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もう、バイバイ。 …赤×(緑)


 ひとつ、ふたつ、みっつ―――


 指を曲げるだけの動作で、手の内の物を握り潰す。
 力を入れる必要なんてどこにもない。手ごたえがない、と言っても過言ではない。
 柔らかな塊は手の中で弾け、潰れ、飛沫を上げ、破片となり雫となり指の合間から零れて落ちていく。


 赤い、赤い―――滴り落ちる、自分の目と同じ赤い色。


 ぐしゃり、ぐしゃり、と。
 手の中で、あっけないくらい簡単に、潰れていく。
 動かない、物言わない物体。
 指がめり込んでも『離せ』と言わない。握り潰しても『痛い』とも言わない。
 当然だ―――声を発する口など、この塊にはない。
 考えるべき意思も思念も存在しない。
 生命として切り離された位置に存在するただの塊でしかないそれを、ぐしゃりと手で只管―――只管、握り潰す。


 よっつ、いつつ―――


 こんなものが。


 むっつ、ななつ―――


 こんなものが、アイツを。

 

 手はすっかりべたべたとした赤色で染まりきっている。
 手をしとどに濡らす赤。
 汚れを厭う身は、それでもこの手を止めて手を洗い流そうとは思わない。
 こうすることに意義がある。この行為自体に意味がある。
 例え―――すでに起こってしまった過去を塗り替える事が、出来なくても。


 ここのつ―――


 それでも、ふと―――手を止める。


 目の前には、大量に溜まった赤。自分の手で潰し、砕いた赤い塊の残骸。
 開いた掌に―――「大きくて好きだ」と言われたただ壊すことしか出来ない己の手に―――一面、べったりとついている、赤。
 


 ―――これを見たら。

 もう良いと、言うのだろうか。もう、止めろと。

 
 耳へと残る、あの声で。

 


 「キレネンコさん、ついて行ってもいいですか?」
 「キレネンコさん、名前、呼んで欲しいんです」
 「キレネンコさん、もっと笑ったら良いのに―――」


 そう望むというのなら。

 幾らでも、叶えよう。


 どこまでも、共に居て。

 全ての言葉を、その呼び名へ変えて。

 不得手だった笑みも、その目の前へと浮かべるようにしてきて。

 

 そうして―――全ての望みを叶えてきたのに。
 


 ぐしゃり。

 

 何故―――此処にお前は居ないんだ?



――――――――――



※上の続きです。

また、会いましょう。 …赤×緑


 ぐしゃり、ぐしゃり。

 傍らの物を掴んでは潰し、落とし、また掴んで潰す。
 無感動な目のまま、同じ作業をキレネンコは延々と繰り返す。
 ひとつ、ふたつ、みっつ―――数だけ胸の内でカウントするものの、その数字が意味するところはあまりない。
 よっつ、いつつ、むっつ―――赤く染まった手を拭う事もしないまま、自分の目と同じ色の赤が落ち溜まっていくのをじっと見つめる。
 数が十に差し掛かった時、ふと、止めたほうが良いのだろうかと―――過ぎった考えに一瞬、キレネンコの手が止まる。が、彼はすぐに思い直して、手にしていた十個目を握り潰した。

 ぐしゃりっ。

 ボトボトと音を立てて落ちるそれを、掻き回す。
 去り際望まれたのは、これだけだった。たった二つ。それだけ望んで、行ってしまった。

 だからそれだけを行う。望みは全て、叶えると決めていたから―――

 ぐるぐると反対の手を回しながら、もう一つ赤い塊を手にする。それまでと同じように指を曲げようとしていたキレネンコは、ぱたぱたと鳴り近づく足音に顔を上げた。


 「―――ごめんなさい、キレネンコさん!鍋、どんな感じですか?」

 台所の入り口から飛び込んできたプーチンが、わたわたしながらコンロの前へ立つキレネンコの方へと駆け寄ってくる。
 入った時点で焦げた臭いはしなかったので大丈夫だとは思うが―――料理の経験があまり無い相手に無理を言って任せたので、些かの心配はある。
 共同生活を始めてから炊事はプーチンの担当だった。
 最初の頃「お米研いでもらえますか?」と頼んだ折り、研ぎ石を持ち出された瞬間の衝撃はなかなか忘れられない。しかしそれも相手の経歴を考えれば仕方が無い事だった。
 黙々とヘラを動かすキレネンコの横に並んで、鍋の中を覗く。
 ぐつぐつと煮立っている、赤い―――トマトベースのハヤシライスは、問題なく出来ているようだった。
 ホッと安堵の息をついたプーチンは、頭上辺りに感じる視線に顔を上げた。ぱちっと合った赤い瞳が無言で指の方へとスライドしたのに気付き、彼は照れたように笑って手を翳した。

