※注意※

拙宅ウサビキャラでフリーホラーゲームIbパロ。
ウサビは勿論Ibが正しく好きな方は回避されて下さい。


キャスト
・赤薔薇→狙(9歳)
・青薔薇→運(成人)
・黄薔薇→運(子供)



Ibのエンディング(微妙に)ネタバレ含みます。
でも捏造の方が多いです。

おKな方のみどうぞ。

スクロールにて表示です。








































The forgotten portrait …






 ―――ねぇ、ボリス。マカロンって知ってる?



 ―――そう、お菓子。甘くて、色んな色があってー……ハンバーガーに似てるかも。



 ―――えっ、不味そう!?いやいや美味しいんだって!本当!!



 ―――そんな、疑いの目で見ないでよ~っ!アレは絶対に美味しい!保証するよ!





 ―――……だから、さ。








 「一緒にここを出て、食べに行こうよ」






 

 なんて、言ったくせに。




 「コプチェフ……」

 段差もあやふやな階段を駆ける。星明り程度の小さな光だけが照らす通路は暗く、ともすれば躓きそうだ。それでも構わず、ボリスは足を動かす。

 『先に、行ってて』

 足を止めたボリスに対し、コプチェフは笑って言った。胸を押さえ、苦しげに息を詰めながらも、迷うボリスを諭すように。
 ウソなんかつきたくない。でも、本当のことも言いたくない。言いよどんだ末、告げられた答えが何を意味していたのか。
 何を言えばウソで、本当のことなのか―――ボリスは薄々気づいていたが、聞き返さなかった。
 ただ、後で追うと言うコプチェフに頷き、走った。振り返りはしなかった。後ろに何か崩れるような気配を感じながらも、振り返らずに走った。

 ―――見ればきっと、引き返してしまう。

 戻って、片膝ついて倒れているだろう彼の元へ駆け寄って、なんとかして運ぼうと奮闘するだろう。
 けれど、そんなのは所詮意味のないことだと分かっている。年端もいかない自分の体ではコプチェフを支えられないし、仮に引きずることが出来ても数歩もしないうちに力尽きるに決まっている。
 二人揃って共倒れになるのでは、何の為にここまで来たのか―――コプチェフの薔薇[命]と替えてまでして、繋いだ生なのに。

 だから、ボリスは走る。両手足が千切れそうなほど振って、心臓が異常なまでの音を立てながらも、夢中で走る。


 まだ望みはある。奪われた彼の薔薇を取り戻せば、まだ間に合うかもしれない。まだ―――諦めちゃいけない!


 「……コプチェフッ!」

 汗なのか涙なのか、良く分からないものが眼に入って染みる。酸素不足で頭がクラクラした。吐き戻しそうだ。
 体だけ前へと進む朦朧とした意識の中、声が届く。
 「スキ……キライ……」と一定のリズムで聞こえる楽しげなそれに鳥肌が立った。ここに来るまでも点々と床へ落ちていた、青い花弁。極力見ないようにしていたが、まさか―――
 砕けそうになる足を叱咤し、思いっきり床を踏む。




 まだだ―――まだ、まだ。まだ、間に合うんだ。



 絶対間に合わせるから、諦めては、



 諦めたりしては―――








 「―――スキ」








 登りきった階段の最上段。開けたそこで勢いついた足を止め、ボリスは立ちすくんだ。
 すっかり上がった息が苦しい。膝はガクガクするし、口の中に溜まった唾液は喉が張り付いてうまく飲み込めない。全身水を浴びたような汗だくで湿ったカッターからズボンから全部重く、叶うなら座り込んでしまいたかった。
 そう思う反面、体は全く動かないでいた。腿も、指先一つも。足の裏が床に張り付いてしまったかの如く、ただ目の前の状景を見るしか出来ない。


 殺風景な部屋の中心部―――床に撒き散らされた、青を。


 「……ぁ、」

 ひしゃげた喉がヒュッと音を鳴らした。掠れた呼気はしかし、ここではなんの抑制力も持たない。
 整わない動悸の中、見慣れた背中が―――この世界で友だと思った相手の背が震えた。

 「……ハハッ!やった、やったぁ!これで、俺……!」

 自ら散らした花びらに囲まれ、彼は笑っていた。その目は陶然と、待ち望んでいた幸福を得たように輝く。ボリスが今まで見た中でも一番だと思うほどだ。
 暫く歓喜を噛み締めていた彼だったが、不意にボリスの存在へ気づき振り返った。

 「なんだ、ボリス来てたんだ。
 ねぇ、見てよコレ!これで俺も、やっと外に出られるんだ……!」

 心底嬉しそうに彼は言う。
 呆然と目を見張るボリスへ良く見えるよう、腕を突き出し―――一枚の花びらも残ってない茎を差し出して。





 『心配しなくても、大丈夫だよ』



 『俺に任せときなって』





 『ホラ―――大事にしなよ』







 「―――ッァァアアア!!!」 


 気がついた時にはボリスは飛び出していた。さっきまでの体の重さも忘れ、ダッと床を蹴る。
 獣のような咆哮と共に目の前笑みを浮かべる少年へ掴みかかる。最早躊躇はなかった。あちらに怪我を負わせてしまおうと、ほんの一片でもコプチェフの痛みを感じさせられるなら構わないとさえ思った。
 が、哀しいかな長さの足りないボリスの手が届くより早く、彼はヒラリ身を翻す。

