Drizzle then fair? …赤×緑 窓の向こう、ベランダに溜まった水溜りが揺れる。 恵みの雨といえば聞こえは良いが、日常生活においては憂鬱になる―――そんな天気が、数日ばかり続いている。 「ここ最近、ずっと雨ですね」 独り言よりは話し言葉に近かったプーチンの言葉に、キレネンコから返事はない。雑誌に落としている目は外の雨をなど気にしていない。 晴耕雨読ならぬ晴読雨読。たとえ空から槍が降っても、落ち着いたその態度は崩れないのかもしれない。 連日の雨の中、蛙のレニングラードは何時もより元気に鳴いている。彼の口でもしゃもしゃされているコマネチも、本人は愉しそうなのである意味雨を歓迎しているのかもしれない。 となると、洗濯籠を抱えて何処に干そうか悩んでいるプーチンだけが、この天気に困っているということになる。 この時期は乾きも悪くて困る。それに室内に干すと部屋自体湿気てしまい、家具や食料品まで良くない水分が浸食しているような気がする。うっかりすると緑や青のモコモコした物体を目にしかねない。 刑務所時代にキノコを栽培した手腕を発揮してしまいそうだ―――幸い、綺麗好きの同居人が居るのでそこまでひどくはならないが。 とりあえず窓際に並べていこう、とシャツの皺を払ったプーチンは、ガラス越しに灰色の空を見上げた。西も東も関係なく、何処までも重く暗い雲が立ち込めている。カラッとした日向の匂いのする服を着るには、もう数日かかりそうだ。 「洗濯物も干せないし、買い物にも行けないし。長雨は困りますね。キレネンコさん」 「…………」 呼ばれたキレネンコの顔が、むくり雑誌から起こされる。明確に名前が呼ばれた今度は自分へかけられた言葉だと認識できたらしい。 相槌一つ返さない顔はいつもどおりの無表情だ。が、表を向いた赤い瞳に、プーチンは思うところがあったらしい。 こて、と小首を傾げ、彼は「読み飽きちゃいました?」と問うた。 返る声はなかったが、代わりにキレネンコは雑誌をパタンと閉じる―――どうやら、雨を気にしていないと思ったのはプーチンの思い違いだったらしい。いくらスニーカー雑誌が好きな相手でもすでに新刊と呼べない、ページ数からコラムまで暗誦できる物では満足いかないようだ。開いて眺めていたのは、単なる習慣だろう。 どことなく退屈そうな目をした相手に、微苦笑を浮かべた緑の瞳が向けられた。 「雨だけど、後で買出しに行きましょうか―――よっ、と」 ハンガーを引っ掛けようと背伸びするが、高さが足りない。こういう時、自分の背の低さを痛感してしまう。容姿にしたって背が高いほうが様になるしもうあと10センチ、いや5センチで良いから伸びないものか。 もっとも背が高くなれば恐らく至る所に頭をぶつけて大変な事になっていただろうプーチンはハンガー片手に奮闘する。 と、ひょいとそれを取り上げた手が、難なく高い場所へと引っ掛けた。 「あ―――ありがとうございます、キレネンコさん」 見下ろす赤い瞳の前に、ぺこり頭を下げる。特に役割分担を相談したわけではないが、家事一切手伝わない同居人にプーチンが文句を零したことはない。元々世話を焼くのが好きな性分ではあるし、一人でやる家事がちょっと失敗した時でも、寛容ではないはずの彼は不思議と怒らないのでやりやすい。 それに先ほどのように本当にプーチンが困っていると、後ろから無言で手伝ってくれる。一見何も見ていないような赤い瞳は、ちゃんとこちらを気にかけてくれている。 余らせぎみの長身を持つ相手に、プーチンは微笑んだ。 洗濯籠にはまだ沢山干すものがある―――二人で干せば、それだけ早く作業も終わる。 外は生憎の雨だが、揃って傘をさすのも滅多にない機会であるし良いかもしれない。 早く干して出かけようと、次の服に手を伸ばす。と。その体に、腕が巻きついた。 「?キレネンコさ―――ひゃぁっ!」 