Happy Day …赤×緑。


 麗らかな昼下がり。窓から差し込む光は温かく、ソファの向かいのテーブルにはジャムを添えた紅茶とクッキー。夕飯を作るまでのほんのひと時の休息の時間としては部屋の中は整いすぎているくらいだった。
 テレビに映るお気に入りのドラマを見ながら、プーチンはクッキーを一つ摘む。バターと卵と蜂蜜の匂いがふんわりと香り、自然顔に笑みが浮かぶ。穏やかな時間にはぴったりの香りだ。

 摘んだそれを、膝の上に頭を乗せて雑誌を読んでいるキレネンコの口元へ持って行く。視線は雑誌から動く事ないまま、唇に当たったクッキーをキレネンコがぱくりと食べた。
 サクサク噛み砕く音が聞こえてきて、ちょっと可愛い。一つひっそりと微笑み、プーチンもクッキーを口に放り込む。途端口の中に広がる香ばしさと甘さは思い描いていたものと一緒で胸を幸せ一杯に満たしてくれるようだった。
 次いで手にとった紅茶も薫り高く、とろりと溶けたジャムと相まって最高に美味しい。
 甘いものは本当に良い。溶け込むように心を癒してくれる。好きな相手と一緒に送る時間を送っていると尚更だ。

 実のところ、プーチンが楽しみにしているこのドラマがキレネンコの好みから外れているのは知っている。似たようなドラマを付けていると、いつも無言で切ってしまうからだ。
 なので唯一テレビが見られるソファでキレネンコが雑誌を読んでいた今日は見るのを諦めるしかないな、と若干しょんぼりした気持ちだったのだが。
 お茶の準備をしてから脇で大人しく洗濯物を畳んでいたところ、襟首を引っ張られた。驚く間もなく宙を浮いた体はすとんとソファに落ちる。次いで有無を言わさず膝の上にキレネンコの頭が置かれた。
 状況が分からずぽかんとしていたプーチンだったが、鼻先に突きつけられたリモコンにようやく彼の意図を知り、嬉々としてテレビを付けた。
 キレネンコの顔が雑誌で遮られていなければ、感激のまま感謝のキスの一つでも落としてしまったかもしれない。実行されなかったそれは情報として伝わっていないためどんな心情を起こすのかは分からないままだ。

 そうしてキレネンコは雑誌を、プーチンはテレビを見て時間を過ごす。話題を共有しているわけではないが、膝に触れる重みはこれほどにまでなく近くに存在を感じさせた。時折クッキーを運びながら、プーチンは不満とは無縁の気持ちでテレビを眺めた。

 ブラウン管の向こうでは男女が向き合って座り、笑いながら話している。平凡でありふれた日常の一コマそのものの表現。最近視聴率が落ちてきたドラマだが、プーチンはその単調で穏やかな時間を伝えてくる筋書きが好きだった。
 恋人と死別したり誰かに奪われ別れまた新しく出会ったりするのもドラマティックだと思うが、ただただ幸せそうな顔をした人を見ているとこちらも心癒されてくる。現実だろうとドラマだろうとそれは変わらない。痛みや悲しみを遠い所に置いている人が多いほど世界は温かくて平和であり、プーチンは穏やかな気持ちでキレネンコと一緒にお茶の時間を過ごせる。このドラマの男女のように、劇的ではなくとも何時も互いの存在を喜び合える事が出来る。

 欲を言えば、ドラマがラストを向かえなければもっと良いのだが。物語である以上、それは無理なのだろう。
 せめて『二人はそれからもずっとずっと、幸せに暮らしました』といった最終回にして欲しい。子供の童話のような幕締めならずっと想像で夢見続ける事が出来る。

 カップに口を付けたまままったりとテレビを眺めていたプーチンを、雑誌が小突いた。

 慌てて下を向くと、キレネンコが雑誌を半分ずらしてじっと見つめてくる。表情の浮かばない赤眼はどこか物言いたげにも見えなくもない。
 目を合わせたプーチンにはそれが直ぐに分かったのか、テーブルへと手を伸ばす。が、目的の物は皿の上からもうなくなっていた。