 「アハハハッ!ボリス、君も早くおいでよ!」

 ポイと茎を放り捨て、一目散に出口へ向かう。その目にはもう外の世界しか見えていないのだろう。
 木霊だけ残して消える背を、しかしボリスは追いかけないでいた。
 激昂で焼き切れそうだった頭を瞬時に冷却し、床に落ちた茎を拾う。
 同じように部屋に散らばった花弁も集める。震える指先で何度も何度も零れ落としながらも、必死に青をかき集める。
 そして両手に納まるだけ薔薇の残骸を掴むと出口とは反対になる来た道を駆けた。
 もつれる足で転げ落ちそうになりながら、来た時同様全速力で下っていく。

 「ハッ、ハァッ―――!」

 踏み外して、倒れて、距離感も狂うほどに只管走って。ようやく覚えのある廊下まで出た。
 ぼんやりと光が浮かぶ壁際、そこにコプチェフは寄りかかるようにして座り込んでいた。

 「ッコプ、……コプチェフ……!」

 足を引きずりながら近寄る。
 ボリスがすぐ脇に立っても、コプチェフは顔を上げなかった。藍色の瞳は伏せられ、おちゃらけた言葉一つ発さない。見下ろす横顔は光彩の具合を抜きにしても、青白い。
 ダラリ下がった手の中には銀色のライターが握られていた。ということは、それを取り出すまでの間意識はあったわけだ。

 まだ、起きる可能性だって―――ある。

 「コプ、ほら薔薇だ……お前の薔薇、ちゃんと取り戻したんだ……」


 閉じた目へ掲げ、ライターを取る代わり萎れた茎を握らせた。
 集めた青い花びらを、薄紫の頭の上へ全部振りかけた。
 それでも動く気配がないから、思いっきり頬を張ってやった。
 一発、二発。パシンと乾いた音が鳴る度、指が熱くなる。

 ―――けれども、コプチェフはピクリとも動かない。頬も冷たいまま。

 前ウサギの部屋で叩いた時と同じ力で打っても、赤み一つ差さない。


 「なんで……なんで、起きねぇんだよ、コプチェフ……!」


 もう一発。もう一回。もう一度だけ。もう―――

 手のひらが痺れるほど、叩いて。
 掴んでいた胸倉を揺すり、ボリスは呻いた。



 諦めるな―――諦めるな。


 約束した。一緒に出ると。一緒に出て、マカロンを食べると。


 美味いのか不味いのか知らない、もし不味ければその時は散々責めてやろうと思ってたんだ。



 まだ、間に合う―――まだ、まだ絶対に間に合うから、




 「……っぅ、ぁ……う、っあああーーーっ!」






 諦めたりなんて、したくないのに。














 【―――本日は『華麗なる美の世界・ゲルテナ展』へお越し下さり、真にありがとうございました。間もなく閉館の時間となりますので、皆様お忘れ物などございませんよう―――本日は……】




 「…………」

 ザワザワと音が波の引くように響き、遠ざかる。
 合わせて徐々に人の気配も減っていく中、ボリスは一人佇んでいた。子供にとっては高い位置にある絵画を首を上げて、じっと見上げている。
 閉館案内にも気づかない様子の彼は放っておけば一晩中でもそのままで居そうだったが「ボリス」と呼ぶ声に黒い瞳を動かした。

 「随分熱心に見てるのね。気に入ったの?」

 探しに来た母親の問いに、彼は「……別に、」と答えた。
 別に、気に入ったとか入らないとかそういう理由で見ていたわけではない。
 では、どういう理由なのかと訊かれると、よく分からないが。

 青と紫の入り混じった、グラデーションの美しい肖像画を眺めていたのは―――

 「でも、今日はもうおしまい。帰るわよ」
 「ん……」

 差し出された手を素直に取る。

 「……あら?ボリス、そのライターどうしたの?」
 「……?」
 「落し物かしら?」

 繋いだ手と反対、ボリスの空いた手に握られた、凡そ子供に縁のない代物に母親は首を傾げた。
 ボリス自身、まるで覚えのないものだ。冷たい、銀色のライター。どこかで拾った記憶もない。


 誰かから貰った記憶も、約束も、



 「さぁ…………忘れたよ」



 何もかも、あの絵のように。








 ED:忘れられた肖像




――――――――――



Lonely Борис…



 本当は、知ってたんだ。










 「ボリス、足元平気?」

 肩越しに呼びかけるコプチェフへ、ボリスは頷く。周囲はつま先すら見えない真っ暗闇だったが、先導に立つコプチェフだけはかろうじて確認できるので大丈夫だった。

 美術館で再会してから、二人はずっと歩いていた。

 最初はボリスだけが、スケッチブックとかいう場所を出た。コプチェフも一緒に連れて行きたかったが、その時の彼はぐったりと力なく、まるで死んだように重かったのである。子供のボリスに持ち上げられる術などありもせず、ただ悔しさに涙を飲みながら彼を置いて歩いた。
 そうして降りていった長い長い階段。地の底まで続いているんじゃないかと思ったその先は、驚いたことにあの美術館へ繋がっていたのだ。
 見覚えのある館内。両親と共に記帳した受付も、もらったパンフレットもそのままだった。違うのは人の気配がまるでない点だけ。
 戸惑いつつ、とりあえず回廊を覗いてみた。最初来た時に見た絵画、相変わらず表題が読めない彫刻。中には額縁から抜け出して襲ってきたあの絵もあり一瞬身構えたが、近づいても何も起きなかった。紙に描かれただけの至って普通の絵だった。
 一人分の足音を響かせ巡った末、ボリスは一枚の絵画の前に辿りついた。
 壁一面に飾られたその巨大な作品を見上げていると、何やら絵の雰囲気が変わった。ここまでに蓄積された予感が運命の分かれ道だと訴える。
 途端、ゾクリと背筋が震えた―――本能が飛び込むか、逃げるかの二択で激しく葛藤していた。