 「あ。指ですか?大丈夫です。ちょっと切ってただけですから」

 上げた指先には絆創膏がぺたりと巻かれている。野菜を刻んでいる際、うっかり包丁で切ってしまったのだ。最も、切ったといっても本当に皮一枚切っただけで大したことはない。

 「血ももう止まってますし。
  どっちかっていうと―――キレネンコさんの手の方が、すごい怪我してるみたいに見えますよね」

 トマトを持つ、べったりと赤い果汁で染まっている手を示される。
 汚れた己の手を見ながら、キレネンコは無言のまま数分前の遣り取りを思い出した。


 リビングから「痛っ」という小さな小さな声を―――台所からの距離を考えれば常人には聞こえないレベルの物を―――聞き、雑誌を放り投げてすっ飛んできたキレネンコが見たのは、まな板の上のトマトを前に指を舐めているプーチンの姿だった。
 少し顔を顰めていたプーチンが慌てて「大したこと無いです」と言ったのだが、そんな事で引き下がるキレネンコではない。軽く血を滲ませている指を取ると、当然のように自分の口内へと運んだ。
 傷口に舌を這わせながらそのままなし崩し的に持っていこうとするキレネンコを、料理中だからとトマト並みに顔を赤くしたプーチンは何とか押し退けると―――チッという舌打ちを聞こえないフリをして―――絆創膏を取りに行くべく逃げるように台所を去った。その際、

 『あ、じゃあキレネンコさん。すみませんけどトマト細かくして入れといてもらえませんか?あと、オニオン炒めてる途中なんでそっちもお願いします!』
 『……………』

 と、頼みごとを残して。


 お預けをくらって若干むくれていたキレネンコだが、食べかけようとしていた相手のお願いを無視するわけにはいかない。

 しかし―――鍋のオニオンを炒めながら、丸のままのトマトを細かくするにはどうしたら良いのか。

 置かれた状況から見るとトマトは包丁で細かく刻むようだが、片手がヘラで塞がった状態で丸いトマトは切れない。勿論プーチンとしては同時進行しろ、というつもりで言ったわけではないのだが、料理の出来ない人間はきちんとした手順の説明がなければ理解が出来ない。

 言われた内容を遂行する方法を料理スキルゼロのキレネンコが自分なりに思案した結果―――細かくなれば包丁でも手でも変わらないだろうと、かなり性格の出た、強引な結論付けがされた。

 その考えが及ぶ合間には、プーチンの指を傷つける原因になったトマトへの、限りなく八つ当たりに近い恨みも篭っている。

 つまり、憎きトマトに制裁を―――だ。

 抵抗する術を持たない哀れな完熟トマトは、常人を遥かに上回る握力の、その何十分の一も発揮しない手によって悉く潰され、鍋一杯に溜まった。
 もう一つの頼まれ事であったオニオンも焦げていない。確実に、プーチンの望んだ通りの状態になっている。     
 鍋の中身を覗き込んだプーチンの「これだけあれば十分ですね」という発言に、キレネンコは持っていたトマトを戻す。握り潰されなかった運良い一個は意思を持つ物ならほっと安堵しているだろう―――結局後でサラダ用に切られてしまう宿命にあるのだが。
 かき混ぜていたヘラも渡し、立場所を入れ替わる。コンソメと赤ワイン、塩胡椒で味付けを調えたプーチンは、汚れた手を洗っているキレネンコに微笑みかけた。

 「ありがとうございます、キレネンコさん」
 「………………」

 ほんわかした笑顔と共に告げられる礼に、ふいと赤い眼が逸らされる。隣で洗われる手がばしゃばしゃと少し早めに動いている事に鍋を掻き回すプーチンは気付かない。

 量は二人分より少し多くなってしまったが、ハヤシライスは寝かせるほど美味しくなる。それに結果として珍しくも共同で作った料理だ―――幾らあっても構わない。きっと、格別に美味しく感じるはずだ。
 何時もより特別になった料理に、上機嫌に手を動かす。プーチンの中で切った指の痛みなど、最早どこかに吹き飛んでしまっていた。
 芳しい匂いを嗅ぎながら、仕上げに「美味しくなれ、美味しくなーれ」と口の中で呪文を唱えているプーチンへ脇から「おい」と声がかかる。首を向けると、すっかり綺麗な手になったキレネンコが視線を微妙に外したまま口を開いた。

