学問ノススメ …赤×緑


 プーチンが、本を読んでいる。


 珍しいことだ。開いた雑誌越しに見えた同居人に対し、キレネンコは思った。
 しかも読んでいるのは内容の大半をイラストで構成してある絵本やコミックの類ではないらしい。きちんとカバーのかかった冊子。タイトルは見えないが、実用書の類ではないか。そこそこ背表紙の厚い、文字ばかり書かれた本をプーチンが読むとは。本当に、珍しい。
 普段なら趣味の雑誌開いた瞬間からそれしか見えなくなるキレネンコなのだが、あまりの物珍しさについ目がそちらへ向いてしまう。揺らす足も止め、彼は普段と異なる同居人を観察した。
 文字追うプーチンの表情は真剣そのもので、頬にしろ口元にしろ緩んだ箇所が見当たらない。ソファへ寝転んでいるキレネンコとは対照的に腰掛けた背筋はピシっと伸び、赤い瞳がジロジロ不躾な視線送っているのにも微塵も気づかない。大した集中のしようである。
 本を読む、というのは周知の通り、割と高尚な頭脳がいる。単語を知っていなければ文を読み解けないし、意味を理解せねば内容を先に進めることはできない。他の生物が文字を残せないのと一緒だ。高等生物だけが行いうる特権の一つ。
 言い方を変えれば書物一冊まともに読めない輩は進化の過程で止まっている―――キレネンコ自身、スニーカー雑誌と新聞くらいしかまともに読まないのだが。
 いずれにせよ、本を読むのは悪い事ではない。他愛ない内容であろうと教養が増えればそれだけ自身に磨きがかかるのだから。
 ふむ。ひとりごちてキレネンコは視線外した。
 特に、害はない。相手の意思を尊重するべし。手短に適切な判断を下し、自身も読書を再開する。
 愛読書へと向く表情はいつも通り無表情ではあったが、ほんの僅か、穏やかな気色を覗かせていた。
 部屋を満たす無音。紙捲る乾いた音と、時折文章読んでいるらしいプーチンの口が小さく動くことを除いて沈黙した場は、けれど重苦しくはない。
 元々静寂はキレネンコの好むところである。二人いるのに会話がない事を気まずく思う性格でも、そして間柄でもない。
 静かに向き合ったまま、書を読み、智を得る。寒くも暑くもない快適な室内、窓の向こうどこまでも続く澄み切った青空―――秋の気配深まる中、ゆっくり流れていく時間の使い方としては中々有意義といえる。


 こういう過ごし方も、たまには良いものだ。


 普段と一風変わった雰囲気の中へ浸るよう、クッション深くに埋まる。流行を迎えたオータムカラーの洗練されたスニーカー達を目に、キレネンコの意識が没頭したのはそれから然程間を空けないうちだった。

 

 

 「…………」

 雑誌の三分の一ほど読み進めた頃。生理的な喉の渇きを覚え、キレネンコは深層潜っていた自我を一時浮上させた。スニーカー一色だった脳を室内へ適応させる、と同時に紙面から上げた顔を正面へ向ける。

 久々に見たプーチンは、驚いたことにまだ、本を読んでいた。

 姿勢もそのまま、緑の瞳もパッチリと開いている。てっきり船でもこいでいるだろうと思っていたキレネンコは予期せぬ姿に軽く目を瞠る―――一瞬、窓の方を確認してしまったほどだ。
 ガラスには一滴の雨粒もついておらず、広がる空は青い。清々しいまでの秋晴れは思わずふらり出かけたくなるような気持ちにさせるのだが、外出好きなはずの同居人はそれに目もくれない。視線は相変わらず、掲げた本へ固定されている。その向こうに隠れた、普段どれだけ人が返事をしなくても一方的に何かを語るおしゃべりな口が一度も話しかけてこなかったのに至っては天気でなく時計を確かめた。勿論、針はキチンと動いている。時が止まっているしているわけでも無限ループしているわけでもない。
 ―――なんだかここまで来ると珍しいを通り越して訝しくならないでもない、が、兎も角。プーチンは、読書に集中している。一心不乱に紙面へ噛り付く様はまるで試験勉強に励む学生のようだ。顔が童顔な分、余計そんな印象受ける。
 恐らく監獄で出会うよりさらに数年、時巻き戻せたら同じ光景を目にするのではないか。今同様、真面目にサボることなく勉強に取り組む十代のプーチン。努力の割にあまり、成績は芳しくなかったであろう。失礼ながらそんな見当をつけてみる。
 しかし眉間に寄った皺はあまりいただけないな。思いつつ、キレネンコは赤い瞳でじっとプーチンを見つめる。