 飛び込めば、何か変化が起きるかもしれない。しかしそれが吉と出るとは限らない。
 体は正直に後ずさりした。少なからずの恐怖で膝が笑う。留まるべきか、踏み出すべきか。そんなに長い逡巡の時間はないというのは分かっていた。


 もし―――コプチェフがいたらこんな時どうしただろう。頼りないけど、時としてボリスを庇い支えてくれた彼なら、この迷いをどう打ち破ってくれたか。


 (どうする―――どうすればいいんだよ、コプチェフ……!)


 迫られる決断にボリスは呻く。

 すると。





 彼は、現れた。







 「疲れてはない?歩くの辛かったら、おんぶしてあげるよ」

 出口らしいところを見つけた、というコプチェフは自信に満ちていた。足取りもしっかりとし、明かり一つ持たずにずんずん奥へと奥へと進んでいく。
 手を引きながら時折ボリスを気遣う。ボリスがどんなに元気な子供でも、やはり大人と比べれば体力が劣る。以前一度倒れたこともあって、心配してくれてるのだろう。今までも良くあった話で、その都度「子ども扱いするんじゃねぇ」とボリスは逆に怒鳴るのだが、藍色の瞳は変わらずボリスの事をしっかり見守ってくれていた。
 今は前を向いていて見えない彼の目を思い浮かべ、ボリスは平気と答える。

 「……コプチェフこそ、具合良いのか?」
 「もーバッチリ!死ぬほど痛かったのがウソみたいだよ。
 ボリスが『彼』を燃やしてくれたおかげだね。本当、ありがとう!」

 にこやかに言われる礼に、ちくんと心が痛む。
 あの時、咄嗟とはいえ『彼』に火をつけたことをボリスは未だに是としきれない。自分達を閉じ込めたとはいえ、束の間は友と信じた相手だ。
 部屋に転がっていた画帳には外の世界に対する憧れと切望が切々と書き綴られていた。『彼』はただ、自由になりたかっただけなのだ。その手段が外で生きる人間と入れ替わるという、とても酷な方法しかなかっただけで。
 赤い炎に包まれながら向けられた哀しげな眼差しを思い出すと、どんなに割り切っても後悔が募る。
 だが、それを口にするのは単なる欺瞞だろう。だからボリスはあえて何も感じなかったよう振舞う。

 「……じゃあ借りてたライター、返すよ」
 「ああ、いいよいいよ。そのままボリス持ってて。記念にってヤツ?」
 「…………そっか」
 「俺もいい加減禁煙しなきゃって思ってたんだよー。それあると決心鈍るから」
 「だからキャンディー持ってたのか?」
 「キャンディー?―――ああ、うんそう。口寂しさ紛れるし」
 「俺、ポケットが一杯だったから貰ったの食っちまった」
 「あはは、いいよ~。美味しかったでしょ、イチゴ味」
 「…………、うん」

 声だけが聞こえる闇の中、二人で歩く。
 景色が見えないせいで一体どれだけ歩いたのか、さっぱり分からない。真っ直ぐなのか曲がっているのか、登っているのか下っているのか。上下左右自身の頭がどちらに向いているのかさえ、はっきりしない。同じところを延々周っているような気もするし、けれどコプチェフが平気で進むのだから間違いないのだと思う。

 「それで、ボリスはここから出たら何がしたい?」
 「んー……とりあえず、思いっきり寝る。で、起きたら腹いっぱい美味いもの食う」

 あのおかしな美術館に足を踏み入れてから、ろくに睡眠をとっていないのだ。食事も然り。
 生きるか死ぬかの瀬戸際で三大欲求どころの話でなかった。だからゆっくり落ち着ける場所に出られたならば忘れていた人間らしい感覚を満たしてやりたい。

 「……あと、な」
 「ん?」
 「……喫茶店に、行きたい」
 「喫茶店?良いねー、何食べるの?ケーキ?それともバケツパフェ?」

 ボリスは甘党だから、とコプチェフは笑う―――多分、笑ったのだろう。振り返らない彼の顔はどんな表情を浮かべているか定かではない。ただボリスはコプチェフの背中だけ見て、付いて行く。

 歩いて、歩いて。
 
 足音すらどこかに吸い込まれたように聞こえない、闇ばかりの空間をひたすら歩いて。
 不意に、ボリスは足を止めた。


 「……もう、この辺でいい」


 ポツリ、言うと自分からコプチェフの手を離す。
 突然解けた繋がりにコプチェフが初めて振り返る。が、ボリスからすると随分高い位置になる彼の顔は、やはり暗くて判然としない。