 「……他には」
 「ほ?」
 「他に、何か無いのか」

 やる事があるなら、言え。

 告げられた言葉に、プーチンが大きな目を瞬く。ぽかんと開けられた彼の口は何も言わないが―――明らかに、驚いていた。普段何もしないのに、とその表情が言外に物語っている。
 キレネンコもそれに気付いたのか無表情の顔を少し顰めると「……無いなら、良い」と早々に申し出を下げた。さっさと台所を出て行こうとする相手に、はたとしたプーチンが慌てて声を上げる。

 「わわっ!待って下さいー!―――あの、じゃあー……お皿、並べてて貰えますか?」

 棚の高い場所にある皿を示して、伺うように首を傾げる。あれを取るには背の低いプーチンでは椅子が必要だ。毎回面倒を必要とする作業に、頷いたキレネンコは背伸びすることもなくひょいと皿を取る。
 揃いの深皿二枚を手に、普段は出来上がった物を前に座るだけのダイニングへと向かう。
 きちんとテーブル・クロスとナプキンも用意してくれるだろう、いつも自分の望みを叶えてくれるその背に、プーチンは嬉しそうに笑うと、もう一度鍋に向かって「美味しくなーれ」と囁いた。
 
 

 それでは―――お揃いの皿を並べた、白いテーブル・クロスをかけた食卓で。

 また、会いましょう。また、会いましょう。


*補足*
弥子様からリクエスト頂いた『深読みダークな赤緑』より。


――――――――――



屋根より高く、 …赤×緑+看守


 カラッと扉の小窓を開いたカンシュコフは部屋の様子をキョロキョロ探ると、目的の相手へ視点を定めた。

 「……541番。ちょっと」
 「ほ?」

 今日も元気にコサックを踊っていたプーチンへ「こっち来い」とカンシュコフが手招きをする。人目を憚るように―――といってもここに居るのはカンシュコフ本人とプーチンともう一人寡黙な囚人だけなのだが―――カンシュコフの声は潜められている。てててっと扉へと駆け寄ったプーチンは、何だかコソコソしているカンシュコフを不思議に思うでもなく、普通に声をかけた。

 「カンシュコフさん、どうかしたんですか?」
 「しーっ!馬鹿、でかい声出すな。……ちょっとな、手、出せ」
 「手?」

 なんだろう?と思いつつ、プーチンは言われたとおり素直に手を差し出す。上向きに差し出された小さな掌にカンシュコフは一つ頷くと、扉へマジックハンドを差し込んだ。
 ぽふっとハンドの先が掴む物を押し付けられたプーチンの口が、わぁっ!と歓声を上げた。

 「わーっ!柏餅だぁ!」

 キラキラ瞳を輝く瞳の前には、青々とした葉っぱで包まれた小さな菓子が載っている。喜びの声を上げるその口元は気も早く涎がじゅるりと滲んでいた。
 感激も顕に顔を綻ばせているプーチンに、扉の向こうでカンシュコフが釣られたように笑う。

 「どっかの国では今日それを食べる習慣があるらしいぞ」
 「そうなんですか?」
 「ああ。生まれた子供が男だったら、大きく健康に成長しますようにって祝う日なんだと」

 だからお前もそれ食って成長しろよー、と明らかな嫌味をニタニタ笑いで言われ、プーチンの眉がハの字になる。ぷうっと頬を膨らますと、彼は必死に反論を試みた。

 「僕、子供じゃないですよぉー」
 「見た目ガキだろ。しかもチビだし」
 「うぅー、チビじゃないですもん!……あれ、でもおやつの時間じゃないですよ?」
 「……それは、まぁ、あれだ」

 小窓から目を逸らすとカンシュコフは「特別だ」と頬を掻いた。
 その『特別』の意味は時間外の食料配給の事かどこかの国で食べられる習慣に合わせた事なのか、はたまた二人居る囚人の中でプーチンだけに渡した事に対してなのか―――見上げてくる緑の瞳にもごもごと口ごもると、結局説明をしないまま「いいから食っとけ」と早口に言う。
 どこか慌てた様子の相手にほけっとしていたプーチンは、それでも柏餅を手に微笑んだ。

