足の在り処 …緑




 ねぇねぇ、ちょっと教えてほしいんだけど。


 『あれは見間違いでした』って思い込む方法、ないかなぁ?





 それはいつもの調子でプーチンがコサックを踊っていた時だった。


 「~♪」

 カタンッ。

 房内へ反響した、物音―――鼻歌に混じったほんの微々たるそれを耳ざとく聞きとめたプーチンは足を止めた。
 視線の先にはこの囚人房唯一の出入り口がある。
 重く、分厚い鉄で出来た扉には監視を目的としたスライド式の覗き窓の他、食事などを差し入れるための口が設けられている。内側から開けられない代わり、決まった時間になればそこが開く仕様だ。
 しかし今は規定の食事時間よりも早い。管理のきっちりした監獄ではそんな事は滅多に起きないのだが。
 不思議に思ったプーチンはベッドを下り、トテトテ扉に近づいた。
 差入れ口からは何か投げ入れられるわけでもない。パカッと開いたままの開口部を何気なしに覗き込んだ。
 床上から十センチ程度の隙間を作るそこからは僅かだが廊下側の様子が見える。

 そこに、足があった。

 薄暗い中ににゅっと生えた二本の脚。生白い素肌に廊下に密着する足の平には割れた五本の指がきちんとついている。間違いなく人の足だ。
 だからプーチンも『ああ、足だな』と特に不思議がるでなく納得しかけた。
 が、

 (……あれ、でも裸足だと汚れるんじゃないかな?)

 浮かんだ些細な疑問に首を傾げる。囚人のプーチンでさえサンダルを履いて暮らしているのだ、足の裏汚れるの大好き、という変わった性癖を持った人物がいないとも限らないが、大抵の人なら履物を履く。そうではないか?
 最初は食事を運んできてくれた看守のものだと思った。けれど、彼はいつも制服のブーツを履いている。足首は元より裸のつま先が見えることはない。
 なんとなく気になり、プーチンは更に屈んだ。頬が床へつくギリギリまで下ろし、隙間を覗く。近くで見ると薄い爪の表面まではっきり分かった。
 そのまま目線だけ上げる。踵に筋張った足の甲、とがった踝。更にその上には膨らんだ脹脛に太もも、と太くなっていく……はずなのだが。


 ―――ない。


 足首の少し先まで認識したプーチンの視界に映るのは廊下の薄暗さだけだった。眼球が攣りそうなほどに上を見ても腿は元より立っている人物の上半身も見えない。

 足だけ、そこにある。プーチンの目と鼻の先に、足だけ―――足首より先の切れた、


 あ  し 、


 「ぇ、ぇえええ、え……!!!」


 ザァ、と耳元で音がした。
 顔から血の気を引かせたプーチンは漸く目の前の異常を理解する。慌てて扉から飛び退くと転がる勢いでベッドまで退却し、シーツを被った。

 (なにあれなにあれ足しかなかったよ足首までだけだったよへん、だよね?ヒトならあしより上があるもの。あしだけだったってことは、ことはぁっ……!)

 むひゃぁああ。すっぽり頭まで覆ったシーツの中に悲鳴が木霊する。
 見間違えかもしれない、という発想が過ぎらないではなかったが、しかし、それにしてはくっきりと見えたのも確かで。
 恐る恐る、首だけシーツから出して扉側を窺う。けれどいつの間にか差入れ口の蓋は下りていてその向こうに何があるのか知るのは不可能だった。
 最も、仮に開いていたとしても確かめる勇気があったかは別だけれど。

 結局同室者が空腹で暴れ出すまでの間、プーチンは一人丸まったまま震えていた。




 「541番、04番。メシだぞー」
 「わ~。ありがとうございます看守さん」
 「……そういやお前、最近飯取りに来るタイミング遅くないか?」
 
 差入れ口から入れた二人分の食事を回収しようとするプーチンへ何気なくカンシュコフは問いかけた。
 今までは差入れ口が開くが早いか扉前に立っていたのが、配膳されたのを確認した上更に一拍置いてから寄ってくるのだ。疑問に思うのも仕方ない。



 でも、これだって仕方ない―――ブーツが覗く差入れ口に、白い足首が並ばないとは限らないのだから。



 言ってもきっと信じてもらえないだろう蟠りを抱えたまま、生魚へ視線を落としたプーチンは誤魔化し笑いを浮かべる他なかった。





 (ねぇ、『あれは見間違いでした』って思い込む方法、ない?)