 「ボリス?どうしたの、出口はもっと向こうだよ」

 驚いたようなコプチェフの声。
 今までどんなにきつい道のりであっても、ボリスは自分から根を上げなかった。負けず嫌いなのも起因の一つだろう。そしてそれ以上に、あの世界では諦めが終焉に直結すると無意識に感じ取っていた。だからどれほど恐怖に竦もうとも、前に進まねばならないと自分に言い聞かせたのだ。
 途中コプチェフと出会ってからは一緒に出るという希望も相まって、一層強く邁進してきた。
 そんなボリスが見せる消極的な姿はコプチェフにとっても予想外だったのだろう。

 「ホラ、ボリスはいい子だから頑張れるでしょう?」

 そう、絵画の前から連れ立ってくれた時のように伸ばされた手を、しかしボリスは取らない。
 じっと向けられた手のひらを見て―――静かに、告げる。
 


 「―――俺は、コプチェフの傍にいる」



 一瞬―――闇が、ざわついた気がした。それは単にボリスの気のせいだったのかもしれない。神経が麻痺するほどに平坦になった中で感じた錯覚。
 同じように見下ろす藍色の目が鈍く光ったと思うのも。錯覚なのかも、しれない。

 「何言ってるの、ボリス。俺はここに―――」
 「良いんだ」

 怪訝そうなコプチェフが全て言い切るより先にボリスは首を振る。 


 良いんだ、何も言わなくて―――全部を、明かさなくて。


 「お前には感謝してるよ。あそこで声をかけられなかったら、俺は踏みとどまらなかったかもしれない。
 いや、分かってる―――本当は、出て行くべきだったんだよな。アイツが身代わりになってまで助けてくれたんだから、一人でも帰るべきだったんだ。
 けど……出来なかった。迷ってたんだ。俺が生きても良いのか?って。
 コプチェフも『アイツ』も、―――俺が殺したようなもんなのに」


 コプチェフからは、命である薔薇を交換させ死なせてしまった。あの時自力で薔薇を取り戻していれば、かの人の美しい青薔薇は散らずに済んだのに。

 『彼』も、ボリスが身を守るため、生きるため燃やしてしまった。あの時会話なり何なり、別の選択を取っていれば違う未来があったかもしれないのに。


 全て偶然と必要の上に成り立った結果ではある。
 しかし、それを仕方ないで片付け元の世界に戻るのは―――あれほど帰りたいと思った恋しい場所であっても、ボリスは躊躇った。
 帰りたい。戻りたい。でも、戻って幸せになる権利があるのか。置いていったコプチェフはどうなるのか。戻った後自分は彼らを覚えているのか。


 戻りたい。戻りたい―――けど、戻りたくない。


 「…………」
 「だからお前が来て、引き離してくれたおかげで決心できた」

 ありがとな、とボリスは見えないコプチェフの顔に笑いかける。繋いでいた手は本物のコプチェフよりも冷たく硬質だったが、一人歩くよりもよほど心強かった。
 くるり反転して足を踏み出す。感触のない闇を足裏に、ボリスは美術館のさらに向こうにある階段へ戻ろうとした。

 「……無駄だよ」

 後ろから冷ややかな声が投げつけられた。それまで聞いていた声音よりも低い、くぐもった声だった。

 「スケッチブックは既に閉じられた後だ。『あの子』がもういないからね」

 初めて聞く本当の声は淡々と説く。その口調が後半、ほんの僅かに揺れたのを聞いてボリスはそうかと思った。
 作者[ゲルテナ]を父とするなら、『彼』はこの声にとって弟にあたるのかもしれない―――自分の意思で動く美術品だ、家族への情があっても不思議ではない。

 「それに道自体あってないようなもんだよ。自分がどう来たかも分からないだろう?」

 その通りだ。おかしな美術館から出られる確率が1パーセントの望みだったとするなら、恐らくここは0を何個もくっつけた数値が返る。一面に広がる暗闇は深海よりも深く、果てが無い。
 それでも留まろうとしないボリスに哂う気配がした。

 「なんなら俺が代わりになってあげても良いけど?」
 「顔も分からねぇマネキンなんか、まっぴらごめんだな」
 「可愛くねーガキ」

 舌打ちでもしたらしい相手に哂い返す。それをきっかけにボリスは来たであろう方向に進む。間違っていればまた別の方角へ進めば良い。

 そうやって歩き続けるうち、いつかきっと、




 「―――好きにすれば良いさ。

 美術館[ココ]からは出られない。望んでも戻られない。[コイツ]のところにだって行けない。

 可愛そうなボリス。君は永遠に―――」





 知ってる。分かってる。




 どれだけ馬鹿な選択か、子供の自分だって理解している。一度引き返せない場所へ来たなら堕ちるところまで堕ちてしまうほうが楽なのだと、既に知ってしまっている。


 

 それでも―――この身朽ちるまで、一人闇を彷徨って。








 「ひとりぼっちなんだ」









 いつか、会いたい。











 ED:ひとりぼっちのボリス






――――――――――



Forever together …





 初めて出た外は、とてもにぎやかなところだった。

 ひとがたくさんいて、色んなことをしゃべっていて、色んな色や匂いをもたらしていて。景色もいろいろ。

 それに、外はとても明るい。あたたかい。ほんものの太陽の光を初めて浴びたけど、ポカポカするみたい。空もクレヨンでぬったよりもっと青くて、きれい。

 新しいお父さんとお母さんも出来た。優しく素敵な両親。それと、年の近い―――友達みたいな『お兄ちゃん』。


 今日はみんなで美術館に来てて、帰りがけには美味しいものを食べるんだって。


 楽しいなぁ。うれしいなぁ。


 大好きなあの子と一緒にいられて、すっごくすっごくしあわせ。








 ほんとう、外に出られてよかったぁ!