後ろから抱きすくめる腕に、何の警戒も抱かず振り返ろうとした矢先―――突然わき腹を撫でられたプーチンは、思わず洗濯物を放り捨てた。 シャツの隙間から潜り込んだ、少しひやりとする手が肌を滑る。慌てて上から押さえようとするものの、簡単にすり抜けられてしまう。上へ上へと登る手の、明確な意図を持った手つきにプーチンが首まで赤くなった。 「わ、わっ!ま、待ってください―――!」 「買出しに、行くんじゃ……」という言葉を、身を屈めて身長差を埋めたキレネンコは聞こえなかったかのように染まった項へ唇を落とす。普段髪に隠れている部位を強く吸われ、プーチンの体が跳ねた。 目に見えない後ろの相手の雰囲気が、先ほどまでのつまらなそうな空気から一転。 どこか楽しそうに感じるのは―――気のせい、だろうか。 新しい雑誌を買ってくる代わりに、別のことで暇を潰そうとでもいうのか―――確かに雨の日外に出るよりは建設的であるかもしれない。あくまで、キレネンコにとっては、だが。 ともすれば腰が砕けてしまいそうになる。口を開けば全てが吐息に変わってしまう中、プーチンはハンガーにかけられるのを待っている衣類を見て漸う声を出した。 「っ……!洗濯、もの、干さないと……っ」 買い物は百歩譲って今日でなくても問題ないが、洗った服をいつまでも丸めていては皺になってしまう。 むしろ、このままだと洗濯物が増えてしまう気がする―――胸を這う手と反対の手がボタンを一つ二つと外すのに、本格的に予感が実感へ変わってきたプーチンへ。 替えの服の心配など一切していない同居人の、非常に協力的な言葉が降った。 「後で、手伝ってやる」 晴れたら、な―――と、続けた相手の手は。外の雨より、止まりそうにない。 Drizzle then fair?(雨のち晴れ?) ――――――――――
Rain cats and dogs …弟×緑 窓ガラスが割れたら、どうしよう――― 壁に埋め込まれた大きなガラスが粉々に砕け、頭上に降りかかる瞬間を想像してプーチンは少し恐くなった。 勿論、そんな事実際に起きはしない。一般家庭で取り付けられている窓よりも強固な防弾ガラスが、たかが雨で砕けるはずがない。が、弾丸のように窓へ打ち付ける雨を見ているとひょっとしてと心配になってしまったのだ。 まるで子供のようだ―――と自分自身思ったが、どうしようもない。バラバラとつぶての当たるような音が一層不安を煽ってくる。 「どうした」 身を守るよう身じろいだプーチンに気づいたのか、隣の視線が向いた。紙面から上げられた赤い瞳に、プーチンは慌てて「何でもないです」と手を振る。 邪魔をするつもりはない。こちらは遊びで来ていても、向こうは仕事で忙しいのだから。 突然の豪雨がなければ玄関で回れ右していただろう。仕事をする本人からは気にするなと言われたが、それに甘えて騒ぐほどプーチンも厚かましくはない。 上げてもらえたのは嬉しいけど、迷惑はかけたくない―――せめて大人しくしていようとしたのに、失敗してしまった。 ちらりと横目で伺うと、まだ赤い瞳はプーチンの方へと向けられている。胸の内側を見透かすような切れ長の目と悠然と上がった口元は、隠した事全てを知っているかのような印象を受ける。受けるものの、向く目は説明するまで外されないような気がした。 じっと見据える視線に、先に耐え切れなくなったのはプーチンだった。 「その……すごい雨だな-、って思って」 気まずいためぼそぼそ小声になった声を、激しい雨音が覆う。掻き消されてしまったかと思ったが、隣の耳にはちゃんと届いてしまったらしい。 一層深く嗤いを浮かべたキルネンコが、恐縮しているプーチンを揶揄した。 「恐いのか」 「うっ……べ、別に恐いとかじゃなくって……ちょっと、退屈かなーって……」 言って、プーチンはしまったと思った。図星を突かれてつい誤魔化したが、明らかに失言である。 