 「…………」
 「……まずは、様子をしっかり観察すること……ちょっと工夫すれば変わる……」
 「…………」
 「あせらずにゆっくり……怒ると逆効果です、と……」
 
 うん、大丈夫―――ブツブツ呟く、独り言らしい声を暫く聞き。無言で雑誌閉じた彼は、そっと身を起こした。
 黙っていても空気を感じ取って動く、気の利く同居人を快く思ってはいる。が、相手を使用人扱いした覚えは一度もない。ましてや、うまく状況が伝わらないことにキレネンコが腹を立てるなど―――他の者が聞けば「毎度だろうが」と激しく糾弾されそうだが、同居人に限定してで言えば―――ありえない。
 自分の欲しい物くらい、自分で取りに行く。それに、たった一杯の飲み物でこの心地良い空間を壊してしまうのは、些か惜しい。未だ顔上げない相手を横目に、靴底と床の触れ合う音を一切立てずリビングを抜ける。
 家の中で唯一、自分の領域外である台所。そこに立ったキレネンコは戸棚からカップを取り出した。同居人が選んだサイズ違いでお揃いのソレを二つ、並べる。
 いるかいらないかは知らないが、ついでだ。持って行った後で飲まなければもう一杯自分の喉へ流すだけのこと。問題はない。
 季節的にはほんわり温かい茶が最適なのかもしれないが、生憎そこまでのスキルはない。茶器用意する行動に代わり、次に彼が取ったのは貯蔵庫の扉を開くことだった。

 確か先日、葡萄のキセリを同居人が買っていたはず―――すっきりした季節の果実の甘さは頭の回転もはかどらせるに違いない。

 なんとなく心浮き立つ気持ちでキレネンコは中を確かめる。肉、卵、牛乳、マヨネーズ。積まれた様々な食料に紛れ、果たして目的の深紫色のボトルはあった。
 案外あっさり見つかるものだ。これも日頃の行いか―――目的の品を手に意気揚々としたキレネンコは、ふと、思いついたように再び貯蔵庫の中へ手を突っ込んだ。
 折角ここまでやって来たのだ、何か摘める物も添えてやろう。場の静けさを破る「ありがとうございます」という弾む声と花綻ぶような笑顔を思い浮かべ、ついでのついでとばかりに詰め込まれた食料品を取り出していく。
 ジャガイモ、ピクルス、トゥヴァローグ。出来れば、甘味の類で。ジャム、スメタナ、茹でる前のワレーニキ―――大分近づいてきた気がする。あともう少し、とゴソゴソ漁っていた手が、ついに最深部へ到達した。
 指先に感じる、ひんやりとした物体。他の物へ隠れるような形で置かれていたソレを、迷うことなく引き抜く。チョコレート、プディング、シャルロートカ。様々な菓子を想像していたキレネンコの脳は一瞬、手にした物の名前をすぐに出せなかった。

 「―――……」
 
 コラーチ、スィローク、ハルヴァー。どれとも異なる。これ、は―――


 


  
 「『美味しい』と言って食べる姿を見せ、また、一口でも食べたらちゃんと褒めてあげ―――ほわぁっ!?」

 突如宙へ突き飛ばされたような感覚にプーチンが声上げる。
 一瞬にして瓦解する世界。音もなく消え失せた囲い、そしてその向こうからもう一つ出現する風景。それが見慣れた家の壁だと認識した彼は、漸く今まで居た場所こそ虚構だったことを知る―――有体にいうと、目の前の文字が消えたのをきっかけに自己の世界から戻ってきた。
 周囲が一切見えなくなるほど集中していたのは、開いていた本がそれだけ読みやすかったに他ならない。挿絵こそないものの一文一文が非常に丁寧に書かれ、知りたい事全てが網羅されていた。頭を使うのが不得手な自分でも理解できる分かり易さ。テキストには最適だった。
 なのでプーチンは、手からすっぽ抜けていった本を慌てて追った。内容も丁度佳境に差し掛かったところ、是非最後まで読破したい。逸る気持ち乗せ振り向いた緑の瞳は、けれど途端、硬直した。

