Raindrop Tear. …(赤)×緑(BAD END)
小さく刳り貫かれた、鉄格子填る窓の向こう。広がる空は、晴れていた。
「今年は晴れたから良かったですね」
雲ひとつない天空の元、今宵星の河へ掛かる橋の上で恋人達は無事一年ぶりの逢瀬が出来ているはずだ。
たった一日だけ赦された再会。恋心へ現を抜かした代償に引き離された、気の遠くなるような距離を唯一駆け寄れる日も雨で水嵩を増されてしまっては叶わない。
ただの伝説ではあるが、それでも想い人へ逢えない切なさは大層なものであると思うから―――縮小された星空を見て、安堵する。長雨続きのこの季節、今日が晴れたのは奇跡と呼ぶのに相応しい。
小さかったり、大きかったり。眩かったり、霞んでいたり。暗い空へ光る数多の粒子に目を凝らす。
「沢山出てるから、毎年どの星か探すのが大変なんですけど……」
そんなに学は高くない。知っているのは天空の真北にある北極星と北斗七星、真冬のオリオン―――それと、夏の大三角形。
二点の角たる星は、厚い壁の向こう昇っているのだろうか。
分からず届かない窓へを覗き込もうとする背へ「この方角からは、見えない」と、低い声で教えてくれる。すっと指差された方向に窓はない。それでも見えない外には、瞬く星がきっとある。
赤髪の下の知識は豊富で、博識だ―――興味があること以外、滅多に口にはしないだけで。東西南北、どちらを向いているのかすら分からない自分とは全然違う。
そうやって、いつも、静かに。知りたかった答えを、与えてくれる。
「ここに来るまでは、毎年小さな笹を用意していたんですよ」
小ぶりの枝と、色とりどりの細い紙片。何を書こうか迷った末、結局沢山になってしまった短冊は自分でもちょっと可笑しかった。
手作りの輪飾りを飾り付け、夜風にさらさら鳴る葉の音に耳を澄まして。夕涼みを兼ねて顔を覗かせた窓の外、一面に広がる星は目を閉じれば今でも瞼の裏で輝く。
子供の時分からの習慣で、一人で暮らしてからもこの日が近くなるとつい天気を気にしてしまった。
晴れなら喜び。雨なら、沈み。予報を聞いてはそわそわしている自分を、当時交流のあった人達はよく笑っていたっけ―――自分でも子供っぽいという自覚があっただけに、少し気恥ずかしかったのを覚えている。
彼も呆れたかな、と一瞬過ぎった不安にちらり伺った横顔は、予想に反して笑っていなかった。
笑いも嘲りもせず、表情を浮かべない横顔―――静かな、宵闇と同じくらい赤い双眸は穏やかで。星がもたらすかすかな明るさの中、一際鮮やかなその色を優しく受け入れてくれているように見えるのは身勝手な思い込みなのかもしれない。
それでも突き放されないのを良い事に、傍らへ擦り寄る。
初夏の宵の口、触れた体は少し冷たい。
今日二つの星は働く事を止めて遠ざけられたというのに、働いていない自分達はこんなにも近い。不公平だと見下ろす星に怒られてしまうかもしれない―――それでも、冷えた肩を抱く腕からは抜け出せない。
「願い事、書かないんですか?」
面倒見の良い看守に頼んで用意してもらった、五色の短冊。流石に笹はないが、願い事は今年も無事星へ掲げられた―――星へより良く見えるよう、背の高い彼へ頼んで。鉄格子の間から入り込む宵の風にたなびく短冊は、灰色の檻に明るく彩る。
その中の、手渡した一枚。寄りかかった手が持つ紙に文字はない。
星に願う事など何もない―――望むもの全て、何にも頼らず自らの力で手に入れてきた彼らしいと思う。
でも、もし。
少しでも託すような想いがあるとしたら。
「ねぇ―――願い事は、なんですか?」
大好きな靴のことですか。
滅多に口に出来なくなった、ご馳走のことですか。
それとも―――この檻から出て、自由になることですか。
知りたがりな問いかけに、口が開く。
「―――」
発せられた、貴方の『願い』は。
季節は変わり、またこの日が来る。
今年の天気は、雨です。
空を覆う催涙雨。逢えない星達が流す涙で光は翳る。
