ある夜の話。 …赤×緑
これは、ある夜の話だ。
その晩、プーチンはふと目を覚ました。
特に喉が乾いていたわけでも、寒かったわけでもない。鉄格子から見える外は真っ暗で、外れの方に見える星に目を開けるほどの眩しさはない。
年に数回ほど、こういうことがある。いつも一度眠ったら朝まで目を覚まさないのに、何が原因か分からないままぱちり瞼が開く。そしてそんな時ほど不思議と目が冴えるのだ。微睡でも夢現でもなく、はっきりとした覚醒を起こす。
開いた目でまず最初に認識したのは、鼻先。一番高い部分から真っ直ぐ通った鼻梁を上へと辿り、分岐軸のように左右等しく広がる柳眉を見る。
本来ならばその下には眉の色と同じ、紅い瞳が埋まっているが今はきっちり閉じた瞼によって隠れてしまっている。帳となったその部位を扇状に縁取った睫毛は間近なのを差し引いても長く、ふるり動けばこちらへ当たりそうだ。
そこからさらに目線を落とす。すると、引き結ばれた薄い唇がある。普段からあまり喋らない口は何か言葉を零すでもない。時折頬へ触れる寝息だけが彼が夢の世界の住人となっていることを物語る。
ひとしきり隣に眠るキレネンコを眺めたプーチンは、改めて思った。
羨ましい位に、整った顔だと。
あまり美醜に固執しないプーチンでも、やはり男として格好良くありたいとは思う。ありふれた人並みの、どちらかというと童顔と評される自分の容姿に少なからず残念な気持ちになったことだってある。
その点、彼はパーフェクトではないだろうか―――顔だけではない、体つきだってそこに備わる力だって、平均をはるか上回っている。
男性的で、けど、綺麗だ、とも感じる。
それは滑らかに張っている肌の質感であったり、安全ピンを刺した耳や、首筋や、もっと範囲広めれば自分の頭の後ろに回されている指だったり素足に触れた脹脛だったりする。
身の上に数多走る傷跡など微塵も影響を及ぼさない。パーツのひとつひとつが、細胞の一片一片が、自分とどこか異なる要素を持って構成されている。
―――もしかしたら、そのせいで彼は敬遠されているのかもしれない。
切れ長な目元などそうだ。覗き込めば正しく輝石のように深い紅の双眸はあまりに深く、底が見えないからこそハッとさせられる。
澄んだ川面を眺めている時、山間からはるか下の谷間を覗いている時。気がついたら、体が落ちそうになっているのと同じ。足元を護る重力の檻をなくした瞬間の戦慄を、その目に覚えるのかもしれない。
しかし、例えそうだとしてもやはり彼が優れた人種であることには間違いはなく、だからこそ、プーチンは一層分からなくなる。
何故、そんな人が自分を抱えて眠っているのか。
入れられた房が二人部屋である以上、対象が限定されているのは確かだ。仕方ないとも言い換えられる。だが、クールというよりもドライ、手を伸ばせば払いのけるか無視をする、馴れ合うことを嫌悪しているかのようにも見えるキレネンコの性質からすると些か変な話である。
これがプーチンが女性で、かつ彼と対称になるような容姿器量ともに完璧な物を持っているなら分からないでもない。しかし、平均男性から縦横総合的に削ってしまった体は抱き枕としてすら不適合なはず。
暖を取るだけなら、看守に持ってこさせたふかふかのダウンケットに潜れば十分なのだ。わざわざ、擦り切れたプーチンの側の毛布へ入ってくる理由にはなり得ない。
理由、意味。そんなもの自体、そもそも存在しているのだろうか。
たまたまなのかもしれない。気まぐれや思いつきでよく日常行動を示しているから、その一環だという可能性はある。
或いは、プーチンが思っている以上に彼は人肌恋しいのだとか―――説としての力強さは、これが一番欠けている気もするが。
普段はこんなこと、気にしたりはしない。深い眠りは明け方まで続き、起床の点呼で跳ね起きた後は始まる一日の事で頭が占められる。