 「え、えと……きれねんこ、さん……?」

 確かめるよう、名を呟く。ただ、その声は自分でもはっきり分かるほど萎縮していた。

 だって、慄きもするだろう―――目の前に、表情険しくして仁王立ちになっている同居人がいれば。

 じっとりと背中を伝う、嫌な汗。暑いからではなく、秋口とは思えない冷えた温度を得たからだ。
 何だろう、何か、とてつもなく凄まじい失敗をしでかした気がする。思えば今日、初めてはっきりと見た相手の顔に根拠のない不安がドッと押し寄せてきた。凄く、マズイ予感が。

 得てしてそんな時ほど勘は当たるものだ―――そのことをプーチンが悟ったのは、部屋へ一足早い冬を運んできたキレネンコの口が、ゆっくり開いた時だった。

 取り上げた本をチラリと確認した赤眼が、硬直するプーチンを見下ろす。眼光の鋭さはそのままに、一気に重く、冷たいものへ豹変した空気の中で彼は低く問うた―――「……今日の夕飯は?」。
 
 「え?お、夕飯……?―――あ!」

 戸惑いから一転、プーチンがハッとした顔を同居人へ―――正確には彼が背にしている、廊下のさらに向こうの方へ―――向ける。衝撃に大きく揺らいだその緑の瞳を見たキレネンコもまた、自身の予想を確信へと変えた。
 限界一歩手前まで寄せられた相手の柳眉に、プーチンはうううと唸る。

 「…………」
 「だ、だって、秋ですよ?旬なんですよ?食べたくなりませんか!?」
 「ならない」
 「ちゃんと骨だって除くし、身もほぐしておきますからっ!にんじんも添えるし!!」
 「いらない」
 「一回!今年は今日一回だけで良いんで!ねっ!?」
 「…………」
 「あっ、待って下さいキレネンコさん!何でレニングラードを―――っほ!だだだダメですダメですレニーの前で空けたらダメですっ!!!」

 無言で立ち去ろうとする長身に取り縋る。その手へむんずと掴まれた、可愛いが食に目のないペットの前で貯蔵庫を開けられたりしたら―――悲劇、だ。
 サァッと顔青くしたプーチンは、しがみ付いたまま思考働かす。こんな時はどうするんだったか、床へ放り捨てられた本の内容を思い返してみる、が、強硬手段出られた時の対処なんてどこにも書いていなかった。どんなに著者が優れていようと、こんな状況は想定していないということだろう。読者感想として投稿したら、反映してもらえるだろうか。
 そうなれば続編を買ってまた勉強しなければ―――『好き嫌いをなくすための方法 ―幼児食編―』を。

 

 いや、勉強も大切だが、それよりなにより、今は。

 

 「待って待ってまってくださいーキレネンコさぁーんっ!」 

 

 


 僕の秋刀魚、食べちゃダメぇーーーッ!!!

 

 

 

 悲痛な声が遠い秋晴れの空へと消えたその日の夕方、食卓に無事香ばしい匂いが並んだのかは―――また別の話。



――――――――――



誠実な人、Vanilla. …弟×緑


 ウサギのぬいぐるみ、木彫りの置物、綺麗な音の鳴るオルゴール。

 一日10個限定の幻スイーツ、おもちゃのブローチ、ふかふかの真っ白いマフラー。

 

 