長く遠い一年に焦がれ、待ち望んでいた再会の日。濁流築く河へ、橋は掛からない。
河岸で水面を揺らした恋人達は、悲嘆に暮れながらまた相見える日まで待ち続ける。遥か彼方の彼の人を憶い、日々の業に明け暮れ耐えて。
―――でもね。
「僕……意外と、欲張りだったみたいです」
幾つもの短冊を掲げて、幾つもの願いを祈っていたように。
長く遠い年月が巡るまで待つなんて、出来ない。
待てども待てどもやってこない星合の日、幾年も逢えない貴方を憶い続けるなんて、出来やしない。
「たった一日、逢えないことすら……僕は、耐えられないんです―――キレネンコさん」
頬を伝う雫は、川になる。
暗く冷たく、底も見えない涙河。
泳いで、流れて、溺れて。深い深い紅の水に沈んだ、その先の。
賽の河原にて待つ、貴方の元へ―――笑顔を浮かべて。
「いま―――会いに行きます」
捧ぐ願いは、一つだけ。
――――――――――
my star gazer. …赤×緑
※これ(雑文七夕)の蛇足です。
おほしさまが、くるくる、まわってる。
プーチンの昨夜の記憶は、そこで途切れていた。
再び目を開けた時、場所は外から室内へと移動していた。
高い天井、家の物とは比べ物にならないふかふかのベッド、そしてそこへ沈み込んだまま指一つ動かせそうもない自分の体。
状況を認識する頭はズキズキとした鈍痛が走る。ついでに、心持ち胃から口の方へとせり上がってくる、気持ち悪さ。爽やかな目覚めとは程遠い―――久しぶりの、二日酔いだ。
「う゛ぅ~……きもち、わる……」
うぷ、と押さえた口元は一応まだ我慢できる範囲なのでそれだけが幸いだ。まさか、人様のベッドを汚す訳にはいかない。ついでに食べたご馳走も高級酒も惜しくって戻したくない。至って庶民なプーチンは、吐いて楽になるよりきちんと消化することを選択した。
枕に顔を埋めながら、さてここへ運ばれるまで一体何があったろうか、と。彼は思い出せる限りの記憶を掘り起こす。
昨夜は七夕で、天気は良く晴れていて、ちょっぴり面倒そうな顔をしているキレネンコさんを引っ張ってキルネンコさんのお屋敷まで来て、大きな笹を立ててもらって、メイドさんたちと一緒に短冊を書いて、背の高いキレネンコさんにそれらを吊るしてもらって、沢山の星を見て、皆で笑って。
それからすごく良い匂いのするお酒をお兄さん達から振舞われて、怒った顔したキレネンコさんが取り上げようとしたグラスをキルネンコさんがそのまま回してくれて、喜んで一口飲んで、それから、それから―――
うーんと唸って、考えた結果。
結局それ以上思い出せなかった。頭を使ったせいか酷くなった頭痛に、とりあえずはっきり言えるのは自分はやはり下戸なのだという事。仮に勤めをしていればまた刑務所送りになるところだ。
「むほー……あんなに美味しいのに、何でこうなるのかなぁ……?」
飲んだ瞬間は気分が高揚して、とても元気になるのに。次の日は体調不良に陥ってしまうのだから実に不思議だ。
アルコールは飲み続ける事で強くなると聞くから、これからは毎晩晩酌でもして慣らしていこうか―――明らかに反省する方向が間違っているプーチンの、その思考を断ち切るかのようにがちゃりドアが開いた。
「あ。キレネンコさ、ん……」
顔を上げて部屋へと入ってきた人物を確認したプーチンは、声を窄めた。二日酔いの気持ち悪さとは別に、胃がきゅうっと収縮した気がする。
遠目からでも分かる鮮やかな赤眼は半眼で、浮かべられた表情は険しい。最後の方残った記憶と寸分違わぬ、怒った顔。
整っているのに―――整っているから余計、か―――威圧のある相手に、流石のプーチンも暢気に「おはようございます」と目覚めの挨拶はかませない。やったら最後、永久に目が覚めなくなる。
もう少し、目が覚めるタイミングが遅ければ良かった―――かといって今更、狸寝入りも出来ない。肌触り良いシーツに包まれながら冷や汗を伝わせるプーチンに、無言でキレネンコが近づいた。ずんずんと歩くその足音が、大変穏やかでない彼の心境を物語っている。
