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  ※これ(08)の前振りです。
 


 ナイフ、ランプ、一切れのパン。
 鞄に詰め込んで、行きましょう。


巣立ちの朝。

 
 その時間、まだプーチンは夢の世界に居た。

 ぺちぺちぺち。

 「………うぅー……」
 「…………………」 

 むにーーーっ。

 「むほー……もぅおなかいっぱい……」
 「…………おい」

 むにゃむにゃ、と寝言を言っていた彼は、「起きろ」と耳に吹き込まれた声から逃げるように寝返りを打つ。
 が。声をかけられたその耳をがじりと噛まれた時は、流石に飛び起きた。

 「むほぉっ!?」

 目の前のご馳走が消えるのと同時に、耳から激痛が引く。それに合わせて頬がぱちんっと弾む音を立てて元のサイズに戻った。
 寝惚けと混乱を混ぜてキョロキョロするプーチンに、噛み付いて且つ頬を引っ張っていた張本人のキレネンコは「着替えろ」と短く告げた。
 薄暗い中見下ろす長身を認識し、プーチンは枕元の時計を見る。時刻はまだ夜明け前―――起きて着替えるには、まだ早すぎる時間だ。

 「え?ど、どうしたんですか?」

 まだ牛乳屋さんだって来ない時間ですよ、と朝一番に動く職業を引き合いに出しながら首を傾げる。まさかラジオ体操を元気にやるのだろうか。そうだとしてもかなり早い。
 吃驚したように目を見開く相手に、キレネンコはトランクを放る。その足元にはすでに自分の分のトランクが一つ、準備され終えていた。

 「……荷物をつめろ」
 「ほ?」
 「移るぞ」

 ぱちぱち、と瞬いていたプーチンは、簡潔に告げられた一言に漸く意味を理解した。引越しをするのだ。
 何度か経験した指示内容に、そうかもう移るのかと納得する。割と短い間の住まいだった。
 さて、何をトランクにつめないといけないか―――短い期間でも何故か増えてしまった所有物を思い浮かべながら、プーチンははたと止まる。
 寝惚けていた緑の瞳を見開くと、家から人の居た痕跡を消しているキレネンコを彼は慌てて呼んだ。

 「ま、待って下さい、キレネンコさん!今日!今日、引っ越すんですか?」
 「……そうだ」
 「今?これからっ??」
 「そうだと言ってる」

 早くしろ、と無感動に示唆する赤い瞳に、「そんなぁっ!」とプーチンは叫んだ。

 「今日、キルネンコさんが遊びに来る予定なのに!?」


 ―――言った途端、見下ろす瞳が半眼になった。


 ギロリと射竦められ、うっとプーチンがつまる。明るくない室内でも、相手の顔が無表情から不機嫌な色へ移ったのが解る。ベッドの上で姿勢を正す寝癖つきの頭へ、キレネンコの声が冷ややかに降った。

 「それがどうした」
 「えっ、いや、だって来てくれるのに、黙って引っ越したりしちゃったら―――」
 「関係ない」

 ぴしゃりと言われてしまい、うぅっとプーチンが澱む。「でも、でも……」と言ってみるが、睨む赤眼の前でははっきりとした言葉にならない。空のトランクを手に正座したまま、プーチンは項垂れた。

 引越し自体は仕方がない。
 ばっちり前科持ちで且つ正規の手続きで刑務所を出なかった、つまり脱獄犯でもある自分達が一所に留まることは出来ない。出回っている指名手配書と合致されないよう、近隣に顔を覚えられそうになった頃には新しい土地へ行かなければならない。
 時折別ればかりのその生活に寂しさを感じるものの、常に同じ道を進む小さな友人が二匹と―――一歩前を行く傍らの存在が居てくれる限り、それは耐えられた。

 ただ―――何故、今日なのか。

 逃亡生活中で会えた、数少ない知り合いの一人が来る予定の、今日であるのか。

 去り行くこの家へ自分達の留まっていた証拠を残してはいけない。それはつまり、来訪相手へ引越しの旨も、引越し先の住所も教えられないという事である。そもそも、引越し先は何時もプーチン自身知らされていないので教えようもないのだが。
 何も知らずにこちらを訪ねてきた相手は、空っぽの家の前でさぞかし困るだろう。約束を破った上にとんずらかと怒るかもしれない。知り合いに嫌な思いをさせるのではないかと思うと、プーチンは胸が痛かった。
 着替える手も動かないまま、ちら、とキレネンコを窺う。が、高い位置の顔は表情を変えないまま「早くしろ」と急き立てた。そこには肉親と再度別れるのを惜しむ様子など、微塵もない。