 「他に何が欲しい?」
 「え、えっと……」

 満面の笑みでキルネンコに訊かれ、プーチンは答えに詰まった。
 「今日は出かけるぞ」―――そう言って家にやって来た彼は有無を言わせないままプーチンを外へ連れ出した。丁度同居人である彼の兄が留守だったのも一因だろう。珍しいくらい機嫌良く、人で賑わう市内で買い物でもしようと提案してきた。
 それは別に構わない。他の用事はなかったし、普段忙しくしていてなかなか会えないキルネンコと遊べるなら二つ返事で承諾する。街を歩くのも買い物も好きだ。肝心の財布は身支度を整える間なく引っ張ってこられたから持っていなかったが、「買ってやるから遠慮なく言え」というキルネンコが立て替えてくれているのでさほど問題ない―――一応プーチンは帰ったら戻すつもりではいるのだ。多分、断られるだろうが―――楽しい時間が過ごせる、ととても心躍ったのだ。
 それからほんの半時程度。プーチンの周りはすっかり『欲しい物』で埋め尽くされている。
 最新のレコードも買ってもらったし、玄関に飾る用の花も購入済み。なんとなく気に入った露天の石ころも「良いなぁ、」と言った次の瞬間にはプーチンの手の中にあった。3カペイカの商品に大きいルーブル紙幣を渡し、釣りも受け取らず先へ進もうとする相手へ店主共々目を丸くするも、気にも留められない。逆に「要るなら土地ごと買うか?」と尋ね返され、慌てて首を振った。
 既に自分の小遣いからすれば買いすぎである。これ以上何が欲しいと言われても困るのだが、


 ニコニコニコ。


 そんな嬉しそうな表情を見ると、ともすれば否定的に聞こえる遠慮の言葉も言いにくい。
 最も、実際浮かべてるのはニコニコなんて可愛らしいものでない、性悪の猫じみた何時もの微妙に食えない表情なのだがプーチンは気づかない。いや、正確には街中の誰も、気づいていない。
 皮肉げな微笑刻む唇は見方によっては蠱惑的にもとれ、切れ長の目元と合わせて秀麗な面立ち深める。深く、ベルベットよりも艶やかな真紅の髪を編み垂らした背もスラリ高く、モデルか俳優かの二択しか浮かばない彼を見て一体誰が包括的な性格の諸問題を指摘するか。
 目に見えて分かる顔の大きな傷跡ですら、異彩放つ特徴の一つでしかない。道行く女性は勿論、同性でさえ振り向かせるその存在感は最早、引力に近い。
 四方八方から寄せられる視線を華麗なまでに無視した彼は、逆に紅い瞳を窮するプーチン一点に定める。その顔がふと、一軒の店へ向いた。

 「ああ、手頃な宝石があるな。アレにしろ」

 言った端からもうドアを潜りかけている、その背を悲鳴に似た声を上げ掴む。
 大通りでも一番好立地な区画へ建つ大きな貴金属店は、明らかに今までの店と雰囲気異なる。庶民には結婚式の時ぐらいしか縁のない場で、且つ、『手頃』と称されたウィンドウの中神々しいまでに輝く大粒ダイヤの指輪は客引き用で、一応小さく値札がつけられているものの店側にも売る気がないのは一目で分かる。
 それを即金ローンなしで買う気満載の裏長者番付一位を、渾身の力を込めてズリズリ道まで引きずり戻す。

 「なんだ、気に入らないのか?」
 「き、気に入るとかいらないとかじゃなくて……あんなの高すぎて、ムリですよぉ~」
 「世の中無理と決めつけたら出来ないことだらけだ」
 
 踵を返す彼の深い言葉に、コートを引っ張るプーチンは頷き半分横振り半分で「でも無理なものはムリですってー!」と叫んだ。
 確かに、キルネンコの財力なら高価な宝石一つ買う事など難しくないのだろう。プーチンが大根を買うのと同じ気軽さなのかもしれない。見返りなくプーチンへ与えても何ら惜しくないし、無理な事など一つもないのだ。
 だが、貰ったプーチンは一体どうしたら良いのか。
 指輪は綺麗だ。見て「良いな、」とも思う。貰えたら嬉しくも感じよう。が、それより前に持て余す。恐れる、と言い換えても良い。
 あんなに高価なもの、とてもじゃないが指に填められない。自分には分不相応すぎる。むしろ付けるならキルネンコ自身の方がよほど似合っているし、指輪も本来の価値を発揮できるはず―――兎も角。プーチンには、ムリだ。
 折角プレゼントしてもらっても、心の底から喜べない。贈ってくれた相手にも物にも、失礼にあたる。