ぴたり枕元まで来て止まった足に、慌てて身を起こそうとするプーチンを、けれど伸びた手が押し戻した。
突き飛ばすでも押さえこむでもなく、そっと。衝撃を受けると拙い体を労わるかのように、柔らかくベッドへと沈める。
枕の上乗った、若干青い顔色を一瞥したキレネンコは押した手と反対の手に持っていたボトルを見せた。タプリ満ちた透明な液体。自分へと差し出されるそれに緑の瞳が瞬き、
「僕、お酒はもう飲めそうにないんですけど―――ぁたっ!」
ゴツッ。
と、前髪を括って無防備になっている額へ瓶底が落ちる。落下速度を加減してくれたものの、痛いものは痛い。またしてもくるくる回る星を見たプーチンに、冷ややかな声が降った―――「水だ」と。
どうやら迎え酒ではなかったらしい。最も、これ以上飲めば急性アルコール中毒を引き起こしかねない。一応その程度には自覚あるプーチンは、大人しく礼を言って水を受け取った。
丁寧に蓋まで外してくれているボトルから、こくり一口飲む。アルコール焼けして乾いた喉を潤す水は冷たく、とても心地よい。ぼんやりした意識と気持ち悪さが、少し回復した気すらする。
零さないようゆっくりと水を飲み下している顔の上に、小さな嘆息が降った。
反射的に見上げた先、未だに険しい顔したキレネンコと目が合う。赤い瞳も相変わらず、機嫌悪く半分閉じている。が、そこに更に些かの呆れが混ざっているのが付き合いの長いプーチンには分かった。
突き刺さるその視線に、何と言って返したら良いのだろう―――沈黙を誤魔化すよう水を口にするプーチンへ。重い口を先に開いたのは、無口な相手の方だった。
「……酒は飲むなと言ったはずだ」
「うっ……で、でも、勧められたのを断るのは、悪いかなぁって……」
「あんなのは放っておけ」
あんなの―――同じ顔した肉親をはっきりそう唾棄したキレネンコの眉間に皺が更に寄る。心底憎憎しげに歪む表情へ、色々言いたい事はあったものの、とりあえず。
「……ごめんなさい」
大変素直に頭を下げると、振り撒かれていた威圧が少しだけ緩んだ。同時に、気張っていたプーチンの体もホッと緩む。落ちる雷―――実際は落雷よりももっと激しい拳骨が降るのではないかと思い、自然緊張してしまった。
安堵した事によって再び落ち着きを取り戻したプーチンは、ふと首を捻った。
―――そういえば結局、七夕はあの後どうなったのだろう。
準備、実行、片付けと計画していた内容のうち、覚えているのは心底楽しんだ準備と実行まで。そこから一旦記憶が飛び、現在主催者の自分はベッドで休んでいる。
では最後に残った、楽しさが全て消えてある意味一番煩わしく感じる事後処理は。本来プーチンが行うはずだった締めの仕事は、どうなったのか。
今頃漸く思い至った責任問題に、彼は唯一ここで状況を教えてくれる枕元のキレネンコへ答えを求めた。
「あのー……後片付けって、どうなりましたか……?」
恐る恐るの問いかけに。無視されたかと思うほどの長い間の後、返事があった。曰く、
「…………済んだ」
ただ一言。叱責も苦言も含んでいない、無表情で告げられる報告に、プーチンは思わず跳ね起きてベッドの上で平身低頭頭を垂れようとし―――二日酔いでまともに動けない体を縮めて「すみません……」と消え入りそうな声を発するのが精一杯だった。
きちんと謝りたかったが、大声を出すと頭に響く。残ったアルコールのせいばかりではなく、目の前がクラクラした。それは相手も怒って当然だろう、と。
最も、キレネンコの行った後片付けがそんなに手がかかったかといえばそうでもない。
立てていた巨大な笹を引き抜き、素手でバキバキに折ってから紙くずと化した短冊一式と共に着火。まとめて焼却処分。
ちなみに、筒状の幹内に空気を含んだ笹は火にくべると派手に弾ける。パンパンッ!と爆竹さながらに響く炸裂音と、火の粉撒き散らす業火に慌てる面子を見て少しだけ溜飲を下げた。