 「あ―――はい。ありがとうございます、カンシュコフさん!」

 にっこりと笑って告げられる礼に、若干赤くなった顔が閉められた小窓の向こうへと隠れた。

 


 物言わなくなった扉から視線を手の上に移すと、プーチンはえへへっと上機嫌に笑った。
 理由は良く解らないけれど、良い物を貰った。
 胸の前に持ち上げた手の上からは、柏の葉っぱが立てる青い草葉の香りが漂う。貧寒とした監獄内では嗅ぐことができない、新緑の匂いだ。丁度外は若葉の季節―――なんとも爽やかな香りだった。
 その葉先をぺろっと捲ると、中から白くつるりとしたものが覗く。突けばぷにょんと弾力を伝えるだろうそれにさらに鼻を近づけると、葉の青い匂いに混じって甘く柔らかな匂いが胸を満たした。

 どちらも大好きな、監獄内ではとんと縁遠くなった匂い。

 これを前に、幸せにならないはずがない。
 今すぐにも齧りつきたい、という衝動をなんとか我慢して、彼は部屋のベッドへと駆け寄る―――当然、向かったのは自分の方のベッドではなく、雑誌を広げて寝転んでいる同居人の方のだ。
 ぷらぷら足を揺らして読書中のキレネンコへ、プーチンは貰ったたった一つの柏餅を掲げ示した。

 「キレネンコさん、柏餅頂いたから食べましょう!」
 「……………」

 ゆるりと雑誌の向こうから赤い瞳が持ち上がる。感情の宿らない目は、緑の囚人服を着てニコニコとしているプーチンと緑の葉に包まれた柏餅とを認識しても特に変化がない。思いがけず得た甘味への喜びも、一人こっそり食べずに分けてくれる心優しい同室者への感動もない。
 ただ―――無感動の赤い瞳はよくよく覗き込むとじぃっと目の前の緑色二つを見て何か思うように瞬いた。

 その視線に気付くことなく、プーチンは手の中の餅菓子をさてどうやって半分にしようか思案した。
 スパッと切ろうにも、包丁もナイフも房には置いていない。可能な折半方法は手で千切るしかないのだが、よく伸びる餅は引っ張ってもにゅーんと伸びるだけでなかなか切れないだろう。下手をしたら、中の餡が崩れ落ちてしまう。

 それでもプーチンに一人で柏餅を食べようという発想は―――与えたカンシュコフが知ったらショックを受けるだろうが―――生まれない。

 美味しいものは誰かと分け合って食べると、もっと美味しくなる。腹を満たす量は少なくなっても、その思いは胸を一杯にまで満たしてくれる。例え配分者が「美味しいですね」と話を振っても相槌を返さないような相手であっても、だ。

 うーん、と考えたものの妙案浮かばないプーチンへ、意外なことに先に口を開いたのはキレネンコだった。

 「…………分けなくて良い」
 「え?」
 「全部、食べろ」

 自分は要らない―――と振られる赤髪に、プーチンが慌てたように止める。

 「で、でも、キレネンコさんも甘い物好きですよね?」

 長身で鍛えた体躯と男性的な容貌は無表情の上を走る縫合痕も相まって女子供の好む甘い食べ物を口にするタイプには見えないが、実際は彼が紅茶にも砂糖を入れるほどに甘党であることをプーチンは熟知している。
 ケーキは勿論クッキーもチョコレートも饅頭も人形焼も、甘味なら―――甘味でなくてもだが―――何でも食べる。柏餅だって、嫌いではないはずだ。
 疑問を口にするプーチンに、けれどキレネンコは頑として首を振る。言い募ろうとする相手を止めるのに、彼はボソリと言った。

 「……俺は、別の物を食べる」

 だから食え。

 そう、強い意思を乗せて見つめる赤色に、プーチンも流石に無理強いは出来ない。良いのかなぁとは思いつつも、促されるような視線に従って柏餅の葉を剥ぐ。
 緑の衣は抵抗することなく外れ、中から白い柔らかな餅が出てくる。丸々一つの状態のそれを手で千切ることなく、プーチンは思い切って齧りついた。
 はむり、と歯を立てると、少しばかり抵抗するような弾力がある。むにっとするそれを歯で押さえたまま手で引っ張り、にゅーんと伸びた所を噛み切る。
 ―――途端、口の中に広がる、甘い甘い餡の味。
 顎を上下させると餅が歯をムニムニと柔らかく受け止め、舌の上を上品な小豆の味が覆う。包み込んだ葉っぱの濃い匂いが移っているのか、草葉の香りが少し鼻へと抜けた。