――――――――――



一緒に遊んで …赤




 ぺたぺたぺた。



 室内からそんな音が聞こえる。
 さほど大きくはないが響く音に、リビングに居たキレネンコは愛読書のスニーカー雑誌から顔を上げた。

 「…………」

 重さを感じない音はどうやら足音のようだ。子供が素足で板場を歩くような間の抜けた感がある。
 確か、同居人の足音はこんなのだ。が、彼は少し前に買い出しに出かけたはず。その際にペット(と汚物)も連れて行った。
 だからこの家に居るのは現在キレネンコ一人である。
 暫く考えてからキレネンコは雑誌に視線を戻した。


 ぺたぺたぺた。


 足音はどうやら台所に行ったらしい。


 ぺたぺた。


 風呂場。


 ぺたぺた。


 トイレ。寝室。


 音の反響で距離を測るのはキレネンコにとって難しいことではない。
 聞く限りでは足音は家のあちこちに移動しているようだ。ぺたぺたと気の抜ける音だけが断続的に聞こえる。
 

 ぺたぺた。


 玄関。


 ぺたぺた。


 階段裏。押入れ。




 ぺたぺたぺたぺた―――ぺた。




 「…………」


 そして、リビング。
 部屋の中央―――キレネンコが座るソファのすぐ真後ろで足音は止まった。
 再び静かになった空間でキレネンコは雑誌をめくる。

 
 「…………」


 ……ぺた、ぺた。


 「…………」

 「…………ねぇ、遊ぼうよ」

 「……………………断る」



 (面倒くさい。)




――――――――――



視えてるくせに …狙




 ……ヤなもん見ちまった。


 仕事の帰り道、一瞬止めかけた足を動かしボリスは舌打ちした。
 夕方という時間帯もあり通りは買い物客やボリスと同じ帰宅者で溢れかえっている。さまざまな色の頭が入り混じる雑踏では知り合いの顔であっても見つけるのは難しい。

 だというのに、何故かソイツには気づいてしまう。

 一見すると目立つ要素のない女だった。地味な服装に伸ばしただけの黒髪。少し顔色が悪い気もするけれど遠目に気が付くほどではない。
 ただし、その腹からはみ出る臓物が見えれば状況は一気に変わる。
 胃や肝臓といった柔らかい部位は潰れてしまっているのか判別不可能。オプションのようにダラリ足元へ垂れる大腸がまるで綱でも付けているみたいだ。
 通りに向けられる濁った両目は『視える』人間からすれば只々薄ら寒い。

 見ないフリだ。

 明らかに生者でない女からボリスは目を逸らす。
 ああいうのはかかわると面倒だというのは経験上知っている。もしかしたら気づいた他の誰かへ被害がいくかもしれないが―――悪いが、ボリスとて自分が可愛い。銃を持った犯罪者なら率先して相手するが、坊主でもエクソシストでもない一介の民警にアレは荷が重すぎる。
 下を向き、足早に道を進む。自宅までの距離はそう遠くはない。あくまで何事もなかったようにやり過ごせば問題ない、ハズだ。
 しかし、


 ズル、ズル……


 急かす心に従うボリスのその後ろから、何かを引きずるような音がついてくる。

 (……マジかよ)

 一瞬、目があったと思ったのは気のせいではなかったらしい。完璧、白羽の矢が立てられた。
 こうなると非常に厄介である。向こうは現での速さや距離など関係ないから全力疾走して撒けるものではないし、物理的な壁もすり抜けるから建物内に逃げ込むのも無意味。むしろ下手に派手な行動をとればそれが引き金となって憑りつかねかねない。
 吐きたくなる溜め息をグッと堪え、黙々歩く。対処法はただ一つ。只管、知らんぷりを貫くこと。往々にして粘着質な手合いだが、こちらが完全相手にならないと知ればいずれ諦める。兎も角根気勝負だ。
 カツカツと靴底の鳴らす音を一定に保ちつつ人ごみを縫う。決して走らないように。振り向かないように。