一人だけ、炙る炎も全く気にせずグラスを傾けていた奴はいたが―――「生木は燃えが悪い」とつまらなそうに炎と同色の目を向けた相手に、だったら屋敷に放火してやろうか、と思ったが一室に酔い潰れたプーチンを寝させていたため諦めた。
火をつけるのはプーチンを家へ置いてきて、且つここの部屋へ住んでいる当人がいるのを見計らってからにしよう。そう、心に決めて。
―――しかし何はともあれ、日付も代わって一応七夕という名の馬鹿騒ぎも終わった。天空の星が引くのと合わせて人の波も去り、今は辺り一体が静寂に包まれている。祭りの後の静けさとでもいうのだろうか。騒々しいのが嫌いなキレネンコにとっては白けた空気であるこちらの方が性に合う。
漸くつける一息を文字通り口から吐く。静かな部屋に響いたその音に、ピクリベッドの上の体が強張った。
「……ごめんな、さい」
先程の謝罪よりももっと小さな、掠れた声。ゆるりキレネンコが無表情の顔を向けた先、揺れる緑の瞳があった。
目を合わせたプーチンは、大きなベッドの上小さな体をさらに小さく丸める。顔までシーツを引き上げると、見下ろす双眸から隠れるよう中へ潜り込んだ。
……本当はそもそも、キレネンコがこの企画自体乗り気でないのは知っていた。女性と子供くらいしか喜ばない七夕に興味がないのも、大勢で騒ぐのが好きでないのも、知っていた。
それでも、年に一度の星合いの日を共に祝いたくて。沢山の人が幸せを感じている中で、一緒に―――天空で巡り合う二つの星座のように、出会えた喜びを噛み締めながら、並んで輝く星を見上げたかった。
その結果が、これだ。振り回して怒らせて心配をかけて、挙句仕事を押し付けた。
心底申し訳ないと思うと同時に、愛想をつかされて見捨てられるのではないかと―――恐くなる。そうなっても仕方ないと分かっているが、いつも傍らで見下ろす赤い瞳が消えることが、川を隔てるまでもなく触れる温もりが遠く手の届かない場所に去ってしまうことが。
どうしようもなく、恐い。
本気でキレネンコに嫌われたらきっと、どれだけ短冊に願い事を書いて空へ掲げたとしても幸せはやってこない。
どれだけ皆と楽しく笑いあっても、隣に大切な彼がいなければ。星は、催涙雨で霞んでしまう。
こんなことなら無理に賑やかな七夕を企てたりしなければ良かったと―――そう考えてしまうこと自体、無責任なのかもしれないけれど―――昨夜までの浮ついた気持ちも消えて、後悔ばかり募る。
一瞬良くなったと思った吐き気がぶり返す。ガンガンする頭痛が辛く、目元がじんわり熱を持つ。それすら、身から出た錆。本当に、どうしようもない―――
重い心を抱き石に真っ暗な深い川底へ沈むような、暗鬱な思考。溺れて浮上することができなくなったプーチンの、覆うシーツがぺらり剥がれた。
突如布の向こうから覗いた赤い瞳に、慌てて顔を隠そうと手を動かす。が、持ち上げた腕はあっさりと広い手に捕らえられ脇に押さえられた。掴む手に力はまるで入れられていないものの、それを振りほどくだけの元気は今のプーチンにない。
眼光鋭い目に浮かんでいるだろう軽蔑の色を想像し、堪らずギュッと瞼を瞑る。部屋へ彼が入ってきた、怒っている顔を見た時以上の恐れで体が震えた。
込み上げる吐き気と、嗚咽が漏れないよう息を噛み殺し。完璧止めを刺すだろう宣告を、身を硬くして待つプーチンへ―――降ってきたのは羽根のように軽い掌の感触と、本日何度目かになる言葉のない小さな呼気だった。
頬へと当たったそれらにそろり目を開くと、間近に赤色があった。思っていた以上に近い距離で見てしまった目に心臓が跳ねる。近すぎてその目にあるのが予期していた軽蔑なのか呆れなのか、それとももっと別のものなのか分からない。
ピシリ固まったプーチンは、それでも小さく開いたキレネンコの唇を見て全神経を耳へと向けた。
「…………来年は、」
来年は―――こんな七夕なんか、付き合わない?それとも、来年は、もう一緒に居ない?