 頭上広がる空は気持ちのいい快晴だった。
 来た時はどんより曇っていたが美術館を周っている間に晴れ上がったらしい。
 柔らかな日差しを受けながらボリスたち家族は帰り道についていた。前を行く両親は今日の展覧会について話し合っている。規模こそ小さかったが独創性に溢れる作品の数々は息子たちにとっても良い勉強になっただろう、とか言っているのをボリスはぼんやり聞いていた。
 なんだか頭がフワフワする―――両親の声も、周囲の音も全部薄布一枚隔てられているように聞こえる。賞賛される展示品を思い出してみようとするのだが、今しがたまで見ていたにも関わらずどれもこれも曖昧にしか浮かんでこない。
 珍しく静かなボリスの横では『弟』が対照的にはしゃいでいる。どうやら彼にとっては楽しいひと時だったらしい。

 元々退屈だからと美術館行きを渋ったボリスと違い、弟は割と―――割と、どうだったっけ?

 腕に絡んでくる弟に、家を出る時のことを思い出そうとする。
 と、指先が何かに当たる感覚にボリスはそちらの方へ意識を向けた。
 弟がくっついているのとは反対の、ズボンのポケットへ突っ込んでいる手。
 ボリスの癖の一つで、転んだ時危ないでしょう、としつけに厳しい母親から注意されるのだが中々直せないでいる。
 そのポケットには朝母が持たせたハンカチしか入ってなかったはずだけど。布とは違う硬質な物をボリスは取り出す。


 体温で若干温くなった手を広げる―――コロンと乗った、小さな黄色。


 「あっ、キャンディだ!ボリスちょーだいっ!」

 一瞬それが何なのか、ボリスは考えていた。
 その隙に脇からにゅっと伸びた手が黄色を摘む。完全な不意打ちに反応が遅れた。
 弾かれたよう顔を上げたボリスの目に飛び込んだのは、「おいしい~」と笑う弟の顔だった。
 丸い頬を綻ばせてキャンディを味わう弟の行動は普段なら仕方ないヤツと思うところだった。ボリスも人一倍甘いものが好きではあるが、ニコニコする弟を見るとそう頭ごなしに怒るわけにもいかない。年齢がほとんど変わらなくても、自分は兄貴なのだから。
 友人であり身寄りのない彼を両親が引き取ると決めた時点で『弟』にすると、そう決めたのだ。
 精々軽く小突いて泣かす、その程度だったのだが。


 「―――何すんだっ!!!」


 ガッ!と、ボリスはすぐ横にあった胸倉を掴んだ。
 ビリビリ空気を震わせる怒声が一帯に響く。両親がビックリした様子で振り返る。目の前の藍色も、まん丸に開かれている。
 そこに映った自分の形相にも気づかず、ボリスは叫ぶ。

 「ふざけんな、ソレを返せよ―――返せ!」

 黒い瞳を煌かせ、髪を逆立てんばかりの勢いで身長の変わらない体を揺する。
 殴らないのが逆に不思議な激しさだった。真向かいで怒りを受ける相手は勿論、両親ですら暫く止められずにいるほどに。

 「返せ、返せよっ!ソレは、俺のっ……!」
 「コラッ!ボリス、何乱暴なことしてるの!」

 尚も返せと詰め寄るボリスを父母の手が慌てて引き離す。自分と良く似た風貌で叱る母に、けれどボリスは謝ろうなんて微塵も思わなかった。

 「コプチェフとケンカでもしたのかい?」

 父親にやんわり押さえられながらコプチェフ―――そうだ弟はコプチェフというんだ―――を見据え、グッと唇を噛む。
 ボリスの剣幕に当てられてかコプチェフはきょとんとした表情で瞬いている。
 多分、彼としてはそんな大層なことをしたつもりではなかったのだ。友人だった頃以上に仲の良い、『兄弟』なら良くある戯れの一つ。文句を言いつつ結局のところいつも許してしまうボリスへの甘えもあったのかもしれない。


 でも、それは―――その黄色いキャンディは、


 「キャンディの取り合い?それでボリスは怒ってるのか」
 「もう、キャンディなんかまた同じのを買ってあげるわ。ボリスはお兄ちゃんなんだから―――」


 「同じのなんかない!!!」


 気づいたら、ボリスは泣いていた。
 先ほどの突然の怒りと同様、自分でも制御出来ない涙が落ちる。

 悔しい?―――違う。
 憎らしい?―――違う。

 自分の物を取られたことに対する不満とも、他人でありながら両親に庇われている『弟』への嫉妬とも、似ているようで異なる。

 ぎゅうぎゅう胸が締め付けられるような―――違う、切り裂かれるような、痛み。


 苦しくて、辛くて。悲しくて、哀しくて。


 まるで大切な何かを失くしてしまったかのようなこの寂莫は、何で―――





 何で、たった一粒のレモンキャンディが大切だったのだろう―――?