考えるのは、今夜のように不意に目が覚めた時だけ。他に何も思う事がなく、目の前に綺麗な顔があった時だけだ。
答えを探すように、そっと隣を覗き込んでみる。
顔の左右で異なる皮膚の色は暗さに隠れ、境目となる大きな縫合跡だけがぼんやり浮く。初めて見た時は随分驚いたが、もうすっかり見慣れてしまった。
この傷も、彼の一部だ。そこへ存在する過去・因果・心情のいずれもをキレネンコがはっきり語らなくても、それがプーチンの中で出た結論だった。引き攣れた曰くのあるそれは恐れの対象ではなく、印象を深める一種の印なのだと。
古傷を覆うように長い髪が降り掛かる。皮膚よりももっと色濃い、燃盛る紅蓮を模したかのような色は宵闇に溶けることなく開いた目を鮮烈に焼いてくる。
硬質に跳ねる、赤毛の一本まで。やはり、美しい。
精緻な人形のようでありながら、そこへあるのは輝くだけが全ての儚い『美』ではなく、もっと荒削りな、野生の獣に通ずる精彩を全身から放つ。孤高で、そしてしなやかな『美』。
キレネンコと並べば、プーチンなどその毛先程度にしか世間へ存在を認められないに違いない。
路傍へ転がる小石よりも咲き誇る大輪の華を、枯れるだけの草葉よりも艶やかに空を舞う蝶を、世界は愛しむ。価値あるものを擁護するため、その他多くを下として切り捨てるのはよくある事だ。
仮に彼が狭い監獄を出る事が叶えば、その理に従い誰しもの目を引き寄せよう。
そこではこうやってプーチンが傍へ寄る権利も、必要性も派生しない。キレネンコの方が、求めたりしない。掃いて捨てるほどに集まった衆人の中から、彼は自身に釣り合う誰かを選ぶだろう。
―――なら、逆にこの状況は稀に見る幸運なのではないか。
発想の転換。理屈の摩り替えと言っても良い。理由の如何を問わず、起こる疑問の一切を無視して、都合の良い結果だけ残す。
小石でも、草葉でも。どれだけ己がちっぽけであろうと、稀有な存在と寄り添えること、それ即ち幸運なのだと。
平凡な日常を送っていれば填まることがなかった位置に収まり、見ることが出来なかった顔を眺め、触れることが許されなかった熱を感じ得る。
特別と有頂天になるのは勘違いだとしても、彼の意思を侵害せず純粋な喜びを見出すのは。そこまでは、プーチンの自由であるはず。
そっと、指を持ち上げる。眠る相手を起こさないよう、細心の注意を払ってかかる赤い髪を退ける。ピクリ微かに震えた頬に一瞬慌てたが、幸いにも瞼は降りたままだった。
煌く紅玉を見たいと思わないではないが、それは朝日が昇ってからで良い。
隔てるものをなくした顔は益々端正だ。同時に、先ほどまで見えなかった部位が新たな発見もたらす。
すっかり癖になっている眉間の皺は、流石に今は消えている。下がりがちの口角も、正しい直線の位置へ。
静かで、覗き込めない場所へいる彼もきっと、心穏やかな時を過ごしているのだろう。
力を抜いた寝顔は、どこか幼い-――と思ったのが知れてしまえば、キレネンコは大層嫌な顔をするかもしれない。だから、眠っているのは丁度良いことだ。
ふふ、と小さく笑んだプーチンに、睡魔の足音は戻ってこない。
このまま夜明けまでの数時間、綺麗な横顔を眺め続けていよう。
胸に灯る明かりを抱きしめるように、温もりに抱きしめられたまま新しい朝を迎えよう。
それは夢を見るのと同じだけ、幸せなこと。
これは、ある夜の話だ。
目を覚ましたプーチンだけが知っている、幸福で満ち足りた、そんな夜の話。
――――――――――
Diorama City. …双子
高みから見下ろす街は、まるで模型だ。
切り立った崖の上、キレネンコは常より遥か高い視点から自身の手中にある場所を見た。
猥雑な建造物が聳え立つ場所で、蠢くように呼吸している生物―――それもまた、模造に過ぎない。
意味のない生、価値のない存在。踏み潰しても消し去っても世界になんら影響を与えない烏合の衆。一瞬は騒ぎになろうと、すぐに誰もが忘れ去る。そして空いた穴には、別の何かが必ず填まり込む。