途切れた言葉に浮かぶ、続き。どちらも聞きたくない。
頬へ触れる手が無くなるのも、すぐそばにある赤い瞳が見えなくなるのも嫌だ。
来年は―――来年は、そう。もう、無理を言ったりしないから。迷惑をかけたりせず、静かに家に閉じこもって一夜が過ぎるのを待つから。
だから、一番大事な願いだけは。叶えたままで―――
「ら、来年は―――!」
「……来年は、もう飲むな」
「…………え?」
パチリ。驚きに瞬いた目から一粒、雫が落ちる。零れたそれにも気付かず呆然としているプーチンに、代わりに頬へあった指が拭った。
言われた意味が分からない―――濡れたまままじまじと凝視する緑の瞳に、今度はキレネンコが目を逸らす番だった。
眉間に皺寄せた彼自身、自分で言った言葉の意味が分からない。額面通りとればそれは来年も、今回と同じような馬鹿騒ぎを許可するものなのだから。
五月蝿いのは、嫌いだ。人と顔を合わすのも煩わしいし、図に乗る女どもは殴れない分余計腹が立つ。何よりこの場所自体が魔窟だ。主人を筆頭に召使までロクでもない奴ばかり揃っている。
それでも何故か、騒ぐのが好きなプーチンはそんな煩い連中とどうも気が合うようで。認めたくはないものの、微笑みかけられても笑い顔一つ、相槌一つ返せない自分より話が弾んでいるのも、事実である。
昨夜決めた『二人だけで祝う』というのは自分にとっては十分でも、はしゃぐ同居人が物足りなく感じるのでは意味はない―――第一、キレネンコは七夕自体がどうでも良いと思っているのだから。
だから、夜空瞬く星のように瞳輝かせる相手が望むように。
付き合えというなら重い腰も上げるし、短冊を吊るせというなら下らないと思っても結んでやる。そして傍に居る事を望むのなら、夜が明けて星が消えた後でも。隣に、居る。
川が隔てて会えないと嘆く星は情けないものだ―――そんなもの、流れを割って渡ってしまえば良い。仮に今触れている手の間、阻む濁流が出現したら何ら躊躇い無くこの両足は突き進む。1年も待つなど馬鹿馬鹿しい。
願いはいつだって、自分で叶える。自分の願いも、相手の願いも。
……そのために多大な忍耐を要しているのだから、溜息くらいは吐くが。
目を丸くしたまま固まっているプーチンに、もう一つ諦念の息を落として。キレネンコは、口を開く。
沈みかけた星を掬い上げ、再び光もたらす一言を。
来年も再来年も。お前の、気の済むままに。
――――――――――
海の呼ぶこえ。 …赤×緑
―――夏だ。
熱い、暑い、夏だ。
四方八方、全部塞がっている房の中はとても暑くて、大変蒸して、もうもうと体の表面から湯気が昇ったりして、そして、あんまりにも暑いから、僕は大好きなコサックを踊るの止めて、指一本動かす気力なく、汗でぐっしょり、ベッドに寝ていたのがいつの間にか落っこちて結果、今、お世辞にもきれいとは言えない床の上、ごろんごろん転がっている。
ぺたんとほっぺたつけた埃と泥の乗ったコンクリート、ここってひんやりして割合快適で、まぁこういうのも臨機応変というか、必要に差し迫られた末仕方なく選んだ選択なんです、とか適当に言い訳仕立ててみて、扉の向こう、ひょっこり覗く目二つ見えたとしても叱られないよう、しっかり防衛線張って、手も足も投げ出した大の字の格好、すりすりすり、色も冷ややか、冷たい場所に擦り寄ってみる。ああ涼しい。
