自分の立場も投げ出して追いかけられるほど、コプチェフの頭は単純ではなかった。目の前で激昂する、真っ正直で何も恐れない相棒と違って。

 「ただでさえ後手になってるんだぞ!?これで更に待って、どうやって捕まえられんだ!」
 「だから状態確認するんでしょ」
 「そんな悠長な事言ってられるかっ!」

 冷静な物言いにボリスが感化される様子はない。
 最もこの程度で納得するようなら今までの付き合いに苦労はなかった。何度とはなく経験してきた状況に―――その中でも一番になるだろう相棒の激怒に、やれやれと肩を竦める。
 直情で己に正直なのが悪いとは言わないが、この世界ではさぞかし生きにくい性格だろうと思う。
 不合理だと思えば上官でも怯むことなく「納得出来ません!」と異を唱えることも、後々の身の振り方も考えずに立ち回ることも、コプチェフには出来ない。
 恐れ諂うわけではないが、長いものに巻かれるのは生きるうえで必要な手段だ。
 冷静に―――冷淡とすらとれる自明の理を浮かべて首を振るコプチェフを、低い声が打った。

 「お前は、来なくていい」

 平坦な、先程までの烈火とは真逆の声だった。

 水でも打ったように場を静まらせた一言に、ゆるりと湖面の色をした瞳が向く。向けられた視線の先、
ボリスの顔は怒りで我を忘れているわけでも強がりを言っているわけでもなく―――ただ、揺るぎのない目をして自身の相棒を見ていた。
 その目を真っ向から見ながら、コプチェフがことっと首をかしげた。

 「……俺、行かなくていいの?」
 「来なくていい」
 「―――そう」

 コプチェフが頷く。紫苑の髪がふわりと揺れ頷く。その顔には動揺も驚愕も浮かんでいない。
 話す事はすんだとばかりに、狙撃銃を負ったボリスは入り口に向かう。
 来た時と同じ、迷いない足取りで。来た時と異なり、カツリカツリと静かに床を踏みしめながら。
 入り口の方を向いて来ながら視線のぶつからなかい相棒に、コプチェフが改めて口を開いた。

 「俺、本当に行かなくていいの?」
 「いいって言っただろ」
 「何で行かなくていいの?」
 「四の五の言う奴は邪魔だ」
 「どうやって追うの?」
 「車くらい自分で仕立てる」
 「自分で?」
 「自分で」
 「そう。」


 「じゃあ―――俺たち、ペア解消?」


 ぴたりと。ボリスの足が、止まった。
 真っ直ぐに入り口だけを見ていた目が、壁にもたれたままのコプチェフの顔を捉える。
 その口が何かを言おうと息を吸い込み―――

 「―――ああ。」

 と、空気の漏れるような声で頷いた事に。コプチェフは。


 「―――っぶ」
 「?」
 「っあはははははは!」


 憚ることなく、噴出した。


 突然弾けるように笑い出した相手に、流石のボリスも面食らう。奇怪なものでも見るような色を黒眸に乗せると、止まっている足を一歩引いた。
 その様子すらおかしいと言わんばかりに、コプチェフが笑う。もたれた背を離し、引きつる腹を押さえて、笑いすぎで浮かんだ涙を拭う仕草までしてみせる。
 一頻り笑い倒した彼は、まだ収まらない笑いを含んだまま、目を丸くしている相棒解消宣言をしたボリスに近づいて肩を組んだ。

 「っはは、いや、もうボリス最高。惚れちゃいそうだ」
 「は?何訳の分からねぇ事言ってんだお前。つーか気持ち悪ぃ」

 ぐっと近寄った顔の、若干高い位置に置かれた笑い顔に顔を顰める。首後ろから肩へと回された腕を退けようと手を上げる先、ボリスの目の前でくるりと銀色の金属が回った。


 指を通した輪に取り付けられたキー―――そこで一緒に煌く、金属板のナンバーは『78』。


 呆気に取られたような目をしている相手へ、コプチェフは自分のもう一つの相棒を握って、笑った。

 「 Семь бед - один ответ. 毒を食らわば皿まで。付き合うよ、相棒」



―――だって、君とならどこまでも行ける。


 



――――――――――
2010.5.2
4月分日記再録。