あらしのよるに。 …赤+緑。 壁を叩きつけるような雨音が、コンクリートの監獄内に響き渡る。鉄棒が填っただけの換気窓から見えるのは、深遠の闇。時折、そこに白い稲光が切り裂くように煌く。 何処かで落ちたのかもしれない。ゴロゴロと低く唸るような雷鳴に、プーチンはベッドの上で丸めた体を更に縮め込ませた。 かみなりは、苦手だ――― 不安を掻き立てる雷鳴も耳を劈くような轟音も心穏やかとは言いがたい気持ちにさせる。闇夜に浮かぶ雷光は星と似ているかもしれないが、プーチンにとってそれは不穏な予兆を示す凶星に思えた。 家に居た頃はそれでも何とかやり過ごしてきた。窓をしっかりと閉め、部屋の明かり全てを灯し、ボリュームを目一杯まで上げたラジオを一晩中かけ続ける。雷の音が聞こえなくなるわけではないが、昼間と変わらないような室内は不安を半減させた。 それもこの監獄内では難しい。刳り貫かれただけの換気窓は外の音をダイレクトに伝えてくるし、明かりは消灯時間きっちりに落とされる。入所時に荷物はほぼ没収されたためラジオは―――ある事にはあるが、これはプーチンの所有物と異なる―――ない。 心慰める物のない監獄は雨風の凍て付く空気も相まって一層心細くなってしまう。 唯一の救いは入れられたのが独居房でなかったことだ。一緒になった相手が良いか悪いかは別として、近くに存在があることで不安が僅かながら軽減される。 欲を言うなら、もっと傍に寄りたい。決して変な意味ではなく、近寄って人の気配をより強く感じることで気持ちを落ち着かせたかった。 手を握って欲しいとか、朝までおしゃべりに付き合って欲しいとかは言わない。枕元に座らせてくれるだけで十分だ。 被ったシーツからこっそり眼を出したプーチンは、隣のベッドを見た。 背を向けられているためよく分からないが、就寝時間はとうに過ぎているのだから眠っているのだろう。それを起こすのは流石に悪い気がするし、嫌がられるのはなんとなく検討が付く。誰だって成人男性から「雷が怖いから隣に置いてください」と言われたくはないだろう。 そう理性では思うのだが、一度湧いた誘惑は抗いがたく心を揺らす。 ―――行こうか。行くまいか。行こうか。いやでも行ったら雷より怖い事になりそうだ――― ぐるぐるとハムスターの運動器具のように堂々巡りのプーチンの思考を、雷光が裂いた。 「ひゃっ!」と飛び上がったプーチンは、意を決して丸めた体を起こした。このまま心臓発作で倒れてしまうよりは、彼に怒られでもしている方がまだ生命保障がある。 シーツを被ったまま、そっと足を床に下ろす。サンダルは音が出るので履けない。剥き出しのコンクリートの床へ裸足の足裏がついた瞬間、ひんやりを通り越して氷の上に直接立ったかのような冷たさに思わず飛び上がった。それを抑えて、一歩一歩足音を立てないように注意しながら隣のベッドへ近寄る。 そうっと覗き込もうとしたが、壁側を向いている顔は確認できない。 見えるのはプーチンの側に向けられている背に流れる長い赤髪だけだ。 この髪を数房握らせてもらえれば―――そう思ったが、触れるなら許可をもらわないと駄目だろう。しかしそれだけの為に起こすのはやはり申し訳ない。 思い悩んだ末、プーチンは恐る恐る手を伸ばした。 ほんの少し、毛先に触れる程度なら起きないだろう。朝彼が目覚めるより早く自分のベッドに戻れば良い。そうすれば自分も「雷が怖い」と申告して恥ずかしい思いをしなくて済む。 慎重に伸ばした指先が、毛先に触れる。思っていたより艶のある髪に、僅かに驚いた。 それを感想としてまとめる前に、がくんっと世界が反転した。 宙を舞う浮遊感と―――次いで、衝撃。 叩きつけられた背中を痛いと感じるより先に咳が込み上げてくる。震えかけた喉を、ぐっと押さえ込まれて咳どころか息も止まった。 見開かれた緑の瞳に、首から伸びる腕とその先の人影が映る。 天を切り裂いて室内に差し込んだ雷光がぞっとする程冷たい赤の双眸を浮かび上がらせた。 「…………何してやがる」 雷鳴のように低い声と増した喉の圧迫に、プーチンの見開いた眼に涙が浮かぶ。 片手で締め付けられている首はギリギリと音を立て、骨ごと折られてしまうのではないかと思えた。実際、彼ならそれを容易くやってのけるだろう。苦しいのと恐怖とで遠退きそうになる意識の元、プーチンは必死に首を振って危害を加えるつもりがなかった事を伝える。振られる反動で涙が首を絞める手の上へ一滴二滴と落ちた。 その涙にほだされたわけではないだろうが、向けられていた殺気が消える。 同時に離れた手にプーチンは喉を押さえてげほげほと咳き込んだ。器官に急に入り込んだ冷えた空気が痛い。 潤んだ目元を擦りながら、それでも整わない息の下で必死に声を絞り出す。 「けほっ……ご、ごめんな、さいっ、キレネンコさん……」 呼ぶ名にちらり、と向けられた赤い瞳は殺気は含んでいないが冷たい色をしていた。寂しくて、なんだか悲しくなってしまう色だ。 情けなく咳き込むプーチンにはもう興味がないと言いたげに外されたキレネンコの横顔に、プーチンは言い募った。 