 唇を一層強く噛み締めて涙を流すボリスに、両親は困ったよう顔を見合す。幼いながら気が強く、どんな時でも決して人前で泣かないのが彼ら自慢の息子だった。初めて見る我が子の様子に戸惑いを隠せない。
 天気とは裏腹な重苦しい空気の中。濡れたボリスの頬に、ヒタリ、小さなものが触れた。

 「ボリス、ボリス」

 ぼやけた視界に映る、藍色。
 両親の脇を抜け駆け寄ったコプチェフが両手を添えて顔を覗きこんでくる。
 血の繋がりがないのが一目の似てない顔をくしゃりと歪め、彼は喉を奮わせた。

 「ごめんね、俺すっごくおなか空いてて、ボリスの持ってるキャンディがすっごくすっごくおいしそうに見えちゃったんだ。
 こんな風にボリスを泣かせるつもりじゃなかったんだよ…ごめんね、ボリス。横取りしてごめんなさい」

 取ったキャンディは揺すられた反動で口から飛び出てしまった。地面に転がる黄色い砂糖菓子には仕事の速いアリが群がっている。最早、ボリスにあのキャンディを返すのは不可能だ。
 ボリスに寄り添ったまま、潤んだ目でコプチェフは両親たる人を見上げた。

 「お父さん、お母さん。喫茶店の前にお菓子屋さんに連れてって。俺のおこづかいで、ボリスにキャンディ買うの」
 「でもコプチェフ、喫茶店ならケーキとかもあるのよ?」
 「ううん、キャンディにする」

 「ボリス、良い?」そう尋ねるコプチェフに、ボリスは良いとも悪いとも言わず、ズズッと鼻を啜る。

 「じゃあ、行こうか」

 一応落着したらしいと判断した父親の声で一家はまた歩き出す。
 お願いどおり菓子屋へ方向を取りながら、コプチェフはそっと横の手を握った。

 「ボリス、ごめんね……」
 「…………」
 「俺のこと、キライになった?」

 微か震えた、消え入るような声。先ほどまでの無邪気さを完全に引っ込め、落とされてしまった肩へボリスは小さく首を振る。
 全部許そうとか、そこまで寛容になれたわけではない。ただ、すぐ脇で情けなくも半べそをかいている相手に勢いであっても否定的な言葉をかけてはならない気がした。

 「……へへっ、俺もボリス大好きっ!」

 赤く充血した目の端でふにゃ、とコプチェフが緩んだ顔をする。単純なヤツ、と思いつつも釣られてボリスも少し笑った。

 甘ったれで、可愛くなくて、友達の感覚が抜けないままボリスに引っ付く世間知らずな―――『弟』。

 兄になると決めたのは自分、ならその顔に涙を浮かべてはならないだろう。



 たとえ―――忘却の彼方に残してきてしまった、大切な『何か』を失ったとしても。



 繋いだ手にぎゅっと力を込めて「ねぇ、帰ったら何して遊ぼうか?」と聞き込んでくるコプチェフに、ボリスはゆっくり口を開いた。




 + + +




 「コプチェフ、週末みんなで美術館に行かない?」

 靴の土を落としている玄関先で、出迎えた母はそう言って一枚のパンフレットを差し出した。

 『ワイズ・ゲルテナ展』

 青い空間をたゆたう魚の絵にはそう書かれてある。

 「あなた達小さかったから覚えてないかもしれないけど、昔この人の展覧会観に行ったのよ。
 今回はまた新しい作品が追加されているらしいし、どうかしら?お父さんも休み取るって」
 「で、ボリスを誘ってこいって?」

 懐かしむよう目を細めた母の意を察して訊けば、彼女は「だって年頃のうちに感性を養わないと女の子にモテないわ」と腰に手を当てた。
 芸術に携わる家系の中でボリスだけは音楽会に行けば居眠りをする、演劇を観に行けば楽屋に忍び込んで遊び出すという状態だったから、我が子の行く末が僅かながら心配なのだろう。おかげでコプチェフはボリスの半分以下しか母から小言を食らったことがない。
 すっかり手のかからない子と認識されているコプチェフは貧乏くじな『兄』を思って苦笑した。

 「母さんには悪いけど、ボリス週末も部活入ってるから無理だと思うよ。俺も試験勉強で登校するつもりだし」

 頭より体を動かすことの方が向いている彼に、仮に話を振ったところで頷くはずもない。
 きちんと理由を説明してからコプチェフは残念そうな顔をする母親の肩を叩く。

 「気にせず父さんと二人で行ってきなよ。デートだと思ってさ」
 「まぁ、この子ったら」

 少し頬を染めて怒った風に笑う母はボリスと良く似ている。自分と違う漆黒の瞳を微笑ましく思いながらコプチェフは部屋へ向かう。
 と、丁度階段の途中に噂の彼がいた。
 足音に振り返ったボリスと短く挨拶のやり取りをしてから、コプチェフはおもむろに切り出した。