 「すみません、キレネンコさん。クッキーなくなっちゃってて……向こうにまだあるから取ってきましょうか?」

 言うが早いが立ち上がろうとするプーチンだったが、乗っかった頭は退けられない。逆に脚に押し付けるように首を倒してくる。
 当然それではプーチンは動く事が出来ない。
 疑問符を浮かべてキレネンコを覗き込むと、それを遮るように雑誌が動かされてた。
 代わりに、座り位置を正すように頭が膝の上に深く乗ってくる。
 いよいよもって、浮かしかけた腰に力を入れる事は出来ない。
 しげしげと下を見ても、見えるのはシューズの描かれた雑誌の表紙だけ。その下にある顔にどんな表情が浮かんでいるのか伺い知る事は出来ない。

 それでもプーチンは浮かぶ温かな気持ちに口元を綻ばせながら、再度ソファへ身を沈めた。
 雑誌があるため叶わない親愛のキスを、胸の中だけで送って。


 流れるエンドロールは何時も以上に柔らかな音を奏でていた。



――――――――――



魔法鏡(まじっくみらぁ) …赤×緑&双子弟。


 ポストに、封筒が入っていた。誰も住所を知らない、住んでいる当人達ですら番地を覚えていない、仮住まいのアパートメントのポストに。
 現に、封筒にここの住所は書かれていない。あるのは宛名の名前だけ―――誰からも郵便の届くはずのない、プーチンの名前だけだった。
 そんな郵便が正規ルートで届くわけはなく、当然のように切手も貼られていない。

 「誰からだろう?」

 差出人のところを見ると、こちらには名前がない代わりに住所がある。自信はないが、何度か足を運んだ事のある場所を示しているような気がした。
 住所の確認をしてもらおうとプーチンは部屋を見る。けれどその相手は出掛けてしまって叶わなかった。
 どうしようか―――迷った末、勝ったのは好奇心。
 急いでコートを羽織ると、プーチンは封筒を片手に春とは名ばかりな雪残る外へと駆けた。



 「で。わざわざ来たのか?」

 しかもアイツに黙ってか―――笑いを乗せた声に指摘され、プーチンは後ろめたいところを突かれたように口ごもった。
 住所の場所に無事辿り着けたは良いが、無断で出てきたのは確かに拙かったかもしれない。同居人のキレネンコはこの場所へ足を運ぶ事に対してあまり良い顔をしない。

 実家なのになんでだろう―――家族だっているのに。

 不機嫌そうに歪められる顔を思い出し、プーチンは不思議でしょうがない。その向かいで不機嫌な色以外は思い描いた顔と同じ顔のキルネンコが封筒を検めた。
 封を切った中には手紙も剃刀も、ましてや怪しい白い粉もない。
 スカスカなそれを振って落ちたのは、乾ききった二輪の花。

 一つは波打つ繊毛が印象的な、薄い八重で織り成される蒼い花。
 もう一方は大振りな花弁を血色に染めた、毒気ともとれる艶やかな紅い花。

 特徴的な形状で有名な二ゲラと、実際花自体に毒を含むアネモネだ。
 両方寒さに強い花ではある。ただそれをずっと雪で覆われた土地で見つけ出すのは至難だろう。
 潤いのない花達と封筒を手に、キルネンコは目を眇めた。

 随分と回りくどい―――まぁ昔からそんな傾向はあったが。

 第一中身の意味を知らない相手では分かるはずがない。いや、丸解りはされたくないのか。面倒な事だ。
 半眼になった赤眼に、来てからこのかたそわそわしっぱなしだったプーチンが思いきって尋ねた。

 「あの、あのっ、これってひょっとして、キルネンコさんがくれたんですか?」

 当たっているだろうという期待と外れていたらという不安。
 その半々の表情に、キルネンコはさてどうしてやろうかと思案した。

 正確な答えは考えるまでもない。 Нет いいえだ。花を贈っていない事など自分自身が一番知っている。
 かといって親切に正解を教えてやる必要もないし、するつもりは毛頭ない。
 一番無難な選択は、肯定して適当に作り話をする事か。
 目の前の天然は欠片も疑わず信じるだろう。中身の意味を半分程度説明してやれば、割と楽しめる反応が返ってくるはずだ。暫く遊ぶのも悪くない。