 カツカツカツ、


 ズル、ズル……


 カツカツカツ、


 ズル……ズル、ズル……


 ボリスが立てる足音の合間にズルズルという音が聞こえる。気にしてはいけない。極力耳から神経を逸らし、爪先だけ見つめる。
 周りは割と騒がしいはずなのに何故かその音ばかり耳につく。それと、自分の早くなる動悸と呼吸が。すれ違う人が一人として反応しないのが不思議でさえある。
 振り返ればきっと地面に血の跡もついてるだろうし、途中引っ掛かってブチリと千切れた腸が点々落ちて―――駄目だ、想像しては。
 乱れそうになる足で道路を渡る。まだ付いてくる。本当、しつこい。
 大した速度を出してもいないのに全身から汗が噴き出た。いっそのこと、駆け出そうか。無駄を承知で逃げ出したい。飛び出したい。訴える本能を抑えるのは半端でなく気力を削る。



 早く、早く、帰るんだ―――でも走っちゃいけない―――


 いつまで付いてくる、もし、追いつかれたらどうする―――焦るな、気づいてるのがバレたらそこで終わる―――


 音が、近い。逃げないと、―――駄目だ駄目だ―――!


 
 ズルズル、ズルズル。背後から聞こえる音に全神経を傾け、何処をどう歩いているのか半分分からなくなってきたボリスの耳へ不意に小さなノイズが届いた。
 カンカンと僅かに響くそれは緊急事態である現在構っていられるものではなかったが、反射的にボリスは足を止めてしまった。



 その矢先、―――鼻先を高速の何かが駆け抜けた。


 「……は、」

 風圧が頬を叩く。一拍遅れて自身の黒髪がかき乱され舞う中、見開いたボリスの目には過ぎ去った列車の残像が映った。
 腹の辺りへ下りる遮断機にくっつく手前で、ボリスは立っていた。真横の柱に付けられた赤いランプが点滅を繰り返している。
 もう一歩踏み出していれば、或いはほんの数秒列車が遅ければ。確実に、轢かれていた。
 立て続けに運行するのかカンカン、警告音が鼓膜を震わせる。それに混じって、





 「…………視えてるくせに、」





 風が通り抜けるよう、すぐ脇から聞こえた恨みがましい声に背が凍る。

 「っ、……」

 ゆっくり息を吐き、振り返った―――伏せていた目を上げた先に女の死霊なんてどこにもいない。勿論、引き摺られた腸の跡も。


 それでも踏切内へ消えていく姿を視界の端で捉えていたボリスに、その言葉を否定する事は出来ないのだけれど。









 (視えたところでどうもしてやれないってのに、)



――――――――――



真に恐ろしきは、 …運




 「お前ソレ絶対ヤバいってー!」


 寝起きの気怠さを残しつつ出勤したコプチェフを迎えたのは実に賑やかな声だった。
 騒いでるのは若い後輩連中で、デスク周りがまるで高等学校の一室のようになっている。流石若者、朝から元気だなぁ。大して差のない自身の年齢を脇に置いてしみじみ思う。

 「おはよ。何か面白いことでもあったの?」
 「あ、先輩!」

 好奇心丸出しで近寄れば一団がパッとこちらを向いた。
 楽しむように両口角の上がった顔、生温い目をしながら微苦笑を浮かべる顔、半分反応に困りつつ差し障りないようもう半分で笑う顔。
 様々な笑みが取り巻くそんな中、一人だけ笑っていない後輩が居た。
 頭を抱え沈痛な表情で息を吐く。その溜息も重い。察するに彼が今回のネタ提供者であり被害者なのだろう。
 思った通りその他野次馬組は挨拶もそこそこに「実は、」と切り出した。

 「コイツこの前の休み旅行行ってたでしょ?で、写真焼けたっていうから見てたら―――なんと!中にこんなのが」

 そう言い差し出された一枚の写真。
 なんとなく続く展開を予想しながら受け取ったコプチェフはうぅんと唸った。予想的中、というかど真ん中命中だった。

 旅行先なのだろう一面に広がる綺麗な景色。そして、それをバックに後輩と恋人と思しき女性が並んで微笑んでいる。
 リア充乙、と口を突きそうになる。からかいの的になるのも仕方ない、幸せそのものの情景だ。


