Два медведя в одной берлоге не уживутся.  …双子×緑


 背の高いスツールに腰掛けたプーチンは、ほけっと口をあけたまま前のテーブルを眺めていた。

 広い室内、高い天井に大きなシャンデリア、立派な張りのビリヤード台。壁にはご丁寧にバー・カウンターまで設置され、その後ろにずらりと高級酒が並べられている。この空間が家の一室であるなどと誰が思うだろうか。

 お金持ちの家というのはやっぱり違うものなんだな―――根っからの庶民なプーチンは案内された時からただ呆気にとられていた。

 視界の先で先攻のキレネンコが、片目を眇めて狙いを定めていた。傍らでは、後攻のキルネンコがキューを磨いている。
 赤い瞳が、鋭さを増す。

 ショット。

 繰り出された突きに、テーブルに残っていたカラーボールが過たずポケットに落ちる。
 ゲーム・エンド。
 鮮やかな軌跡を描いたキューボールのみ残るテーブルにプーチンが感嘆の息を零す。
 格好良いを通り越して、華麗なくらいだ。
 しかし、見惚れている緑の瞳の前で、ゲームをしている当人達はひどく無感動な目をして溜息を吐いた。

 「「つまらん」」

 異口同音にぼやかれた言葉に、プーチンは確かにそうだろうと思った。

 二人の実力が伯仲なのは間違いではない。ただ、両者共にレベルが高すぎる。
 一度プレイに立つと、どちらもまずミスショットをしないせいで勝負自体が成立しない。激しい時には最初のブレイクショットでテーブルのカラーボールが全て消えてしまう事もある。
 先攻に立った方が必ず勝ってしまうゲーム。これで面白いはずがない。
 恐らく楽しんでいるのは見ているプーチンと、プールで落ちてくるボールに潰され悦んでいるコマネチだけではないか。
 ゲコ、と同意するようにプーチンの膝でレニングラードが鳴いた。
 それはやっている当事者達もよく分かっている。
 久しぶりに手加減せずにやれる相手なのだが、勝負がつかないのでは意味がない。
 昔時折ゲームをしていた頃は、こうならないようお互い一定まで実力をセーブしていた。しかしその暗黙の協定も今回は両者持ち出す事はない。


 理由は一つ―――例えゲーム自体がつまらなくなっても、観戦する人物に少しでも相手に劣る瞬間を見せる訳にはいかない。


 勝者は、常に自分。

 各々の赤い瞳には何時になく高いプライドが滲んでいた。


 そんなわけで玉を並べては突いて、一人で全て落として、また並べて突いて今度は相手が全て落としてを繰り返してを暫く。
 いい加減不毛な娯楽にキルネンコは飽きていた。自分も実力を加減するつもりはないが、相手はもっとないはずだ。ではどうするか―――キューボールを弄びながら、ぐるりと室内を見渡す。

 その目が、ぱち、と緑の瞳と、合った。
 同じような結果が繰り返されるのに飽きもせず、ショットが決まる度に瞳を輝かせるただ一人の観戦客。


 ―――途端、縫合痕残る顔に浮かんだ人の悪そうな笑みに、プーチンはしゃきんっと背を伸ばした。


 え、え。何ですか。

 だらだら冷や汗をかきながら声にならない問いかけで口を開閉させるプーチン。
 それには構わず、キルネンコは「おい」とキューを磨く片割れを呼んだ。

 「次の勝負は、アレを賭ける」

 びしっとキューで示す先―――その先で、プーチンは「えぇっ!?」と叫ぶ。えぇっ、何で?、と。
 その答えは簡単。
 実力が等しく勝負がつかないなら、実力以上の力を出す仕掛けを用意すれば良い。その仕掛けを作るのに丁度良い具合に居たからだと、尋ねればきっと眉一つ動かさず返答が返っただろう。
 目を白黒させて尋ねるどころではないプーチンを視界の端に捉え、しかし呼ばれたキレネンコは目の前で不敵に哂っている双子の片割れへ首を振った。

 「俺が勝った時、俺に対してへのメリットがない」

 「アレは、俺のだ」とあっさりと言われ、再びプーチンが「えぇっ!?」と叫んだ。えぇっ、そうだったの?、と。
 当然二人にその意味が伝わるわけはなく、話はどんどんと続いていく。