実は僕はこういう色、あんまり好きじゃないんだけど、冬の、曇った空のような、寂れた廃墟のような、淀んで、寂しい、この色は好きじゃあないんだけど、でも、ここ最近とても暑く、踊るのも、動くのも、寝るのも、とおおっても難しい、そんな暑い時期は、ほんのちょびっと、冷たく、ひんやり、涼しい、あとついでに固い、マシュマロと正反対、沈んだこの色好きになる。
でも、別に、この色じゃなきゃダメというわけじゃなくて、だって僕は本当は明るい色大好きで、ほっぺをくっつけた面、一体鮮やかで、カラフルな、なにかしらの塗料で染まってたら、今よりもっと、大喜び、床の上一杯、ゴロゴロする。太陽に向かってぐんぐん伸びる、元気な、にっこりひまわりの黄色、とか、子供の時こっそり、畑にもぐってかじった、キュウリの緑、とか、それから真っ白い入道雲もくもく浮かぶ、どこまでも、どこまでも、続いている空、の青色、いやいやそれを言うなら、真っ白な波打ちつける、押しては引いて、寄せては砕ける、遠く、果てなく、見えない向こうの方、まだまだちゃぷちゃぷいっている、真っ青らしい、海、のような、かな。
らしい、というのは僕、実はまだ海を見たことがなくて、正確には絵本に描かれた海や古ぼけた写真の海、見たことあるけど、そうでなく、冷たく、ざぶんざぶん音立てる、美味しそうな、色とりどりのお魚泳ぐ正真正銘、真実の海見たことなくて、だから海、どんな色しているのか本当は、全然、ちっとも、知らない。
青いってどれくらい青いの、空より青いと聞くけどどう青いの、濃いネイビー、薄いペールブルー、はたまたエメラルドの碧色、で、水なのにどうして青いの、塩が入っているから青いの、けどコップに塩水作っても青くない、やっぱり海は海と呼ぶから青いの、とかとかなんとか、僕も色々思うんだけど、これってどうなんでしょう。
「ねぇ、キレネンコさん」
だんだん温くなる寝場所、一転二転、ずりずり冷たいところへ移動した、さりげなく床そうじ頑張る僕、気が付いたらごちん、鉄柱へぶつかる、いたたた、頭押えながら一段高いベッドの上、座るキレネンコさん、きれいな、きれいな、赤い目見る。
ああそうだ。
僕はこの赤色も大好き、春に実るイチゴ、秋に咲く鬼灯、冬に灯る暖炉、と、熱い夏そのもの、情熱的な色、冷たい海の青とはま逆、僕の、大大大好きな色。
僕の大好き、キレネンコさん、暑い中、びっくりするくらいいつもどおり、汗の粒一つかかず、平然と、至って無表情、きゅっきゅきゅっきゅっ、靴磨き、なんで暑くないの、心頭滅却すればなんとやら、とか言うから、かな、キレネンコさんやっぱりすごい、尊敬の念抱いて、きれいで、涼しげな、熱心に靴見つめているのに紅潮しない横顔、僕はじっと見上る。ああうらやましい。
いっそのこと彼へすりすりしたら涼しい、かも、いよいよほっぺたと同じ温度、青くも赤くもない、汗に湿った生温い床、でも、恥ずかしい、から、流石にそれは実行しない、上がった体温下げるよう、強く、強く、冷たい海思い描く。
海、海、青くて、冷たくて、しょっぱい、全部その後にらしい、がつく、海。ああ。
「キレネンコさん、はぁー、海、行ったことありますかぁー?」
暑さでぐったり、からだ同様、でろんと伸びた僕の声、靴から少し上がった赤い目、キレネンコさん、軽く首を傾げてうんともすんとも言わない、けど、多分、きっと、その目は空より青い、大きな海見たことあるはず、だって彼は物知りだ、僕は勝手に推理する。