 片隅にじっとり睨む男の顔さえ映ってなければ。


 「心霊写真かぁー」

 一言でいうとソレは生首だった。幸福そうな被写体の少し後ろの方へ浮かび、恨みがましい目をファインダーに向けている。
 色こそ白っぽいものの、くっきりはっきり映ったソレは残念ながらピントがずれた、とか光の加減で、とか現実的な推理を当て込む余地はない。
 じゃあ合成か、というとこれまた懐疑的になる。ここまで怨念に満ちた表情を作ろうと思ったら生半可な手腕では無理だと思うのだ。何より、当事者である後輩本人が心底落ダメージを受けている。演技派だとしてもここまでタチの悪い悪戯を施す理由は見当たらない。
 一応透かしたり目を細めて眺めたり意味のない検証もしてみたが、やっぱりホンモノのよう。

 「こんなん彼女に見せるわけにもいかないし……」

 そう言ってがっくり項垂れる相手へはご愁傷様以外かける言葉がない。写真よりやつれて見える彼へ「ま、あんまり気にしない方が良いよ」と、その他大勢と同じ曖昧な笑みを浮かべてコプチェフは肩を叩いた。諦めろ、という意味でもある。

 「そうそう。なんだかんだ言って無事に帰ってきてるしさー」
 「いーや、案外これから何か起きるかもしれねぇぜ」
 「一緒に憑いて来たとか?」
 「マジで!?オイオイ、俺らまで祟られたりしねぇよな?」
 「除霊でもしてもらえよー。エコエコアザラク!って」
 「もしかして、お前じゃなくてコッチの子の方が……」

 等々。憶測に忠告に失言にと好き勝手な言葉が飛び交う。
 最初よりも更に騒々しくなった室内は収拾つかない勢いだったが、ガラッ、と無予告に開いたドアに一旦声を潜めた。

 「朝からうるせーんだよお前ら。若いからってはしゃぐんじゃねぇ……一人年寄りが混じってたか」
 「ちょっとー。最後聞き捨てならないんだけど」

 欠伸を噛み殺して入ってきたボリスへ即座コプチェフは反論する。確かにこの集団の中では年上だが、言った本人とは同い年だ。
 そんな抗議は当然の如く無視するボリスへ後輩の一人が件の写真を渡した。目を覚ますには丁度良い刺激になるだろう。

 果たして写真へ落とした黒眸が見開かれる―――その変化を誰かが指摘するより先に彼は動いた。

 ガシッ!と勢いよく後輩へ―――俯いていた、哀れ心霊写真に映った当事者だ―――掴みかかる。思わず当人含め全員が飛び上がった。突然のことというのもあるが、何より向けられた顔の蒼白さが尋常でない。
 引きつった表情からはすっかり睡魔が吹き飛び、並々ならない切迫感が漂っていた。

 「オイ、お前!仕事良いから今から教会へ―――いや寺院でも密教でもこの際構わねぇ!
  兎も角それなりのとこ行って拝んでもらえ!」
 「えっ?あ、……もしかして、先輩、分かる人……!?」

 ぽかんとしていた後輩の目が徐々に開く。不安と当惑と、明らかになる恐怖と。竦んだ体が総毛立つのが見て取れた。
 だが、青い顔したボリスは「人のことはどうでも良い!」と、相変わらずの剣幕で吐き捨てる。ボリス自身、冷静に説明してやれる余裕がなかったからだ。

 「それよりさっさと行け!こっちの女も連れて、早くっ!!」
 「せ、先輩!コレ、かなりヤバいんスか……!?なんで俺が、」
 「―――つべこべ言わず行けっつってんだろぉがぁーーーッ!!!」
 「は、ははははいぃーーーっ!」

 直接蹴り出す勢いに慌てて後輩は部屋を飛び出した。ドアも開けっ放しで一目散に駆けていく背中を見送ったボリスはそのまま近くの椅子に座り込んだ。ぐったり、全身で倦怠感を示す姿に先ほどまでの迫力は微塵もない。
 完全蚊帳の外だった周囲はというと只管戸惑うばかりだ。聞きたいことは盛り沢山だが、何から質問すべきか、質問して良いものなのか、判断つかない。
 どうしよう、とどこからともなく心の声が漏れる、その空気をパンパンという音が割った。