 「賭けるんだったらお前も相応の物を出せ」
 「面倒くせぇ奴。だったらいつもの―――ニールバレットの限定ので良いだろ」

 仕方なく、といった様子で提示された品に、キレネンコの眼に光が増した。
 

 最上級スニーカーブランドメーカー・ニールバレットの限定モデル、ブラック。


 かつて一足のみ販売され、どちらが所有するかで三日三晩本気の兄弟喧嘩を繰り広げた一品。
 ちなみにその際は屋敷の裏山が綺麗に消えた。
 部下に「これ以上壊れると地盤が崩れます」と泣き付かれたので仕方なく、公正明大で一発勝負な籤引きを設けた結果、限定スニーカーは弟の手へと納まった。
 以後二人の間で賭け事をする際に登場していた、キルネンコの虎の子。珠玉の一品といっても過言でないそれを得る機会は、奪う相手が居なくなった以上永遠にないのだとついこの前まで思っていた。人生とは数奇なものだ。
 ならば、このチャンスを逃すわけにはいかない。

 「いいだろう」
 「えぇっ!?」

 いいんですか?、とプーチンは叫びそうになる。

 いいんですか、僕の意思無視で賭けの対象に上げられてしまっても。
 いいんですか、多分スニーカーだろうもう一つの景品と同列に扱われてしまっても。いいんですか、それで。

 二人が所有権を賭けるくらいだから並大抵の靴ではないのはプーチンでも分かるが、ちょっと複雑な気分になってしまう。

 そんなプーチンには構わず、二人の間でルールが着々決まっていく。娯楽として和気藹々と楽しむのは無理な、常人には過酷過ぎるルールが。
 モチベーションが目に見えて上がった赤い瞳が、不穏当な光を放ってお互いを見た。

 「後で後悔するな」
 「そっちも吠え面をかくな」

 「「―――ぶっ潰す」」

 「ひっ!?ひぃぃぃ……!」

 テーブルから漂う殺気に、常人代表のプーチンがスツールの上で怯えた。
 娯楽ってこんなに危険な空気になるものだっけ―――そんな疑問に答えてくれる相手は居ない。
 リボンもかけられていない景品の上でゲコ、とコングが鳴った。




*補足*

ロシア諺

二頭の熊は同じ巣穴では暮らせない。
Два медведя в одной берлоге не уживутся.
実力のあるものが二者いるとき、争いは避けられない。




――――――――――



fish in troubled waters  …双子×緑。


 「ぅんー……?」

 霞がかかったような視界に、光が差し込む。
 チチチッ、と聞こえる鳥の鳴き声に、ああ朝なんだなー、とプーチンはぼんやり思った。背中を柔らかく受け止めるベッド―――それはなんだか経験した事がないくらい、ふんわりと心地よく沈む―――
は、まだまだ夢の世界の続きに留めようとしてくる。

 なんだか、頭が重い気がする―――

 それになんだかもにょっとした感触がある。自身の額に感じる違和感にプーチンが手を伸ばそうとした時、それは先を見越したようにすっと退いた。
 退き際に聞こえた「ゲコ」という声につられて首を横に向ける。ぼんやりとした意識が捉えたのは、友人である蛙の白い腹とそれを摘み上げて無感動に見下ろしてくる赤い瞳。
 不遜とも不機嫌ともとられる目とかち合うと、プーチンは緩んだ笑みを浮かべた。

 「……おはよーございます、キレネンコさん」

 舌足らずな挨拶に対して、微かに赤い髪が揺れる。無言で小さく顎を引くだけの反応だが、プーチンにはそれで十分だった。
 どこでも、どんな時でも、目が覚めればいつも彼は居てくれる。彼が居てくれるだけで、その日のスタートはいつも最高だ。
 例え今日これから何があろうと、昨日それまで何があったろうと―――昨日?
 
