踊りましょう、アナタ。
 愛しいわ、アナタ。


来訪者は月夜のベルを鳴らす。

 
 「あれ?キレネンコさん、どこか行くんですか?」

 トランクから出したマトリョーシカを飾りながら、プーチンは玄関先に立つ相手へ振り返る。
 新しい住居へついたのは日もすっかり暮れた頃だった。それからとりあえず夕飯をとって部屋の最低限の姿を整えて、漸く自分の荷物を整理が出来た頃には夜が更けていた。
 カーテンを吊るす際は西側にあった月も、大分天空にかかっているのではないか。こんな時間にどこへ行くのか―――そもそも、越してきたばかりのここで、どこか行くところがあるのか。
 首をかしげてみせるプーチンに、赤い瞳が僅かに向いた。

 「…………すぐ、戻る」

 短く告げると、不思議そうにしている相手の返事を聞かないまま、赤い後姿は扉の向こうへと消えた。



 パタン。と後ろ手にドアを閉める。

 月夜の元、初見で馴染みのない景色を前に。キレネンコは、脇にあったポストを圧し折った。

 間をおかずに、腕を振る。投函箱をつけた棒が風を切る音をたてて宙を凪ぐ―――どうせ郵便が届く家でもないのでポストなどなくとも構いはしない。同居人のプーチンは一晩でなくなったそれに驚くかもしれないが、 いずれまた去る家の備え付けの品など惜しくもない。
 遠心力をつけて思いっきりスイングをした棒は、しかし途中で軌道を止められた。

 「殊勝にも出迎えか?」

 ご苦労な事だ―――そう言った相手の手の中で、受け留められていた投函箱が軽い音をたててもがれた。釘で、しっかりと打ち付けられている部分が。
 街灯のない外であっても、その顔が何時もの人を食ったような嗤いを浮かべているのが判る。
 月明かりが長く影を伸ばす、家の中からすでにやって来る気配を感じとっていた相手へ。ただの棒だけになった元ポストを肩に乗せたキレネンコは何時も以上に温度のない瞳で見やった。

 「帰れ」

 短く告げる。静かな外に響く、冷え冷えとした言葉に夜気が揺れる。
 『迷惑だ』と隠しもせず書かれている片割れの顔に、キルネンコが片頬を上げて見せた。

 「……何しに来た」
 「引っ越し祝いに」
 
 途端、目の前の不機嫌な顔つきに拍車がかかる。これでもかと言わんばかりに眉間へ皺を寄せて睨む相手へ、同じ容姿をした彼は涼しい顔をして手中のポストを弄ぶ―――その手の中で、箱がビシリと音を立てて亀裂を入れた。

 「意外と時間はかかったがな」

 情報を集めさせてから半日と少し―――日の高いうちに辿りつくかと思っていたのだが、なかなか上がってこないネタが最終的に答えとして形を成したのは夜になってからだった。
 それだけ細心の注意と準備を行って出て行ったのだろう。昔からは考えられない、小心ともいえる遣り方。全て力で押し切って小手先周りの事など歯牙にもかけなかった性格はどこにいったのか。
 その原因が扉の向こうへ居る、子供と見間違えるような小さな生き物にあるのだと思うと、非常に愉快だった。

 「時間がかかった」と嘯くキルネンコに対して、キレネンコは舌打ちをする。
 いずれ来るだろうと予測はしていたが、ここまで早いとは思わなかった。素人の相手が一緒に居る以上、どこか甘くなる部分があるのは仕方がない。だからこそ時間帯にしろ通り道にしろ―――そして残してきた 住居にしろ、足取りがつかないよう一応の手筈は整えたのだが。
 自分が居た頃と変わらないレベルの勢力がその手の内にあるのを感じ取りながら、彼は招かれざる訪問者へ再度同じ言葉を投げつけた。

 「帰れ」
 「折角来てやったのに、随分な言われようだ」
 「呼んでない」
 「別にお前の顔を見に来たわけじゃねぇ」

 むしろ見たくはない、と言わんばかりの相手に、それはこちらの台詞だとキレネンコが睨む。
 向き合った赤と赤の眼が醸す不穏な空気に当てられたように、夜空を覆う雲がわさわさと嵩を増す。厚く重なり月を覆い隠そうとするその袂の温度は夜だという理由を除いても、低い。扉の前だけ限定で、 気温が落ち込んでいるようだった。
 引くことを知らない相手同士、折り合いはつかない。

 延々睨み合いを続けるか、それとも過去何度もあったように力技で話をつけるか。

 鋭さを増したキレネンコの目の前で、解っていたように相手が掲げた手は、けれど拳の形ではなく開いた状態だった。
 何だ、と目を凝らす赤い瞳の先で、向かう相手の口の端が悠然と上げられる。

 「―――招待状は、受け取っているが?」

 白く、夜空の元へと翳されたもの。
 指に挟まれた『招待状』が月光に晒された時。

 ガチャリと内側からドアが開いた。



 「キレネンコさーん、どうかしました?……アレ?」

 玄関の扉からひょっこり顔を出したプーチンは、扉のすぐ前に立つ背中を見上げる。燃える色彩の髪が流れる背は、灯りのない場所でも鮮やかに目立つ。今朝捕まえたばかりのその後姿が 確かに存在する事にほっと安堵しながら―――彼は、その更に向こうに同じ色を見つけた。
 驚いたように丸くなる緑の瞳の前で、ゆるりと向けられていた背中が振り返る。その表情をプーチンが見上げて認識する前に、喉を震わせる嗤い声が夜の空気を動かした。


 「さて―――Участникパーティーはまだ始まっていないだろう?」


 ―――バキッ、と棒の折れる音は、少なくとも肯定の返答ではない。

 



 

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2010.5.8
実は日記用だったので短いです。
ありがとうございました。