 「はいはい、皆も自分の業務に戻って。もうすぐ職長来る時間だし、見つかったら干されるよー。アイツが抜けた分も分担してね~」

 ニコニコと擬音語が聞こえそうな笑顔でコプチェフが鳴らした手を振る。
 相方のボリスと違い柔らかな物腰でありながら有無を言わせぬ強さの圧しに顔を見合わせた面々はそそくさ散って行った。
 一気に静かになる部屋。残ったコプチェフは傍らのボリスを覗きこんだ。

 「……大丈夫?」

 最も、尋ねた答えがдаでないのは一目瞭然だ。夏の暑さとは別に浮く汗が気の毒でならない。
 常の虚勢も張れずにいる相手へ返事を求める代わり、コプチェフは「……何が見えた?」と尋ねた。
 長い付き合いだ、相方がその手のモノが『視える』体質なのは知っている。それも、かなり強い感応だと。
 ゆっくり背中を擦るとボリスが小さく息を吐いた。吐き気を堪えるよう口を押さえた手の下から聞こえた小さな声に耳を寄せる。ゴクリ、と乾いた喉が唾を飲む音がした。

 「…………こっちを睨んでる、男の生首……………………を、」
 「を?」
 「………………持ってる、女の霊」


 片手に男の首を、もう片手にナイフを握って嗤う、女が。


 かろうじて発し、ボリスは再び口を覆う。一向に回復しないその横顔を眺め、コプチェフも自分の口へ片手を当てた。そうしなければ大げさな溜め息が漏れそうだった。これ以上陰鬱な空気を増やしても気が沈むだけだ。
 天を仰ぎ、目を瞑る―――思い出す写真に映っていたのは男の生首だけだったが、ボリスが言うならやはり、そうなのだろう。

 「……俺たちもお祓い行こうか」

 零れそうになる重い息を飲み込み、漸う提案する。労わるよう乗せた黒髪の頭が微かに動いた。





 真に恐ろしきは人の悪意かな。



――――――――――



命大事に(笑) …弟





 「…………、」

 後部座席から笑う気配がする。
 不意の事に反射的にバックミラーを見た。広々とした革張りのシート、そこへ座るたった一人の人物。左右反転した傷跡残る顔の中でその口元は確かに弧を描いている。

 「……全く、根性があるというのか見っともないというのか」
 「ボス?」

 エンジン音に消される声量はこちらの視線に気づいたからというわけではないらしい。一度声をかけ、返事がないのを確かめてから視線を前へ戻す。
 聞かせるつもりのない独り言を一々問うてはならない。従卒としてやってならない事の三本の指に当たる。今日の自分は運転手として主人を送る事だけ考えれば良い。
 ギアをローへ入れ、発進する。遠目に燻る煙が一瞬映り、通り過ぎた。消防車のサイレンはまだ聞こえない。人気のない場所に建つが故連絡が遅れているのだろう。消火活動が行われる頃にはきっと全焼している。
 最も、焼ける屋敷の住人は一人としてこの世にいないのだから関係ないかもしれないが。
 主人が車に乗ってきた時点でそれは確定していた。纏った濃い消炎の匂いに、血臭。僅かだが首元の白いファーへ返り血も付いている。当の本人は傷一つなく涼しい顔をしているが、現場は凄惨なものだったに違いない。
 時間にすればたったの十数分。その短時間で何十という人間が死に、劫火の中へ葬り去られた。
 無駄な欲を出すからだ―――彼の人には決して刃向かわないという自分からすれば当たり前の行動をあちらのファミリーは取らなかった。自らの首を率先して絞めたのだ。愚かなものだと思う。それと同時に、少しの同情も。
 本来感じるはずのない憐憫が湧くのは、自分自身その存在に強い畏怖の念を抱いているからかもしれない―――

 そんなことを考えていたため、後ろから突然「オイ」と呼ばれた時は思わずシートから飛び上がった。
 もしや、心でも読まれたか。内心戦々恐々していたのだが、ミラーへ映る顔は機嫌を損ねた風でなく薄く笑っている。だからこそ、続く言葉にギョッとした。