 へにょりと緩んでいた頬が、はたと硬直した。

 昨日。そう、眠る直前までの日の事。その記憶の断片が寝ぼけていた脳をざぁっと駆けた。

 眩暈を起こしそうなほどに疾風迅雷の応酬、驚嘆だったり慄然だったりで心臓がついていかない緊迫感、時折混じる轟音や炸裂音や、あれビリヤードってこんなゲームだったっけと思わず疑問に思ってしまった
瞬間などなど。
 鮮烈な部分が、一気に蘇る。

 当然それが始まる直前の事も、覚えている。自分と貴重な靴とが『賭けられて』いた事を。
 なのにどうしてか、肝心の決着の瞬間はまるでブラックアウトしたように思い出せない。

 改めて、枕元へ座る相手の顔を見る。
 表情の無い精悍な顔はよく見れば幾つか傷跡があった。ただ遊んでいるだけなら絶対につかないだろうそれらも思い出した記憶の正しさを証明している。
 となるとだ。結果に自分を据えていて、一対一の勝負で勝敗を競っていた状況で、隣にいるのが彼だという事は―――

 「あ、あのぅ……ひょっとして、勝ったのって、もしかして……」

 恐る恐る口にしかけた言葉は、最後まで言うのを躊躇した。なんだか、ものすごく恥ずかしい事を尋ねようとしていような気がしたからだ。
 途端、気恥ずかしくなって頬が熱くなる。プーチンは「何でもないですっ」と取り繕うと、隠すようにシーツを引き上げた。
 そもそも、彼が欲していたのは宝物級の靴の方だ。昔からずっと欲していた物を手に入れるために勝負して、自分はそこに乗っかった程度でしかないのだから。

 そう分かっているのに、胸がばくばくと動悸打って止まらない。何かに、期待をしているように。

 潜った下からこっそりと目だけ出したプーチンは、上目遣いに枕元を見上げる。すると見下ろす赤い瞳が言いたい事は分かっているといった風に目を細めた。

 「―――どっちに勝ってほしかったんだ?」
 「ほっ!?ど、どどどっ、どっちって、その、あのっ」

 耳朶を打つどこか愉しそうな低い声に、シーツの下でプーチンの顔が真っ赤に染まった。

 どちらか、なんて事最初から考えもしていなかった。どちらが勝ってもおかしくなかったが、どちらかでなければ嫌だなど思いはしていなかった。
 正直に言うとそうとしか答えられない。それはある意味失礼で、ある意味尊大な意見になるが、仕方がない
 第一、選ぶのはプーチンではないのだから。

 あたふたと視線をあちこちさ迷わせてるプーチンの頬を、するりと大きな掌が触れてくる。指先でくすぐるように柔らかく撫でられて、思わず背が泡立った。
 慌てて引き戻した視線に、先程よりも近い位置まで降りてきたキレネンコの顔があった。

 「もう一度、訊いてやる―――どっちが、勝てば良いと思っていた?」

 囁く声が、真摯な響きを持って鼓膜を震わせる。動揺に揺れる緑の瞳に答えを迫るように、整った指先が口元をなぞり、首筋へと降りる。その手元に違う意思を感じそうになったプーチンが反射的に手で取り押さえると、赤い瞳が一層強い色をもって促してきた。

 どちらか。どちらが。

 「ぼ、僕は―――」

 喉がつまったように、声が出ない。
 心臓を直に掴まれているような緊張に震える唇に、上から降る吐息を感じる。堪らずぎゅうっと閉じた瞼の向こうで、小さく笑うような気配があった。
 気配が、近づく。
 押さえた手が顎を掬い上げるのも、過敏になった頬にさらりとした生糸がかかるのもどうする事もできず、いよいよもってして目を開けられずに握った手に力を込めていたプーチンは、だから気づかなかった。

 

 自分に触れている相手の後頭部に、剛速球で黄色い球が投げつけられた事に。


 
 ボゴンッ!と鈍い音の後、響いた嬌声のような甲高い鳴き声に驚いて開いた目に映ったのは、感涙を浮かべながら壁と天井と床との間でバウンドしているヒヨコの姿。相当勢いがあったのか、ぼよんぼよんと弾み打ち付けてなお止まる様子がない。
 その光景を唖然として眺めていたプーチンの上で、ゆらりと影が動いた。首を動かせば―――何度見ても一向に慣れない、幽鬼のような顔をしたお人。
 毎度の事ながら青ざめてしまったプーチンをその目は見ず、衝撃のあった後ろをゆっくりと振り向いた。
 サブマシンガンを携えていても放り出して逃げたくなるその視線を、この世で唯一丸腰で立ち会える相手が泰然と受けた。