 感想は言うまでもない―――美味、だった。

 もむもむと口元を動かすプーチンの顔が恍惚とした表情を帯びる。
 悪いなぁと思っていたのもどこへやら、柏餅は二口三口とどんどん彼の口へ消えていく。その度柔らかな餅のような頬が、ふにゃりと締まりなく緩んだ。
 幸せそのものを噛み締めているような、見ていると思わず一口強請ってしまいたくなるような、そんな表情を―――じっと、真向かいで、赤い瞳が観察していた。


 ―――安心しろ。後で、代わりの物は食べる。

 餅のように柔らかくて、餡よりもずっと甘い物を。
 どんな甘味より、大好物である物を。



 だから心置きなく、大きく健やかに育て―――プーチン。


 緑の衣を剥いでその内にある白いものへがぶりと齧りつく瞬間まで―――あともう、一口分。


*蛇足*
5月5日子供の日より。どこを育てる気だ……


――――――――――



Twilight Infinity …赤×緑


 降り立った場所は、見渡す限りの荒野だった。

 「あ、れ……?」

 自身の目に映る、開けた、何もない世界に。プーチンは声を漏らす。続いて車を降りてきたキレネンコが後ろに立った事にも気付かないまま、彼は振り向きもせず呆然と立ち尽くした。

 ぽかんと口を開けたまま、思い出す。
 ここへ来るまでに、説明した―――思い描いていた、場所の姿を。


 暖かくなると花が咲いて、一面がピンク色の絨毯みたいになって―――
 大きな木が枝を折り重ねて影を作って、見上げるとまるで緑のレースを天井にひいたかのように鮮やかな色が広がって―――

 だから―――だから、ほんのちょっとだけ。ちょっとだけ、寄らせてもらって良いですか―――?


 そう、先を急ぐ相手の、無表情な顔を拝み倒すように懸命に頼んで。進行方向から車を逸らした先、辿り着いた懐かしいその場所は。


 覚えているものなど―――何も、なかった。


 ゴロゴロと転がる礫岩も、剥きだしの赤茶けた大地も。
 切り開かれた木々の残骸も、風に吹き巻き起こる砂埃も。

 何一つ、当時と同じものは、ない。

 記憶に残る最後に訪れた時と、あまりにかけ離れた光景に。
 ただ、言葉が出なかった。


 どれくらい、無為に時間だけが流れたのか。
 後ろでふぁと小さく漏れた欠伸に、漸くプーチンは自分が一人来ていたわけではない事を思い出した。

 そうだ―――無理を言って、寄り道をさせてもらっていたのだ。

 気まずい思いを覚えながらそっと後ろを振り向くと、同席者の赤い瞳とパッチリかち合う。退屈そうな目に見下ろされ、思わずサンダルを履く足が逃げ走りそうになった。
 寄らせて欲しいと頼んだ時にも綺麗な場所なのだと説明した時にも同じ目をしていた相手が、今土しかないうらぶれたこの場所を見てどう思っているのか。
 無駄足をと怒っているのか、それとも馬鹿な奴だと呆れているのか。多分、後者の方ではないかとプーチンは思う―――自分でも、そうだと思ったからだ。

 3年。

 正確には、それより更に数年来ていなかったが、確実に3年。
 この場所に、来ていなかった。

 それなりに楽しく過ごせていたはずの檻の中、止まっていた自分の時間は。過ぎてしまった、世界の時間は。


 記憶の光景をごっそり、消え去らせてしまうのに十分な時間だった。


 「…………あ、ははは……ごめんなさい。なんか、いつの間にか変わっちゃってた、みたいで……」

 一言も声を発しない相手に、何か言わなければ―――そう思って口を開いたものの、乾いた笑いしか出てこない。
 視線をさ迷わせ、プーチンは見知らぬ景色を前に必死に言い訳を重ねた。

 「前はね、綺麗だったんですよ……?花も、樹もあって、小鳥とかも一杯いて……青い空と一緒に見ると、ほんとう綺麗で……」

 ああでももう夕方ですよね空は青くないですよね、と暮れ時の刻限に取り繕う。朱の色を増す赤土は、何の慰めもしてくれない。
 足元の草一本生えていない土を眺め―――プーチンが、顔を上げた。