 「ねぇ。週末の弓道部の練習、見学しに行っていい?」

 にこやかに尋ねるコプチェフとは対照的にボリスの顔は顰められる。「却下」とすげない一言が降ったのはほんの一秒も置かないうちだ。

 「お前が来ると女子がキャーキャー五月蝿くて集中出来ねぇんだよ」
 「良いじゃん、俺はボリスしか見てないんだし」
 「全然話かみ合ってねぇ」

 唸るボリスに尚もコプチェフはせっつく。
 沢山の部員がいる弓道場で彼しか見つめていないというのは本当だ。弓を引く凛とした姿はいつだって見惚れさせられる。そしてボリスだってどんなに周囲がざわめこうと、決して的から意識を逸らさないのを知っている。

 「ねぇ、邪魔しないから良いでしょ。可愛い『弟』からのお願い」
 「……可愛いと思われたいなら、無駄なそのタッパ縮めてこい」

 階段を一段使って漸く並んだ目線でボリスが睨む。遺伝子上の繋がりがない以上、コプチェフの背がボリスを追い越すのはある意味やむを得ないことなのだが、彼は未だに納得いかないらしい。見下ろされるのが嫌でよくコプチェフに正座させる。
 それでも体格に似合わず甘えるよう覗き込む藍色に『兄』としての情が刺激されたのか渋々ながら引き下がった。「大人しくしてろよ」と釘代わりの拳骨を軽く落として。

 「ありがとう~ボリス大好きっ!」
 「その図体で抱きつくな!」
 「差し入れ何にしよっか?ケーキにクッキー、チョコレート?」

 狭い階段でドタバタ暴れながら揃って二階へ上がる。くっつかれて迷惑そうな顔をするボリスが本当は嫌がっていないのを、やっぱりコプチェフは知っている。

 「俺、ボリスと一緒に居られてすっごくすっごくしあわせ!」

 早く週末にならないかなぁ、とコプチェフは心から―――本当に、心から思った。











 最初は、『友達』になりたかった。

 それがいつの間にか、『家族』になれた。


 随分苦労したんだ。キャンディを遠ざけて、薔薇を刈り取って、青い色を全部塗り替えて。あの男を思わせるもの、全て払って。


 今更美術館になんて行けやしないよ。ねぇ?




 誰よりも愛おしいボリス―――いずれ兄弟みたいなこの関係も越えて『恋人』にしてみせる。




 (だって俺と君はずっと一緒なんだから。)





  ED:いつまでも一緒






――――――――――



The edge of storage …




 夢を見る。


 繰り返し、繰り返し、同じ夢を。

 恐ろしい夢だった。両親も他人もいない狂った世界に一人取り残される夢。

 魍魎と化した絵画や石像に追われ、出口のない美術館を彷徨った。夢でありながら体に走る痛みや恐怖は本物同様。発狂しそうだった。


 そんな夢の結末は―――いつも少しだけ、違っていた。


 ある時は、明けた現実の世界で一人額縁に収まる【彼】を見ていた。


 (違う……)


 またある時は、偽者である【彼】の手を取り夢から抜けられなくなった。


 (これも、違う……)


 そして最後に見た夢は、新しい『友』を得た代わり、【彼】を失くす夢。


 (違う、違う―――こんな終わり方、望んじゃいない。違うんだ)

 

 クルクルと変動する未来。答えを知っては嘆き、絶望に駆られれ、再び震えるような夢を見た。



 今度は―――今度こそは。



 夢と現の狭間で差し出された【彼】の手を掴み、強く願って、




 目を開ける。













 「坊や、どうかしたのかい?」

 昼下がりの美術館。教養と感性を兼ね備えた人で埋められた館内は心地良い静寂が漂う。時折聞こえる感嘆の溜息と、賞賛交えたヒソヒソ声が優雅なBGMと相成る。
 コプチェフ自身、今日は久しぶりの美術館ということもあり随分期待していた。開催されていた展覧会の作者はマイナーらしいが、どの作品も一風変わった独創性を持っている。特に得意の抽象的画法においてはを強すぎるほどの印象がジワジワ身の内を侵食するかのよう。

 その内の一つ、大きな薔薇の彫像―――『精神の具現化』と題された作品は、特に気になった。

 目には見えない人間の深層を表現している、と説明にある通り、それは人の心を象っているのだろう。幾重も花びらを広げた赤い薔薇は美しく、気高く、また見方によっては毒々しくも見える。心なんてものが一つの側面だけでは説明の付かないことと受け手の視点で変貌してしまうことが成程、良く分かる。
 だがコプチェフが足を止めたのはそんな小難しい解釈が浮かんだからではない。ただ、何となく。何となく、目を引いて離さなかったのだ。

 まるで遠い記憶を辿っているような、懐かしさというか―――もっと、ぐっと胸の奥深くに差し迫るような。感傷の、ような。

 うまく言葉で言い表せない、疼痛に似たものを感じるコプチェフが少年の視線に気づいたのは、そんな折だった。
 斜め後ろあたりからじぃっと向けられる黒い瞳。最初は自分越しに鑑賞しているのかと思ったが、振り返ったコプチェフと目が合っても彼の視線はずれない。穴が開くほど見つめてくる。
 年は十歳前後だろうか。多分両親と共に美術館を訪れ、別行動を取っているのだろう。困惑する様子が見られないから迷子ではなそうだ。
 推測しながら優しい声音を作って尋ねてみる。見知らぬ男に声をかけられて泣いたりしないだろうか、と一瞬肝を冷やしたが、いかにも気が強そうな少年にそれは杞憂だった。
 キリリとした面立ちの彼は目を逸らさないまま、小さな唇動かす。「……何観てるんだ?」と問う声は高いが、にこりともしないのは少し、子供らしくない気がする。