 といった意味をまとまらない言葉で説明し、気持ちは嬉しいんだけどと頭下げ、納得いっていない相手を完全に店先から遠のけるまでには大分時間を要した。


 膝に手を付きぜえはあ息を切らすプーチンを見下ろし、キルネンコは今日初めて不満げな顔を覗かせた。

 「お前はそう言って、安物しか欲しがらない」

 安物、とはあまりな言い方だが、別に嫌味で言ったわけでないのは知っている。単にキルネンコとプーチンとでは金銭感覚が違うのだ。そして、感性も。
 物体の持つ価値を正しく数字化して理解できるキルネンコからすれば、骨董でもない置物や石ころなど正にガラクタでしかない。それは一般論であり、プーチンだってそうだろうなぁ、とぼんやり理解はしている。
 でも、プーチンはそのつまらない品々に心揺らされた。欲しい、と思った。だから彼にプレゼントしてもらえ、本当に嬉しかったのだ。金額の高い低いなど関係ない。極端に言えば欲しいものと異なっても、贈ってくれる彼の善意だけでありがたい。
 それに、


 「キルネンコさんと一緒にいられるのが、僕は一番嬉しいです」


 住む世界の違う、見た目も生活水準もかけ離れているはずの彼とこうやって肩並べて歩いている事が。対等な立場で話している事が。他愛もなくけれど貴重なこの時間こそ、沢山の形ある物を手に入れるよりよほど値打ちがあり、幸せにさせてくれる。
 マフラーに隠れた口元が緩む。はにかんだ様子で笑うプーチンに、剣呑だった赤眼も若干元の光戻した。

 「じゃあ、そこの洋服ぐらいにしとくか」
 「ああああああアイスっ!服より僕、あっちのアイスが食べたいですっ!」

 先程の指輪より幾らか格下げした、しかしプーチンでさえ良く知っている海外一流ブランドのブティックとは真反対の、どこにでもあるアイスクリームの屋台を示す。季節問わず開いている屋台には一転してカジュアルな装いの若者や子供が並び、数枚の硬貨と引き換えに至福の味へ舌鼓打っている。一様に浮かべられた明るい表情は、やはり金額イコール幸せでない事を物語る。特に色気より食い気であるプーチンがそちらへ反応示すのも無理はない。
 ずっと歩き通しだったから、喉も乾いた。隣をチラリ上目遣いに窺うと、黙って代金を(やはり紙幣だが、)握らせてくれる。
 
 「ありがとうございます!キルネンコさんは何味にしますか?」
 「……バニラ」
 「はーいっ♪」

 並ぶのを嫌う相手を残し、軽い足取りで列に付く―――「欲のないヤツだ、」と後ろで呆れたよう呟かれた声は、聞かなかったことにする。
 種類豊富なアイスケースを前に、バニラを一つと、散々悩んだ末自分のはチョコとストロベリーのダブルフレーバーを頼む。どうしても片方には絞れなかった。が、これ以上迷っていると屋台ごと買い占められるような気がしたので、悪いと思いつつ少し贅沢させてもらう。
 両手のコーンを落とさないよう注意しながら、「お待たせしましたー」と離れた場所で佇むキルネンコの元へ駆け寄る。そこになってから気づいたが、彼を中心に据え遠巻きに人垣が出来上がっていた。
 時間にすればほんの数分、腕組んで立っていただけなのにこの状況。何時もの光景ながらつい感心してしまう。
 寄せられる憧憬に羨望、熱篭った秋波の数々は鈍いと言われるプーチンでさえ分かる。人心に敏い彼が何も感じないはずがないのだが、やはり当事者は一切周囲を気にする様子なく、差し出したアイスと釣りのうち前者だけを受け取る。
 白い氷菓へと寄せられる横顔。雪のような色よりもまだほの白い肌の中で、唯一色付いた唇が薄く開く。そっと、口付け施すよう。触れ、啄ばむ。どこからともなく上がった溜息に同感だ。物を食べる姿さえ様になる。そのまま宣伝に使えば売り上げに貢献すること間違いなしだ。
 あれだけ食べたかったアイスに手をつけるのも忘れ、並んだプーチンもチラチラ横を盗み見る。ナイフもフォークも使っていないのに不思議と品良く、優雅で、かと思えば時折覗く、舌先の濡れた真っ赤な色にドキリとしてしまう。白を溶かして侵食する色のその温度を想像し、勝手に頬が熱くなる。
 そうして一人焦ったり慌てたり忙しなくするプーチンの鼻先へ、不意に白色が突きつけられた。
 