ぱふっと口を塞いだものの―――当然、後の祭り。 うろたえる緑の瞳の前で、暇と言える身分ではないキルネンコは手にした書類を揺らした。 「ほぅ。退屈、か」 「いやっ、あの、違います!退屈だなんて、ぜんぜん思ってませんっ!こ、言葉のあやっていうか……」 ぶんぶん、括った髪が音を鳴らすほど振って否定するが、向けられる人食ったような嗤いは崩れない。 怒っている様子はないが、このシニカルな表情を浮かべている時も厄介だ。的確で容赦のないからかい方に、いつも翻弄される。 猫が鼠を転がして遊ぶように、ころころ、転がされてしまう。鼠の側からすれば、たまったものではない。 取り繕ったりしなきゃ良かった―――子供のようだと笑われるのと、どちらがマシだっただろう。 羞恥で真っ赤になっている顔を、口の端を上げているキルネンコは―――それこそ、獲物を前にした猫のように―――目を眇める。 隙間のないソファの上でなるべく端で縮まろうとするプーチンへ、さらに追い討ちをかけるように愉しげな声がかかった。 「大人しくしてると思えば、単に暇にしていただけか」 「違いますってばー!」 「構って欲しかったなら、早く言え」 低く、雨音を割って耳朶を打った言葉に。プーチンがその意味を理解するより先に、書類が投げ捨てられた。決して簡単には扱えない、裏世界の情報満載の用紙がバラバラと床に散らばる。 慌てて紙を拾おうと動いたプーチンの体は、けれど立ち上がる前にソファへと倒されてしまった。柔らかくスプリングを受けて沈む背中と、肩の上に少しかかった重さ―――ギク、と若干強張った顔を上げた緑の瞳に、先程よりもずっと近い位置にある赤い瞳が映った。 書類を放った手に押さえつけられたプーチンは、薄い唇が刻む笑みの形を見て冷汗を浮かべる。 碌なことがない―――というと非常に相手に失礼なのだが、実際この状態でのんびりできるほどには、雨を恐がったプーチンもお子様ではなかった。 「あ、あの……キルネンコさん、お仕事は……?」 「下らん事を聞くな」 ねだったのは、お前だろう―――? 耳元まで降りてきた唇に囁かれ。元から赤かったプーチンの顔は、上から降る鮮やかな赤髪と同じくらいに染まった。 「ねっ、ねだってなんて―――っ、!」 言いかけた語尾が、止まる。首筋へ埋まった顔が舌を這わせるのに、全身が粟立つ。舐め上げる熱さに脳が焼けて、一瞬うるさいくらいだった雨の音すら耳から消えた。代わりにガンガンと頭に響く音は―――心臓、だろうか。 もう雨が恐いだとか思う余裕はない。ころり鼠のように転がされて膝裏を持ち上げられたプーチンから見えるのは、覆いかぶさった相手の愉快そうな赤い瞳だけだ。 食べられるのか、遊ばれるのか―――どちらにしたって、一筋縄では終わらせてもらえそうにない。 くらり揺れた視界が塞がれる。土砂降りの雨が消え失せた世界で、愉しげな声が、やたら鮮明に耳へ届いた。 「雨音に消されないよう、ちゃんと啼けよ?」 Rain cats and dogs(土砂降り) ――――――――――
Fog alert …運×狙 「市民の血税を上は何だと思ってるんだって、時々思わねぇか?」 「その血税で食べてるの俺たちなんだけどね」 助手席に座ったまましかめ面でもらすボリスに、コプチェフは緩く笑った。 やたら正義感溢れる、けれど誰かに聞かれでもしたら火傷では済まない熱さは、幸い車の中から漏れる事は無い。 最も自発的にパトカーに近づく物好き等前後不覚になった酔っ払いくらいで、その酔っ払いすら今日の日には大人しく家で呑んでいるだろう。 深い霧立ち込める外に出ては、折角の良いも醒めてしまう。いくら暦が夏になったからといって濡れ鼠になって喜ぶ程の気温ではない。つまり、外には速度超過の車どころか歩行者すらいない、という事だ。 その状況も助手席の相棒の機嫌を下げる一因にもなっている。取り締まる対象が居ない場所で延々見張りをするのは、つまらない。 