 「え?あ、ああ……何って、この薔薇の形の像だけど……」

 目の前にはそれしかないから当たり前だが。思うものの、少年の真剣な目に若干気圧されながらコプチェフは説明する。
 コプチェフから像へとスライドした彼の目は、やはり好奇とは違う光を放って見える。幼いながら才能の一端でも開花しているのか。身なりからして良いとこの坊ちゃんのようだし。
 改めて向き直ったコプチェフも薔薇の花を見る。

 「……なんかさ、」

 ポツ、と。思考より浅い、無意識が口をついた。

 「この像見てると、なんていうのかな…………すごく、切ない気分になるっていうか、……」

 切ない。

 胸を締め付けられるようなこの感覚はそう、切ないのだ。朧げに霞みがかった過去が掴んでも掴んでも指をすり抜けていく、もどかしいその痛み。
 頭の隅に辛うじて残っている残滓でイメージしようとするのだけれど、上手くいかない。上手くいかないけれど、この心を表す大きな薔薇に記憶は何かを訴える。


 想い出―――そんな綺麗な名では片付けられない、大切な『何か』があった気がするのだけれど。
 

 「って、急にこんな事言われても困るよね。変な事言ってゴメンね」

 自分が分からないことをまさか初対面の子供が答えられるはずもない。気恥ずかしさを感じてコプチェフは慌てて少年に詫びた。
 強い眼圧放っていた黒い瞳はいつの間にか下を向いていた。流石に変な大人と思われたかもしれない。それは困る。
 何も起きないうちに逃げよう、とそそくさ場を離れようとしたコプチェフの耳へ、不意に微かな声が届いた。

 「うん?」

 ―――今、「……違う」と言った?

 自分の聞き間違えかもしれないけど、俯き加減の少年がそう呟いた気がする。
 一応確認しようか。自分の半分しかない背丈に合わせるようコプチェフは身を屈め、


 ―――ガツンッ!!!


 脳天突き抜けた激痛に、目を剥いた。

 「~~~ッ痛ったぁあーーーーーーっ!!!!!?」

 フロア一帯を震わせる大絶叫。館内では静かに、と書かれてある注意書きも無視に一番痛む片足押さえて蹲る。
 痛い。めちゃくちゃ、痛い。思わず半泣きになるくらい、はっきり痛い。
 のた打ち回る一歩手前なコプチェフを、向こう脛蹴飛ばした少年はキッ!と鋭い目で睨んだ。

 「―――バァーーーカッッッ!!!」
 「ッ、へっ…!?」

 先ほどのコプチェフに負けず劣らずな音量で罵声が響く。
 突然浴びせられた攻撃の数々に藍色の両目が白黒色を変える―――滲んだその視界の端で、少年が駆けていくのが見えたがどうすることも出来ない。

 「、……何だったん、だ……?」

 嵐の如く去っていった知らない彼の背を、コプチェフはただ呆然と見つめた。












+ + +









 (……違う……―――違う、違う、違う!


 また今度も違う!こんなのじゃない!こんなのじゃあっ―――!


 こんな終わり方……ダメだ、こんなの―――違うんだ―――!!!)





 願わくば、今一度。

 叶うなら、もう一回。



 望むのはこんな結末じゃない。こんな答え間違っている。




 望むのは、望んだのは、―――








+ + +









 目を開けると、足元に海があった。
 ちゃぷんちゃぷんと波打つ、蒼い絵の具。仄暗い深海の底を悠然とたゆたう魚が嗤う。


 『また来たのか』


 語りかけてくるような空虚な眼窩をボリスは見下ろす。
 ひんやりと体を凍らせる温度、鼓膜が痛くなるほどの静寂。何度経験しても沸き起こる身震に、それでも黒い瞳から力は失わない。

 「……ああ」

 懲りないと嘲笑を浴びせられようが、構わない。
 元より呼んだのはそちらだ―――繰り返すのが、ボリスの意思だとしても。その度招き入れるのだから美術館[そちら]としても満更ではないのだろう。
 どうせ数ある結末の中からボリスが望むものは手に入らないと踏んでいるのかもしれない。何度でもボリス達の薔薇を毟ってやろうと、そう思っているのか。
 冷ややかな目の下、魚が嗤った。男とも女とも、若いとも年寄りとも付かない声が、幾つも幾つも壁に床に反響し哄笑した。



 ―――おいでよ ボリス


 ―――また一緒に、下で遊ぼうよ

 
 ―――おいでよ おいで


 「黙れよ」

 耳にまとわり付く雑音を鋭く切る。一つ呼吸を吐いて、ボリスは額縁の中へと片足踏み入れた。
 氷海に浸かっていくような冷たさに泡を吐きながらも、深く、深く。沈み込み。

 目を閉じる。












 夢を見る。



 繰り返し、繰り返し。恐ろしい同じ夢を、何度も。


 何度でも。


 曖昧に溶け消えるこの記憶が確かなものとなるまで―――【彼】を取り戻す、その時まで。







 ED:片隅の記憶



 



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2012.09.24
日記再録。
諸所に捏造含んでいるのでご了承ください。