例え見下ろす場所が街から都市へ、都市からこの国全体へと変化していこうと、その構造自体は変わらない。
ただの老化現象を『生』と呼び、無意味に叫び、喚き、過ぎる時間にもがいている連中誰もが代替がきく。率いるファミリーの面々でさえ、必要とあれば挿げ替えられる。
例外的に代わりようがないとすれば、今こうして思考している自身と―――、
「何フラフラ出歩いてやがる」
ザリ、と土を蹴る音に、思考が中断する。声をかけられるまでもなく、相手が近づいてきていることは承知済みだった。気配を感じたからというよりも、もっと感覚的なものによる判断。
脇に立った向こうもそれは同じだろう。行き先を告げなかった場所で並んだ双子の片割れは、ここへキレネンコが来た理由も何をしていたのかも全く興味がない様子だった。
煙草を引き抜く己と瓜二つの顔を横目に、キレネンコは口を開いた。
「―――始末は」
「ついた。というか、毎回暴れるだけ暴れて放置するな、キレ」
ジロ、と睨むキルネンコの目は若干機嫌悪いのが伺える。仕事折半にと後始末を押し付けられたとあれば、怒るのも分からないでない。
目的としていた組織の壊滅は、確かに手を煩わされずに済んだ。先陣きってつっ込んでいった背が一人立ち回り、瓦礫と死体の山を築き上げたのは、認める。
しかし、それとて単にキレネンコの虫の居所が悪かったが故だ。私情の絡んだ偶発的な行為のどこが分担か。
鋭い視線とセットの譴責は、勿論キレネンコに毛ほどの影響も与えない。頷く動作に代わり、黙って手を突き出す。宙へ向けられた掌に一瞬キルネンコは顔を顰めたものの、ぽいと自身の所有する箱を落とした。
華美な金色の縁取りが斜陽に踊る。煌きを撒き散らすパッケージはとは裏腹に、その味は不味い。というのが違う銘柄を愛用するキレネンコの意見だ。
「文句があるなら返せ」
文句はある。が、これしかないのだから仕方がない。
自分の物は乱闘の最中落としてしまったのだから。と、妥協に取り出した一本を口に運べば、ライターの火が近づく。ジッ、と鼻先を軽く炙った炎に対して、キレネンコは特に感想を抱かない。これもまた、何時ものことだ。
雑味のある、普段と異なる味を肺へと満たし、視線を戻す。
立ち上る煙越しに見る街は一層貧相でガラクタじみている。見苦しく、混沌とした、歪を寄せ集めて出来た虚構の街。
突けば簡単に崩れるあの場所で、今日もまた模型が減った。
そして明日には、また同じ位置に居る誰かを消す。
この手で沈めた、この手で止めた命は。それでも、何かしらの意味を抱いていたのか。
「―――……キル」
「あ?」
真横で同じように紫煙を吐き出すキルネンコ―――その息が若干満足そうなのは、好みにあった品だからだろう。
嗜好の瑣末は別として、良くも悪くも大部分が似通ったこの片割れは。キレネンコ同様、睥睨する模型の中へ代替のいない存在は。
「お前は、何のために生きている?」
ちらとも視線を向けず放った問いかけに、赤い瞳が瞬いた。
意外だったからか、それとも思うところがあったからか。多分どちらでもない、とキレネンコは推測する。
理由は言うまでもない。怪訝な表情に次いで隣が浮かべたのは、得意の、人を馬鹿にしきった嘲笑だったからだ。
「生きている?何のため?ハッ、何口走ってんだお前は」
「……」
「そんな馬鹿げたこと、よく思いつくな。ついに頭がイカレたか?」
「いいからさっさと答えろ」
放っておけばいつまでも皮肉を繰り出す口へ先手を打つ。
実のある返事があるとは、はなから思っていなかった。逆に、まともな―――世間一般でまともと呼ばれる、陳腐な型きり文句が返ってきたりしたら、そちらの方が薄ら寒い。
そういった意味も含めて、血の繋がった兄弟に対してキレネンコが抱く期待など、欠片もない。
ただ―――少し、気になっただけだ。