 「ごめんなさい、キレネンコさん……折角寄らせてもらったのに、何もなくて」
 「…………………」
 「先、行きましょうか」

 そう言っても嬉しそうな顔一つしない相手の目は、相変わらず無感動だ。

 ―――その目に、少しでも感激を与えられるような景色を見せたかった。
 灰色の監獄しか揃って見た事のなかった相手と、記憶に残る美しい風景を、共に見たかった。

 それは、もう。二度と叶わない。

 ぐっと気持ちを押し下げてくる思いを打ち払うべく、プーチンは至って明るい声をキレネンコへとかけた。

 「もう夕方だし、寄り道した分急いで運転しますね!」

 車内泊でも平気だが、出来れば街に着いて一泊したい。道から此処まで逸れた時間を逆算すれば、凡そかかる時間の見当はつく。
 停めている車に足を向けながら、どれくらいで次の街に着くか計算を始めた―――その頭部が、ガシッ!と脇から掴まれた。
 突如めりこんだ指に、数字も計算も吹き飛ぶ。
 思わず「むほぉっ!?」と叫んだプーチンに構わず、キレネンコは手首を捻った。
 ぐりんと体ごと反転させられ、視界が回る。突然の事態に目を白黒させていたプーチンは、向けられた先突き刺さるような眩しさに目を細め―――はたと見開いた。

 「あ―――」

 荒くれ、切り開かれた大地の、その向こう。
 ぽっかり空いた空間の中に、明々とした夕陽が浮いている。とても目立つというのに、記憶と異なる風景にばかりに気がとられていてその光に気付かなかった。


 鮮烈な黄昏の光を放つオレンジの恒星は、荒涼とした場所と相まってどこか物寂しく―――けれど、美しい。


 ゆっくりと落ちていく夕陽を目に、胸を締め付けるような切なさと感激を覚え、プーチンは束の間。今日この場所に来てから二度目の声をなくした。
 代わりに発されたのは、感激とは無縁の、感情のない平坦な声だった。

 「……覚えておけ」
 「え?」
 「……今度は、これを。覚えておけ」

 花も樹もない、土ばかりの場所を。そこに浮かぶ、鮮やかな夕陽を。
 一人で見たら寂しくて泣けてしまいそうな陽を、覚えておいて。
 どれだけ時間が過ぎても忘れることなく、思い出と共に記憶に深く刻み付けて。
 そして、また―――

 「また……連れて来て、くれますか……?」


 また、一緒に。二人揃って。涙を流すことなく眺められる、オレンジの光を、見に。


 「………………」

 プーチンの問いかけに返事することなく、キレネンコはぱっと手を離した。自由になった頭部を慌てて後ろへ向けると、赤髪の流れる背はさっさと車へと歩いている。今しがた覚えておくよう言った夕陽へ振り返ることない相手は、この景色を覚えたのか―――そんな疑問が浮かばないではなかったが、プーチンは何一つ尋ねずにその背を追う。寂しさとは無縁の、笑顔を浮かべて。
 思い出の地を離れる足に、躊躇いはない。


 今は立ち去っても、また来る―――記憶へと残したこの場所へ。


 いつの日か、もう一度。大切な人と、共に。


――――――――――



これ(短文10)の蛇足です。

夢から覚めた、夢。 …赤×緑(←看守)


 続いていた嗚咽が弱まって、それでも離れない金髪頭を廊下の外へ投げ捨てたのは、もうすっかり朝食の生魚の表面が乾いた頃だった。

 放り捨てた相手が派手な音を立てて転がっていくのを見送りもせず、キレネンコは扉を叩きつけるようにして閉める―――その頭には続いて脱走しようなどと考えは起きない。目の前にある監獄の扉は自由を阻む障壁ではなく、変態からぽけっとしている同室者保護するための防護壁だ。鍵がかかり、向こう側と此方側を繋がらせないのが正しい扉の在り方である。
 自ら逗留を選択した、ある意味模範的囚人行動をとった彼は座ったままの同室者を振り返った。
 抱きつかれた時に弾かれた姿勢で、ぽやんとプーチンは閉まった扉を見る。まるで厚い鉄板の向こうが見えているかのように一心に見続ける緑の瞳に、眉を寄せる。
 明らかにむっとしているキレネンコの空気が伝わったのか、漸く赤い瞳へと視点を合わせた彼は曖昧な笑みを浮かべた。