 「戻るまでブレーキを使うな」
 「は、」
 「聞こえなかったのか?一切ブレーキを踏むな、と言ったんだ。ハンドルも必要以上切らなくて良い―――何か飛び出しても気にせず突っ込め」
 「え、いえ、ですが……」

 表情一つ変えず命じられ、思わず戸惑う。
 スピードさえ出し過ぎなければブレーキを踏まずに運転することも不可能ではない。だが、何か飛び出しても止まるなとは。
 それは……犬や猫なら、最悪故意に轢いても仕方ないで割り切れる。僅かばかり罪悪感は残るだろうが真正の動物好きというわけでもないし、優先すべきは主人の命令である。

 ただ、この場合主人の言う『何か』とは小動物よりももっと大きな―――人にまで、適用されるのだろう。

 流石に普通躊躇する。一体何を考えそんな指示を下すのか。反対はしないが、せめて理由だけでも聞きたい。
 するとこちらの心情を汲んでくれたのか、主人はフムと思案気に顎へ手を当てる。


 直後、ヘッドレストを鈍い揺れが打った。


 「ブレーキを踏んだ場合、もれなくお前の頭に穴が開く」


 カチン、と鳴る金属音。視界には一切映らないが先の衝撃と合わせ容易に正体の想像がつく。まさか、と疑うよりも先に一気に血の気が引いた。
 ミラーの中で主人と目が合う。紅い双眸は相変わらず落ち着き払っており、それでいてゾッとするほどに冷たい。突き付ける物が冗談や脅しではないと、その色が裏付けている。

 「…………」
 「死ぬのが嫌なら止まらず運転し続けることだ」

 相変わらず淡々とした調子で告げられる。そこになって漸く、自分の勘違いに気づいた。



 これは【命令】だ―――優先するとかしないとかではなく、絶対の意思。



 疑念を挟む余地も、異議を唱える必要もない。それ自体、許されていない。

 主人の命に従い、完遂すること。最も重要な事柄を、自分は失念していた。


 滑る手でハンドルを握り直す。
 アクセルを深く踏まないよう意識しながら、となりのペダルを忘れ去る。ハンドルも道の形に沿わせるだけ。
 慎重に運転していると今度は「遅い」とクレームが入る。無茶だ。だが、やらねばならない。
 事故を起こさず、主人が望むまま、他者を跳ね飛ばすことも厭わずに。


 生きるためには、必要なことなのだから。



 ***


  

 引き攣った顔を前に向けつつも運転を止めない部下に、キルネンコはひとつ満足して銃を下ろす。

 それで良い―――理解及ばない事柄を考察するだけ無駄だ。

 下手な考え休むに似たり、という。なら、何も考えず、大人しく言う通り動けば良い。それこそ馬鹿のように。使えない馬鹿はどうにもならないが、従順な馬鹿ならそこまで悪くはない。
 役目を終えた得物と交換に煙草を取り出す。抜き取った一本へつい数分前別の用途で使ったライターを翳す、その一瞬、辺りの『気配』がザワリ大きくなったが気にせず火をつけ吸い込む。
 どうせ、運転席の男は気づいていない。



 車の窓へ張り付く無数の赤い手の跡も、


 後ろからゾロゾロ追いかけてくる焼け爛れた死霊の群れも、


 内一体が屋根に取り付き、今にもフロントガラスを覗き込もうとしているのも。



 キルネンコが知覚している現状は、あくまで余人には分からないこと。紅い目を通して初めて知れる世界だ。
 ただ、上に居るのはそこそこ形が濃いから凡人の運転手でも視えるだろう。驚いた拍子急停止した車に一斉に憑りつくか、或いは避けた先事故死と見せかけて殺すか。
 別段車が潰れたところでキルネンコ自身は何ら問題なく生還できるが、死人ごときにしてやったりな思いをさせるのも癪だ。最後まで屈辱に歯ぎしりさせる。その方が視る側としても面白い。
 頭上で更に膨れ上がる気配に目を細めた。よほど妄執が強いのか。まったく、笑える話だ。


 「死んでなおしがみ付くほど、大した人生でもあるまいに」






――――――――――
2012.09.24
日記再録。