同じ場所へ立ち、同じ色した瞳で同じものを見、同じように倦んだ『生』を送っている相手は。一体、何を考えているのか。
何を思い、生きているのか。
箱庭の世界で在り続ける、その命が持つ意味は―――
時間にすれば、ほんのわずかだったと思う。
「分かりきったこと、聞くな」
はっきりと、一蹴する声。煙草一息吸うか吸わないかのその間に、思案と呼べる処理はなかっただろう。無論、逡巡も。
先ほどとほぼ差のない返答に、やはりキレネンコは落胆も失望も覚えない。
所詮、その程度ということだ。考えるのも無駄な、下らない、相手の言葉を借りれば馬鹿げたこと。そんな質問に答えなど、存在しようもない。
そう思い直していたキレネンコの耳に、意外にも続きが届いた。
「これの他に、何の理由がある?」
一拍遅れ、バサリ鳴った音。昇る煙を分断するよう突きつけられた紙面へ、一貫して無感動だった赤い目が歪んだ。
「紫は、俺のだ」
「…………」
広げた愛読書の向こう、キルネンコが嗤う。向けられたしてやったりの笑みに、即崖から蹴り落としてやりたい。とキレネンコは思った。
だが、どんなにキレネンコが殺気立とうとこればかりは覆らない。欲しいものは、早い者勝ち。靴に限ったことでなく、この世界の理である。
力に物を言わせるという最終手段は残っているが、すでに一暴れした今日、同等の力技で返してくる相手と延々殺り合うのも面倒くさい。ましてや、揃いのものを持つなどどれだけ秀逸の作であってもご免だ。新作スニーカーに一番合う、流行色のパープルは今回は見送るほかない。
チッと舌打ちするキレネンコへ対し、優先権を得たキルネンコの表情は明るい。対照的な表情を同じ顔へ浮かべたまま、吸い終わった煙草を踏む―――靴底を地面へ擦り付ける、その癖を良く思っていない隣からの非難の眼差しは勿論スルーだ。
「行くぞ」と言って踵を返す姿は非常にあっさりしたもので、キレネンコが後ろに続くかどうかなど一顧だにする気配ない。居たければ好きに居れば良い、自身にはなんら関係ない、と言外に示す。
意気揚々と一人来た道を戻る片割れを、キルネンコは見た。
編んだ髪を揺らすその頭からは、先ほど話した内容はもう消えているはずだ。
占めているのは最早、スニーカー一点のみ。
普段人を馬鹿呼ばわりしているあちらのほうが、よほど単純な作りをしている。
「…………」
ひとつ、深く息を吸う。
本来なら体の隅々まで活力を与える煙は、最後の一息までとことん、不味い。
すっかり短くなった口に合わない煙草を、キレネンコの手が無造作に投げ捨てた。
チリチリと音を立てる火は一直線、崖下の街へと落ちていく。やがて地面へ辿り着くそれは単なる灰に消えるかもしれないし、一帯を焦がす焔となるかもしれない―――それこそ、キレネンコにとって関係ない話だ。
考えるべきは、紫に次ぐ二番カラーが何であるか。赤か黒か、少しでも見栄えのする物を丹念に磨けば、価値は高まる。
僅か大きくした歩幅で足を踏み出す。
迷いなく目的地を目指す背が、もう後ろを振り返ることはない。
この命に、意味なんざなくても。
***
双子で煙草の銘柄違うというのは、大昔に立てた捏造設定から。
ロシア産の煙草調べた結果、キルのはパッケージが派手なヤヴァ・ゴールドという銘柄にしようと……キレは昔ながらの、癖のあるゾロトイ・リストを持たせたい。実際は、後者の銘柄が雑味は強いらしいです。
なんだかんだ言って割と妥協するキレに対して、キルは絶対相手の煙草吸わないとか、当時メモっていました……
――――――――――
永訣の花 …双子+緑
そこには確かに、想いがあった、
「無意味だと言ったんだがな」
何をしても意味などない、と。薄く笑みを浮かべ、誰に言い聞かせるでなく彼は言った。
「死者に知覚は宿らない。残るのは只の物だ。肉と骨。腐り朽ちていくだけの亡骸―――死ねば、そこで終わりだ」