 「で、でも…………」

 どうしても納得しがたく、何か良い言葉はないかと視線をさ迷わせてしまう。
 もじもじとベッドの上から動こうとしないプーチンに、すっと見下ろす赤眼が眇められた。


 「残るなら勝手にしろ」
 「―――っ!」

 さして大きくない、なのに耳に突き刺さる声が夜明け前の静かな部屋へ響く。
 俯いていたプーチンが跳ねるようにして顔を上げると、すでに言った相手はトランク片手に背を向けていた。

 「あ―――」

 赤い髪が流れる背中に、プーチンが目を見開く。
 踏み出した足が向く方向―――玄関の方へと、スニーカーを履いた足は躊躇いなく歩こうとしている。いつもプーチンの前を行っていた、少し前で歩幅を合わせてくれる足が。背を向けたまま、置いていこうとしている。
 これまで一緒だった―――これからも一緒に居させてくれると思っていた相手が、遠ざかる。


 気づいた時、プーチンの手は去り行く背へと伸びていた。


 「ま―――待って下さい!」


 ―――べしゃっ!


 「……………」
 「ぅったぁ…………」

 顔面を床へ強かに打ち付けたプーチンは、思わず鼻先を押さえようとし―――それを無視して、キレネンコのコートを掴む手に力を込めた。
 骨が曲がるのではないかと思う痛みを感じながら、それでも両手を離さないまま彼は必死に言葉を繰り出した。

 「待って……待ってください、キレネンコさん……」

 無言で佇む相手に、顔を上げる。鼻先を赤くした顔の、両の眦に水の塊を湛えたプーチンが赤い瞳を捉えた。

 「ごめんなさい……わがまま言って、ごめんなさい……っ」

 ―――ごめんなさい―――置いていかないで下さい。

 謝罪と、懇願と。二つだけを、手を離さないまま必死に繰り返す。
 ズズッと打ったからではない理由で鼻を啜る。その頭に、はぁと嘆息が降りかかった。
 頭上で揺れた空気に思わずびくっと肩が跳ねる。途端、堪えていた両目からついに雫が落ちてしまった。 

 「―――っぇ、うっ……」

 ぽろぽろと涙を零すプーチンに、コートを握られたままのキレネンコはもう一度溜息をついた。無感情だった赤い瞳が、僅か呆れの色を乗せる。どこか諦めた様子で首を折った彼は、長身を折って蹲っている頭に手を置いた。
 触れた瞬間びくりとプーチンが揺れたが、構わずに括られていない、寝癖の残る髪を払う。最近すっかり慣れてしまった手つきでわしゃわしゃと薄金の頭を撫でながら、泣く相手でも聞き取れるよう、低い声がゆっくりと告げた。

 「……手配書の、更新がされてた」
 「っう……ぇぐ……っ」 
 「……顔を覚えられてない間に、移動するに越したことはない」
 「……っふ、は…はいっ……」
 「…………これからも、ずっと同じ生活になる」


 それでも―――ついて、来るか?


 いつだったか―――この引越しばかりの逃亡生活を始める、最初の頃に問うた内容を、もう一度繰り返す。
 その時は迷いなく「はいっ!」と答えたプーチンが、実はそんな生活には向いていない事をキレネンコは知っている。
 顔を隠し、素性を詐称し、知り合った人間と悉く別れていく生活が、夜明け前に住処を捨てて闇の中逃げる生活を繰り返すことが、陽の匂いのする相手に合うはずがない。真っ当に、人と触れ合う生活が一番だと、わかっている。
 それでも―――深く考えなかっただろう返ってきた返事を、良いようにとって連れ歩いている。その自覚は、いつもある。


 ―――残るなら勝手にしろ、と言った自分が、実際にその行動をとられてしまったら時どうするのか。

 キレネンコ自身、見当がつかなかった。


 だから恐らく、手の下の首がこくりと縦に折れた時漏れた息は、安堵だったのだろう。
 しゃくりあげながらも肯定の意を示すプーチンに、キレネンコが撫でる手を強める。起こすのに引っ張った柔らかな頬を拭ってやると、泣き濡れた緑の瞳がキレネンコに焦点を合わせた。

 「っ……一緒に、行きます……」

 零す涙が止まらない中、はっきりと告げられた言葉は。



 ―――いつかの日と、変わらない。



 太陽の昇る朝と夜の闇が同居する黎明の刻。

 見送る目もないまま、一つずつトランクを提げた大小の影が街道を降りていった。

 



  

――――――――――
2010.5.8
指名手配書の更新よりも、弟から逃げるための理由が勝っています。(笑)
昼に続きます。