 だが、鏡扱いされているのも些か不愉快だ。こんな時だけ血の繋がりを悪用するところが実に気に入らない。
 となれば。

 「 Око за око目には目を、か」
 「え?何ですか?」

 ぼそりと呟かれた声に、プーチンが聞き返す。瞬かれる緑の瞳はそれこそ鏡面のようにキルネンコを映す。
 緑色に変色する、魔法鏡だ。
 どうとるか見物だな―――自然笑いの浮かぶ口元を隠すように、キルネンコはくるりと花を回した。 






 夕飯の呼びかけで席に着いたキレネンコは、目の前に出された皿にナイフとフォークを持つ手を止めた。

 「いただきまーす!……ほ?どうかしましたか、キレネンコさん?」

 早速スープを口にしようとしたプーチンは、正面で難しい顔をしているキレネンコに首をかしげた。
 長い付き合いの間に彼の好みは大体知ったので、魚は出さない。今日はビーフストロガノフの香草添えだ。
 黄色い小さな花をつけたその香草はキルネンコが帰る際に持たせてくれたのだ。
 ケギツネノボタンという名前らしい。変わった花言葉をしていると言っていたがそれの説明はなく、それよりももっと重要な情報をキルネンコはプーチンに教えた。

 「奴は昔からこれが好物だからな」

 ただ苦いからお前は食うな―――と若干強く諭されたため、プーチンの皿にその香草は乗っていない。もらった分は全てキレネンコの皿に添えておいた。

 この香草がキレネンコの好物だとは全然知らなかった。やっぱりずっと昔から一緒に居る兄弟だからお互いの事を良く知っているのだろう。それが少し、羨ましく感じる。
 食事の会話にその香草の話をしようかと思ったが、今日キルネンコのところへ出かけた事にまで話が及んでしまう事に思い至って慌てて口を噤んだ。
 プーチンが帰った時、既に部屋に居たキレネンコは何処に行っていたか追及してこなかった。突かずに済んだ藪に進んで突っ込む事はない。封筒も花もこっそり棚へと仕舞っておいた。
 そういえば封筒の差出人の件は結局答えてもらっていないままだった。否定も肯定もせずはぐらかしてしまうのは遣り方は異なるがキレネンコと似ている。
 似てるのは顔だけじゃないのか、と当人達が聞けば大層嫌な顔をするだろう事を頷くプーチンに気付く様子なく、キレネンコはフォークに刺した香草を眺めた。

 「…………主語はどっちだ」
 「主語?」
 
 首を傾げて聞き返すプーチンに「なんでもない」と一つ首を振って、優雅な仕草で香草が口に運ばれる。
 舌にびりりと広がった苦味は辛口な花言葉そのものだった。



 *補足*
 ニラゲ  ⇒ 本当の私
 アネモネ  ⇒ 貴方を愛する
   ……鏡に映る本当の自分の気持ち
 ケギツネノボタン(毒草) ⇒ ウソをつくなら上手に騙して
   ……遣り口に対してか、贈ったアネモネに対してか

 やった後で「ボスsに花言葉ってありえない」と気付いた。



――――――――――



そこまで、あと15センチ。 …赤×緑&看守。


 構えたポラロイドのファインダーを覗き込み、カンシュコフは唸った。

 「うーん……どうも上手くいかねぇな」

 ポラを縦にしたり横にしたり、後ろに下がって遠近感を図ったりしてみるが、どれもいまいちだ。

 「カンシュコフさーん、まだですかー?」
 「うるせぇ541番!少しの間くらい踊らずにじっとしてろ!」

 催促してくる新人囚人―――プーチンの声に、カンシュコフは怒鳴り返す。落ち着きのない新人は待ち時間が退屈なのかコサックなんぞを踊りだしてる。刑務所で踊りを踊るようなその神経が理解できないが、レンズ越しのその表情は非常に明るく楽しげだ。

 「第一お前がちっこいから面倒なんだぞ、このチビ」
 「ほふっ!ぼ、ぼくちっちゃくなんかないですよぉ!」
 「明らかにチビだろ。どチビ」
 「ふえぇー、ちびじゃないです~」

 ぷるぷる首を振って全否定するプーチンだが、明らかに成人男性の平均身長には足りていない。緑と白の囚人服も一番小さいサイズだというのにブカブカだ。
 特に隣に並ぶのが平均身長を軽く越している長身の囚人のため、対比効果で背の低さが一層際立つ。
 04番の番号ボードを持ったキレネンコは、プーチンとカンシュコフのやり取りに全く興味を示さずかったるそうに立っていた。