「……だから、意味がないんですか?」
「哀悼も追憶も、全て生きてる人間のために存在する。自己満足に浸ったところで、何が得られる?」
はっきりと言い切る。口にした問いかけの答えは恐らく、何もない、が正解だ。
では何故、この場所はこんなに綺麗なのか―――
広い庭の一角、ほんの隅の方ではあるが芝から雑木まで丹念に手入れが行き届いている。
静謐で、清廉で、寧静で。何より、空気がとても穏やかだ。踏み込めば時すら留めてしまう、柔らかく満ち満ちた場所。
本当に意味がないのだとしたら、こんな澄んだ空間を作り上げる事なんて出来はしない。『誰か』の、想いが込もっていなければ。
「自己満足で構わない、と言ってきた。だから好きにさせたまでだ」
彼としては、それで話は終わったのだ。気分を害しさえしない。訴えはどこまでも無意味で、興味のない物に過ぎなかったから。
そして、一人、二人。赦された人目につかない狭い場所へ花を添え、水を撒き、石を清め。毎日毎日、身を潜めるようにして訪れた。
堂々と出来なかったのは彼に対する配慮だろう。決して残った彼を非難しているわけではない。他方に肩入れしているわけでもない。
表に出さない彼が、本当は誰よりも一番悼んでいるのだと。触れてはならないのだと。暗黙に諒解して、己に言い聞かせる。
これは、自己満足だ。
失った事に対する、哀悼の。忘れがたい事への、追憶の。
慕っていた、
敬っていた、
憧れていた、
崇めていた、
愛していた、
代え難い存在が居なくなった、自分自身を慰める儀式。
例え―――立てられた墓標の下には、何もない事を知っていても。
だから余計、この場所は居心地良いのだろう。
残った者が良かれ、と思って築く場所だから。自分達のために、誠心尽くす場所だから。
死者のためではなく、生ける者が。心穏やかで居られるように祈り捧げる場所だから。
「でも、それだけ皆―――好きだったんだと思います」
想っていたからこそ、哀しいのだ。大切だからこそ、残しておきたいのだ。祈らずには、いられないのだ。
かの人へ届こうと届くまいと。器であった肉体がこの地へなかろうと。
二度と逢うことの叶わぬその御霊が、安らかであらんと―――願わずには、いられないのだ。
鼻で嗤う音が届いた。
「随分と都合の良い話だな」
自分勝手なご都合主義だ。自然の摂理もあるがまま認められない、弱者の空論だと。鋭く指摘する。
反駁出来ないでいると彼はもう一度嗤い、片足を振った。コツン、と靴先の触れた石が軽い音を立てる。
「あっ、」
「ただの石だ」
慌ても騒ぎもせず、冷静に言ってのける。そう、彼にすれば単なる石なのだ。石は石、人は人。死人から抜け出た魂が別の固体である碑に宿るなど、妄想だ。否、そもそも魂という存在自体あやふやな、生者の願望が生み出した幻に過ぎない。
実体持たない物へ仮初として据えた標を蹴ろうが踏もうが、何ら影響与えない。暗にそう説いている。
石の傍らには一束の花束が置かれていた。此処へは初めて来る。そう言った、彼が置いた花だ。
赤い―――燃え盛る業火のような、紅。彼岸の岸辺を彩る花。
死人花の別称を持つその花を彼が手向けとして選んだ理由は分からない。ただ、華やかな中に哀切を感じさせる印象のあった花は、どうしてか、とても自然に美しいと思えた。
彼が置く前にも、何種類かの花が並べられていた。そうやって絶えず枯らすことなく、ずっと。失った日から今日まで続けられてきたのだろう。
無意味かもしれない。自己満足かもしれない。哀しみと決別し、自身救われんとする欺瞞に満ちた行為なのかもしれない。
そうだとしても―――此処に集う『想い』は。何よりも確かな、真実。
ふと、上げた視線が赤い瞳と重なった。
「……お前も、そうか」
「はい」
そして、自分も、きっと。立場同じであれば、祈り願っただろうから。