そんなわけでボリスがサボれると喜んだのは最初の内だけだった。 動かない車は、非常に面白くない。おまけに視界を塞ぐ濃霧は陰鬱だ。 そもそもこの時期自体が鬱陶しくて嫌いだ。 天気は雨ばかりで冬と同じように薄暗いし、ジメジメした空気は微妙な温さを肌にまとわり付かせてきて不快になる。立ち込める霧に濡れれば今度は体の新が震えるように冷たくなる。 だというのに、与えられた仕事は外回り、それも明らかに時間を無為に過ごすだけの取締りだ。 同じ外に出さされるなら大立ち回りできる現場を回せっていうんだ――― 「今、銃でも乱射したいなぁって思ったでしょ?」 季節の鬱陶しさとは正反対の、やたらと清涼感溢れる声が指摘する。 元から余りよろしくない人相を不機嫌丸出しにゆがめるボリスとは対照的に、コプチェフの顔は至って爽やかだ。手を置いたハンドルを動かすことも出来ないというのに、そこに不満な様子は無い。 温厚、といえば聞こえは良いがそれが事なかれ主義を表しているのを長い付き合いのボリスは知っている―――上を批判する言葉を、曖昧に流したように。 女性に向ければさぞ喜ばれるだろう微笑に、生憎とボリスの胸にときめきは宿らなかった。 一向に対象が現れない、現れても気付かないような窓の外を睨んで、不満たらたらに吐き捨てた。 「俺は、退屈なのは嫌いなんだよ」 「知ってる。暇だとカビが生えちゃうんだよね?」 「生えるか、ボケ」 とはいっても、この湿度。鬱々とした気持ちにカビが生えたっておかしくはない。緑に苔むした自分を想像してみたが、いまいち笑う気にはなれなかった。吐き出した溜息が、さらに溜息を呼ぶ。元から少ない仕事への熱意は外の水滴を受けたように冷えた。 完璧やる気ゲージを下げたボリスは、だから除菌と殺菌をばっちり行った声が「じゃあ、退屈じゃなくしようか」と言った時も、何を馬鹿な事をと思って相手にしなかった。 娯楽道具なんて一つも乗せていない職務中の車で、どうやったら退屈を払えるのか。 外に湧く深い霧を打ち払うくらい、不可能だ。 けれど、不可能を可能にする男―――であるかどうかは不明だが、自分の太腿の上にコプチェフの手が降りた瞬間。流石に沈みかけたボリスの意識も、跳ねた。 ただ手が滑りました、というには明らかに異質な場所と撫でる手つきに、ギョッとして傍らを振り返る。 動揺を浮かべる黒眸に、ハンドルから手をスライドさせた彼の相棒はにっこりと、やはり爽やかな笑顔を向けた。 「少し、休憩ってことで」 「ばっ―――何が休憩だ!真面目に仕事しろよっ!」 模範的な民警とは言いがたいボリスの口から『真面目』という言葉が出たのがさもおかしいとクスクス笑ったコプチェフは、さらに提案を重ねた。 「じゃあボリスは仕事続行してよ。後で交代するから、俺先ね」 「ちゃんと外見ててねー」と言う台詞は、微妙にくぐもっていた。運転席から身を乗り出して、自分の腰の方へ沈んでいく紫の頭を、ボリスは慌てて上へ押す。大人しく休憩する様子のないその頭に、彼は動揺も顕に怒鳴った。 「おいコラ、何考えてんだ!つ、つーか、ここどこだと思ってんだよ!?」 思わず、窓の外を窺ってしまう。人通りは相変わらずないが、それでも往路に面した場所である。カーテンもついていない車を、誰も覗かないなんて保障はない。慌てるボリスとは対照的に、くぐもった明るい声が軽く応えた。 「だーいじょーぶ。これだけの霧だから、外からは見えないって―――でも」 カチン、と。ズボンの金属部を歯で噛んだコプチェフは、仕事を任せる相棒へ深めた笑みを向けて、釘を刺した。 「もらう税金分、『真面目』にお仕事してね?ボリス」 出来るか―――!上げかけた叫びは、口元を押さえた本人の手に防がれた。 Fog alert (濃霧注意報) ―――――――――― 2010.07.13 6月分拍手再録。 戻 |