「あ、あの……僕、雷が怖くて、不安になっちゃって…どうしても、誰かの傍に居たくて…… 起こしちゃって、ごめんなさい、キレネンコさん」 「さっさと自分のベッドに戻れ。邪魔だ」 「はっ、はいぃ…………あのー。でも、ほんのちょっとだけ……ちょっとだけ、枕元に置いて―――」 ひっと詰めた息に言葉は掻き消えた。再度冷徹な赤い瞳に睨まれて、プーチンは唾を飲んだ。 「……男をベッドに上げる趣味はない」 失せろ、と切りつける声音が吐き捨て、とどめに襟首を掴んで床に放り投げられる。べしゃっと突っ込んだ顔を上げると、ベッドの上のキレネンコはすでに眠りの姿勢に戻っていた。 情けないのと痛いのと悲しいのと、綯い交ぜになった気持ちに涙が込み上げてくる。それを慌てて堪えながら、プーチンは肩を落とした。流石にここまで露骨に拒絶されて催促を出来る程プーチンは厚かましくも馬鹿でもない。 かといってこのまま自分のベッドに戻るのはもっと辛い。 シーツを被ったままおろおろと右往左往して、結局プーチンは投げ出された床の上に座り込んだ。 怒られるかな、とビクビクしていたがベッドの上のキレネンコが起き上がる気配はない。眠ってしまったのか、ベッドの下なら良いのか、それとももう関わり合うのを面倒と感じたのか。 そのどれかは分からないが、この房の中でここが一番人の近くだった。心の距離は房の幅以上に遠いとしても、だ。 硬い床から伝わる冷気にみるみる体が冷える。その冷たさが彼から向けられているもののように感じて、プーチンは抱え込んだ膝に泣き顔を埋めた。 嵐の明ける朝は、まだまだ遠い。 *蛇足* 「男に興味ない」って言ってるキレ様ですが、この後はプーにめろめろなわけですよ。(爆) ――――――――――
あらしのよるに。 …赤+緑。 激しい横薙ぎの嵐風が監獄全体を揺らすように吹き付けている。 停電で漆黒になった廊下で足を踏み鳴らしながら、かじかむ手に息をかけた。はぁっと吐いた息は室内だというのに白く色をつけて昇っていく。 半端なく、寒い。 暗鬱なため息をついて手を擦っていると、雨音に混じって足音が聞こえた。音の方向に目をやればふよふよと小さな光の輪が漂う。 それがだんだん大きく明るくなるにつれ、懐中電灯を手にした同僚の姿が闇から溶け出てきた。 自分と同様白い息を吐く金髪の彼が手を上げる。それに応じながら、顔を苦笑の形に歪めた。 お互いに苦労するな。そう思った時、窓の向こうで雷鳴が轟いた。 視界を焼くような白光が、同僚の後ろに居た人物をはっきりと浮かび上がらせる。 手錠をかけられた、長身の囚人。 背後から首を絞められてしまったように、息が出来なくなる。 「化け物だな、ありゃ……」 ひっそりと呟いた声は、雷の音に掻き消された。 自室とも呼べる雑居房に戻され、キレネンコは手首を鳴らした。 ―――いや、移った方が良い事もあるかもしれない。 房の中、二つあるベッドのうち自分の側のベッドの上。そこに白い団子があるのを見てキレネンコは舌打ちした。 「むほぉっ!」 ごろごろごろんっ!とボールよろしく床を転がったそれを、冷ややかに見やる。 「あ。き、キレネンコさん……おかえりなさ」 向けられる怒気を正しく理解してプーチンは平身低頭謝る。無言で状況を詰問してくる空気を感じ、彼はべそをかきながら弁解した。 「だ、だって急に停電して真っ暗になっちゃうし、キレネンコさんはなかなか帰ってこないし……雷は鳴ってるし。 あまり平気でなかった上に、もっと怖い事になりました。 ―――微妙に、暖かい。 冷えた体にすっと馴染む暖かさがベッドの一部分にだけある。やたらその範囲が狭いのは体躯の差だろう。違和感があるといえばそうなのだが、暖かいのは悪い事ではない。特に今日のようにひどく冷える夜は。 「おい」 闇の中響いた低い声に、プーチンは飛び上がった。寒さが直接身に染みる床では流石に睡魔は訪れなかったが、突然の事に一瞬寝ぼけた時のように誰の声だろうと考えてしまう―――ここに住まうのは自分ともう一人しかいないというのに。 「……恐いとは思わないのか」 俺が、と唐突に問われ、プーチンは首を絞められかけているのも忘れて瞬いた。外に響く雷鳴すら聞こえなくなるくらいに、ぽかんとして。 「え、えと……怒ってる時は、その、やっぱり、ちょっと恐いですけど」 なんたってあれだけの迫力。あれほどの暴力。恐くないなどと言う方が失礼だ。 「キレネンコさん静かだし。几帳面だし。にんじんだって育ててるし」 「動くな」 振り返ったら殺す、と静かなけれど冷え冷えとした声に、それこそ雷に打たれたように体が固まる。纏ったシーツの下で息すら止めていたプーチンの肩へずしっと乗る重みがある。肩と、それから背中全体に当たる冷えた感触に振り向きたい衝動に駆られるが、働いた自衛本能にそれは押し留められた。首を絞められていた時以上の緊張に背筋に冷や汗が浮かぶ。 そんな後ろの人物の考えなど知るよしもないプーチンは身動きできないまま空っぽの自分のベッドを眺めた。 どこに居ても結局今夜は眠れなさそうだなぁ…… そう思ってから数分後、プーチンの耳が雷の音を聞き捉える事はなかった。 ―――――――――― 2010.4.7 3月分日記再録。 戻 |