はっきりと頷く。自己満足を是とした自分を、彼は呆れもしなければ嘲笑もしなかった。ほんの少しだけ、口角を上げて。薄っすらと、緋の色を細くした。
「だ、そうだ―――死人は大人しく土に還ったらどうだ」
「…………」
「き、キルネンコさん、それはちょっと……」
死人、と不穏当な形容に慌てて振り返れば、評された当人は激しく柳眉を顰めている。
此処に足を踏み入れた時はなかった表情は、勝手に存在を淘汰されていた事ではなく、声を掛けられたそれ一点に対して不快感を覚えているらしい。突き刺さりそうなほど鋭い視線を同じ顔した相手へくれる。
ややあって、キレネンコは一歩、前に出た。
ずっと仁王立ちで不動の姿勢見せていた背中が、一歩二歩、大股で歩く。
程なく距離をつめ、自分の墓標に向かい合った彼は大きく足を上げ―――蹴った。
恐ろしい正確さで真っ二つに割れた石へ驚き目を見開く、その間に更にもう一発。四分割。八等分。三十二小片。供えられた花も巻き込み、蹴って、蹴って、蹴って、蹴る。
「あー、あー、あーー~」
見る見るうちに碑は砕け、粉々になり、石から礫へ、礫から砂利へと変貌し。踏んでも愛用の靴裏に傷がつかないまでサラサラな真砂土状態にしてから、漸く足を止める。
もう墓の跡形もない。すぐさま取り巻く空気が変わるわけではないが、この場所を作り上げていた根幹がなくなった以上いずれ霧散しよう。
勿体無い、と言うのはおかしいし、罰当たりな、と言うにもそもそも建てられている本人がやっているのだから構わないのかもしれないし。言いあぐねているプーチンに代わって、キレネンコがボソッと言った。
「くだらねぇ」
簡潔な一言だ。下らない。碑石も、飾花も、弔意も、此処も。此処に訪れる誰も彼も。吐き捨てるほど、下らない。
無意味を通り越し馬鹿げている。拵えた『誰か』の気が知れない。キレネンコには分からない―――生きて、いるから。
死ねば、そこで終わりだ。飾り立てたところで死者は分かりもしない。存在もない物に対してどうこうする暇があるのなら、生きている者はその時間を己の生のために使うべきだ。無言のキレネンコの主張に、間髪入れず水が注される。
「遠慮するな。埋める手伝いぐらいはしてやる」
「…………」
「おおおっ落ち着いてキレネンコさん!スコップは上に向けるものじゃないです!」
先手必勝とばかりに近くに掛けてあった整地用スコップを振りかざし、ゆらり幽鬼漂わせる腕にプーチンがしがみつく。絶対確実に、地面ではない所へ穴が開く。更地になったばかりの場所へ早速違う名前の刻まれた墓標が立つなんて不吉過ぎる。
ぶら下がるプーチンの必死さが伝わってか、それとも腕がだるくなってか、キレネンコは一つ鼻を鳴らすと手の物を投げ捨て、踵を返す。スタスタ、迷いない足取りで進む後姿はちゃんと出口の方角へ向かっている。何年離れていても感覚で覚えているのだろう。
置いていかれたプーチンは類似した二つの顔を交互に見ていたが、最終的に機嫌を損ねている方を何とかせねばと考えたのか駆け出した。「待って、待ってー」と遠くなる背中に追い縋ろうとするその努力を最大限まで発揮すればひょっとしたらうまく取り成せるかもしれない。
そして、残った彼は。綺麗さっぱり何も残らなくなった場所に落ちる、靴跡だらけの赤い花を見。
やはり、笑った。
(だから無意味だと言ったろう?)
あの日に別れを、今日に 再会を
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本当は彼岸花に『別れ』の花言葉はありません…
イメージ先行という事で…ちょっと、ズルしました。
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2012.02.15
日記再録。
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