 囚人の照合写真を更新するべく各雑居房ごとにまとめて撮影しているのだが、この二人の撮り難いことといったら他所の比でない。
 まず写真を撮るため並べと命令した時点でキレネンコがボイコットを示し、制裁をしようとしたところで容赦の無い拳を浴び、満身創痍になったあたりでこっそりポラを触っていたプーチンが床に落として破損させてしまった。
 やっとの思いで囚人二人を並べたと思ったら、今度は被写体が最悪のバランスをしている。
 二人揃ってファインダーに収めようと下がると囚人番号が小さくなりすぎるし、アップにするとどちらかがフレームアウトする。文字通り凸凹コンビのていだ。
 ポラを構えて悪戦苦闘するカンシュコフに、プーチンは「良い事思いつきました!」と挙手した。

 「こうやって、」

 ぴょんっ。

 「一番高くなったとこで、ピース!」

 軽やかにジャンプをしてVサインを決める。ファインダーいっぱいに広がる、花丸笑顔。
 ―――しまった、シャッター押せばよかった。
 ベストショットをみすみす逃してしまってカンシュコフは思わず臍を噛んだ。

 「どうですか?これならキレネンコさんと一緒位の高さでしょ?」
 「おぉ、なるほどなー―――で、お前は04番と並んだ位置で停止出来るのか?」
 「ほへ?えーっと……はい、頑張ってみます!ほっ!ほっ!」

 ぴょんぴょんと跳ねるプーチンに、「馬鹿と天然は紙一重だよなぁ……」とカンシュコフは遠い目をした。





 空中停止を成功させる事が出来ないままプーチンが酸欠でへたばってしまったため、仕方なく踏み台で調整をとる事になった。背後の身長表示線は左右数値を変えて両方の囚人に対応させる。
 ちなみにその最終手段を許可するならキレネンコをしゃがませるでも構わなかったのだが、非協力的を地で行く彼がそれを聞くことはなかった。
 踏み台によじ登ると若干プーチンの方が頭位置が高い。普段と違う視界が珍しく、プーチンは思わずきょろきょろ辺りを見回した。

 「541番、ちゃんと前向け」
 「あ、はーい!」
 「それから04番、テメェもしゃきっと立ちやがれ!あとボードは両手で持て!」
 「…………」
 「無視んな極悪犯!!!」

 それから表示線の細工をしたりカンシュコフがキレネンコから延髄蹴りを喰らって伸びたりで、たった一枚の写真をとるのに半端ない時間が費やされた。

 ―――一体何時までかかるんだ。
 至極面倒くさそうに番号ボードを胸の前に上げたキレネンコは、ふと横顔に感じる視線に顔を向けた。
 見遣った先には同じようにボードを掲げたプーチンがニコニコと笑みを向けていた。普段低い位置にある顔が上げ底によって真横に並んでいる。
 無言のまま視線で「何だ」と問う。睨んでいるようにも見える赤眼に、しかしプーチンは脅えるでなく朗らかに笑った。

 「キレネンコさんと同じ高さなのって、何だか新鮮です」
 「…………」
 「天井まで近いし、遠くが良く見えるし。これがキレネンコさんの見てる世界なんですね」

 ぼく今、キレネンコさんと一緒の世界が見えてるんですね―――何時もより近くで聞こえる声はどこか嬉しそうな響きをしている。
 同じ目線にある柔和な緑の瞳に、否定も肯定もないまま無感情な赤眼が見た。

 「おーい、撮るぞー」
 「あ、はい!キレネンコさんも笑って笑って!」
 「541番、ピースはやめろ。ピースは」

 向けられたポラロイドへ突き出されたVサインの横で、キレネンコはぞんざいに下げていた『04番』のボードを持ち直す。面倒くさいが両手で持ったそれを正面へ向けた。


 同じ世界は、見えていない。
 同じ目線にある瞳には、憂いも苦悩もない笑い顔は映らない。
 向けられる柔らかな緑の瞳を見る事が出来るのは、自分だけだ。

 ……とりあえず写真が出来たら看守を殴って全て差し出させる必要があるな。


 カシャリと音を立ててシャッターが切られる。
 刑務所の一角で満面の笑みを浮かべた模範囚とじと目の死刑囚が、フィルムへと焼きついた。

 



――――――――――
2010.4.7
3月分日記再録。