 「だから変に遠慮しないで買えと言っただろう」

 どうやら目線を食べたがっているものとして捉えられたらしい。半分ほど欠けたバニラアイスを向けたキルネンコの肩がやれやれと竦められる。仕方ないと表しつつも味見の機会をくれるらしい。
 食い意地が張っていると思われるのは恥ずかしかったが、まさか実際考えていたことを言うわけにもいかず適当な誤魔化し笑いを浮かべる。ついでに折角なのでアイスも一口、貰っていく。
 ひんやりした冷たさの直後、舌上一杯に広がった甘さとコク。濃厚でまろやかなミルクの風味が非常に口当たり良い。混じり気ない、シンプルそのものの味。さらに舌から鼻にかけてふんわり抜ける、バニラの甘やかな芳香がなんともいえない。口内から溶け消えてもなお優しい甘さ続く。
 
 「美味しい~!」

 これを選んだ彼は実に正解だ。プーチンも隠すことなく手放しに賞賛する。一瞬、言われた通り甘えてトリプルにすれば良かったかな?と思ったほどだ。
 傍目にも上機嫌になったプーチンに、クスリ小さな音が降る。ほんの僅かな、空気の振動。
 何気なく顔を上げたプーチンは、途端、バッと下俯いた。わ、わ、と声にならない心の叫び響かせる。今しがた、目にした光景に心拍数が跳ね上がる。

 すぐ近くで、綺麗な顔に、そんな、いとおしげな微笑み浮かべられたりしては。

 困ってしまう、という言葉は飲み込む。困るではなく嬉しい、けど、何だか恥ずかしい。恥ずかしいけど、すごく、嬉しい。
 万人が見惚れてやまない造詣が、特別な顔して自分だけに向けられている。プレゼントを買ってもらった時よりも、もっと、深い表情で。特別な、感情持たせて。
 寸刻前の照れ以上に気持ちが落ち着かなくなる。
 隠すよう手元のコーンを口に運んでみるが、正直、味がほとんど分からない。ほのかにビターなチョコも甘酸っぱいストロベリーも全部一緒くたで、舐めて冷える舌とは対照に耳だの頬だのは発火してしまいそう。首元のマフラーが要らないくらい、じわりじわり体温が上がっていく。


 どうしよう―――また一つ、欲しいものが出来てしまった。


 良いな、なんてものじゃない。喉から手が出るほどに、欲しい。
 一通り悩み、我慢し、自分に言い聞かせ。アイスが溶けないうちにと食べることへ集中してみたのだが、やっぱり、駄目だった。
 恐る恐る、傍らの裾を引っ張る。ん?といった感じで見下ろす顔にはもう先程の表情はなかったが、プーチンの揺らいだ心は元の場に戻らない。
 聞かせるつもりがあるのか、はたまたあちらから聞き返させてきっかけにするつもりなのか。ごにょごにょモソモソ、聞き取りにくい音量で言われたプーチンの言葉を、けれどキルネンコが何度も問いただすような真似はしない。
 ただ、例の整った顔で意味ありげに目配せ送る。

 「本当に、欲がないな」

 差し出された腕はプーチンが要望したものを上回っていたのだが、あえて訂正しないで手を回す。
 全然そんなことないですよ。今度こそ聞かせないようこっそり、赤い顔のプーチンが呟く。
 引き寄せられた側から香る、バニラごと。離さないようしっかり掴んでおいて。






 

 


 ウサギのぬいぐるみ、木彫りの置物、綺麗な音の鳴るオルゴール。

 一日10個限定の幻スイーツ、おもちゃのブローチ、ふかふかの真っ白いマフラーに冷たいアイスクリーム。

 

 それから、

 

 

 (アナタが、欲しい)

 

 

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キルは甘やかす時はとことん甘やかす。(時々つれないけど)

そのうち本家の某場所が更新するかもしれませn




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2012.02.15
日記再録