 「人の部屋でサカるな」

 冷え冷えとした声に、まるで自分が糾弾されたかのようにプーチンが硬直する。実際、対象扱いされても間違いではない。
 睨みつける兄を素通りして反対の枕元へ回り込んだキルネンコは、ベッドの上でだらだら冷や汗をかくプーチンの額に、手を置いた。

 「まだ少し腫れてるか」

 確かめるように覗き込む瞳は、入ってきた時かけた言葉とは裏腹に白眼視していない。
 軽く置かれた手は骨ばった、けれどどこか安心させる気色を感じさせる。温度の低い掌は熱を持つ顔に心地よく、我知らずほぅと力が抜けていた。
 キレネンコ同様、枕元に腰掛けたキルネンコからも見下ろされ、左右二対の赤い瞳に挟まれたプーチンは瞬いた。

 「えーっと……何が、あったんですっけ?」

 小首を傾げるプーチンに、対称にある同一な顔は揃って『やっぱりな』と言わんばかりの表情をした。

 「お前は、落ちた」
 「額から、床へ一気に」

 二人から簡潔に一つの説明を受け、プーチンはもう一度、昨日の記憶を呼び出した。
 そうだ、確か均しくやる気を高めていた二人の勝負は結局凄く長引き、もともと夜に強くないプーチンは先に席を外す訳にもいかずにスツールの上でこくこくと船をこいでいた。床に足のつかない、蛙を抱えたままの体が前のめりに倒れればどうなるか―――記憶の最後がブラックアウトしているのは、正しかった。
 打ったらしい額は、あまり痛くない。それもレニングラードの腹で冷却されていたから大事にならなかったのだろう。
 そこまで納得したプーチンは、また首を傾げる。では、勝負の勝敗はどうついたのだろうか―――?
 先程まで問答をしていたキレネンコに再度問うのは抵抗があったので、後から来たもう一人の勝負者を見上げる。

 「あのー……じゃあ、もしかして、引き分けだったんですか……?」

 自分が、床に落ちて寝てしまったから。
 若干の気まずさを感じつつ尋ねると、視線の先で薄い唇が口端を上げた。

 「どっちが勝っていれば良かったんだ?」
 「ぅえっ!?い、いやいや、だからどっちとかないんですってっ!!」

 つい少し前に聞いた言葉とそっくりな内容を返されて、プーチンは言った相手が同一人物でないのにも関わらず派手に否定した。

 「期待してたなら、選ばせてやろうか」
 「してないですしてないです選ぶとか考えてないですっ!!あ、あと……キレネンコさん、ちょっと手が痛い、です……」
 「………………」

 掴まれていた手へギリギリと込められた握力に怯えを滲ませながらプーチンが訴える。締め付ける力は弱まったが、顔の上でやり取りされる殺気の篭った目とそれを哂う酷薄な目は、はっきり言って生きた心地をさせない。
 出来るならこの上質なベッドの上で―――持ち主の身分を考えれば、経験ないほどに上質で当然だった―――もう一度眠って現実逃避したい。そう思うと防衛本能なのかそれとも単に昨日の刺激多い娯楽で疲れた体に眠りが足りなかったのか、意識がふわふわと夢の淵へ足をかけた。

 小さく欠伸を零して瞳をとろんとさせているプーチンに、両脇の二人が気づく。それだけで殺伐としていた空気が霧散するように消えた。
 重くなってくる瞼の上に、柔らかく載った掌が視界を暗くする。その手を無意識に追った空いた片手が、少し冷たい温度で包まれた。

 「もう少し、寝てろ」

 耳に馴染む低い声がまどろみに浮く背を押す。優しくすら聞こえるそれは同じトーンで喋るどちらの声か分からなかったが、両手で捉えている手はどちらも解かれる気配はない。

 どちらか選ぶ事無く、両方この手の中に、ある。

 これまでにないほど幸せに落ちる眠りの中で、包む空気が笑った気がした。
 

 「お前の勝ちだ」




*補足*

fish in troubled waters … 漁夫の利
ロシア語で検索したらヒットしなかったんです……


 



――――――――――
2010.4,7
3月分日記再録。