 「カンシュコフさん、なんだか大変だったみたいですねぇ……」

 自分の囚人服をべしゃべしゃにしていった―――それが涙なのか鼻水なのか気にしないところが、プーチンの美点だ―――相手を扉の向こうへ思い描きながら、呟くプーチンに。キレネンコは、口を一文字に引き結んだまま、ダンッ!と靴音を鳴らして近づいた。
 響く音にプーチンが身を竦ませるより早く、体が引っ張り起こされる。無理矢理立たした体をキレネンコはバシバシ払いながら―――まるで汚れを払い落とすように、カンシュコフの触れていた部位全てを拭うと、ぼふりっと小さな体躯を抱き締めた。
 自分の腕にすっぽりと収まってしまう相手の肩口に顔を埋める。が、鼻先を掠める部位にまだ違う男の臭いが染み付いているような気がして、不機嫌な顔が一層不機嫌になった。

 ―――抹殺、決定。

 とりあえず首をもぐのと内臓全部取り出すの、どちらがより苦痛を与えられるか算段する。出来るだけえげつない殺し方が良いだろう―――先程のようにわんわんと泣くような、殺り方が。
 いつになく空恐ろしい夢想を馳せ、同時に同じ事を行おうにも行えない、行為を許していた相手へ彼は怒りの問いかけをした。

 「…………何で、抱きつかせてた」

 無理矢理、襲ってきた相手に。自分の、目の前で。自分が離そうとするのを、止めてまで。
 頭まで撫でて抱き締め返してやるなんて。
 それを見せ付けるなんて一体、どんなプレイだ。
 思い出すだけで怒りで気も狂いそうなキレネンコの、低く声を抑えた糾弾に、腕の中でプーチンが申し訳なさそうに眉を下げた。

 「だって、カンシュコフさん、泣いていたから……」

 もごりと言われた言い訳に、何だその理由はと赤い瞳が睨む。

 ―――泣いていたら、誰でも抱きつかせるのか。

 尋ねたら「はい」に近い答えが返ってきそうだったのでそこはあえて追究しないまま、キレネンコは抱き締める腕を強める。先程まで抱きついていた男より、強くその身へ自身が染み渡るように。

 怒ってはいる。責めて追い詰めて、その身に触れる事を許して良いのが誰なのかを、とことんまで教えてやりたいと思う。
 けれど同時に、普段のおっとりした物腰からは考えられないような強い意志を目に宿して自分を制した相手が一歩も引かないのは解っている。そうでなければ、あの時―――自分も蹴り飛ばされてしまうかもしれないというのに、カンシュコフを庇ったりしないはずだ。
 力で捻じ伏せるのは簡単だし、「もう二度としない」と約束を取り付けるまで対決も辞さない気構えは、ある。
 ただ―――それをする事によって恐らく自身が得る利益は、ない。


 心に芯一本を通した、凛とした瞳を曲げることなど、出来はしない。
 

 男の癖にやたらと母性溢れた相手へ、結局。折れるのは、自分だ。
 怒りの矛先はあの憎たらしい看守に向けるしかない。ジレンマに歯噛みしつつも押し黙るキレネンコを、ぽふぽふと小さな手が撫でた。

 「大丈夫ですよ、キレネンコさん」
 「……………」

 一体何が大丈夫なのか。根拠なく断言する相手へ思うものの、金髪には降らなかった口づけを赤髪へ受けたキレネンコは、慈愛満ちた眼差しを前にして言えない文句の数々に肩を落とすしかなかった。

 ―――これが夢なら、良いのに。


*蛇足*
 もう二人とも別人だ……
 更に夢オチをひっくり返してそっち方向へ持って行こうとするのを軌道修正するので精一杯でした。



 ↓結局軌道修正出来なかった結果。(苦手な方は反転を解いて下さい)





 「大丈夫ですよ、キレネンコさん」
 「……………」

 一体何が大丈夫なのか。根拠なく断言する相手の―――ゴホリと漏れた咳を、赤髪に受けた彼は。
 歪めた瞳を見せないまま、唯、唯。腕の中儚く微笑む、やつれた体を抱き締めた。


 夢から醒めたその先が、夢ではないと―――誰が、言った?


 



――――――――――
2010.6.9
5月分日記再録。