良いなぁ海、行きたいなぁ海、キレネンコさんうらやましいなぁ、僕も海行きたいなぁ、でも一人で行くのはつまらない、ここはやっぱり彼と行きたい、ところでキレネンコさん泳げるのかな、僕は浮き輪がないと泳げない、けどそれってちょっと格好悪い、だからこっそり、一人バタ足練習、バタバタバタ、コンクリートの上って結構痛い。
「うみー……行きたいなぁ……」
バタバタバタがバタン、ますます暑い、水の張っていない床の上、やっぱり泳げない僕はでも、とっても、海に行きたくて、行きたくて、行きたいから、大好きなキレネンコさん、の、赤い目、じぃっ、と、じぃーっ、と見てみる、のに、靴に目、戻した彼は涼しい顔で見ないフリ、ちょっと冷たい、キレネンコさん。ああ。
僕は海に行きたい、まだ見たことのない青い海、赤い、大好きなキレネンコさん、と、僕は海行きたいの。
砂浜は足の裏、やけどしてしまいそう、でも、僕のサンダルならへっちゃら、海まで一直線、波の中ざぶん飛び込んで、うわぁ冷たい、でも、振り返ったら足跡一人分、腕組みしているキレネンコさん、早く早くこっちですと手招き、その向こう、スニーカー濡れるから動かない、冷たい、キレネンコさん。
ならキレネンコさんもサンダル履いたら良いです、サンダルは濡れても平気、砂も入ってこない、岩場で滑って転ぶこともないです、ナイスアイデアの僕、おそろいのビーチサンダル、水着もおそろい、キレネンコさん、一緒に泳いで、潜って、水かけっこ、ちょっと疲れたからパラソルへ避難、暑いですね、でも楽しいですね、海見てキンキンに冷えたクバス一気飲み、こんがりとうもろこし食べて、イカ焼き食べて、あとフランクフルト、フライドポテト、串焼き、ラムネ、カキ氷、バクダンキャンディー、アイス―――ああ。
「……アイス……食べたい……なー……」
最近のおやつはチョコレートひとかけ、美味しい、けど、暑さで溶けたチョコ、それはもはやチョコフォンデュ、お皿をべろり、舐めるチョコに罪はない、ないんだけども、やっぱり、こんなに暑いと冷たいアイスが恋しい、アイスもチョコと一緒、溶けちゃう、でも、冷たあいアイスの勝ち。
アイス、アイス、アイスを愛す、青い海と冷たいアイス、切望する、熱中症寸前、ダイイングメッセージ残す僕、赤い目、靴から放して起き上がる、僕のあいす、キレネンコさん、叩く扉、どんどんどん、ってあれあれあれってもしかして、ひょっとして、そうなのかしら。
ほっぺたぺったり、埃べったり、顔上げふふふ、笑う、大丈夫、海も一緒、でもでもアイスお願いしたら看守さん困ってしまう、から、僕はスイカ、キレネンコさん、ね、赤い、よく熟れたスイカ、で、僕良いですよ。
ああそうだ。
海といえばスイカ割り、目隠し、クルクル回る、もっと右ですいやもうちょうっと左、一発で割ったらダメなの、僕が割りたい、から、ちょっとずれた方教えちゃお。
青い海、パカリ割れた、きれいな、真っ赤な、スイカ、キレネンコさん、ね、僕と一緒に食べましょ。ああ。
「ねぇ、キレネンコさん」
海が、僕らを呼んでいる。
――――――――――
※↑(海の呼ぶこえ)の続き?
足あと、ふたつ。 …赤×緑
……暑い。
凶悪なほどの日差しが肌を直に焼く。
太陽は実に平等だ。光合成する木々にも熱されるだけの車にも、焼け付くボンネットに寄りかかるキレネンコにも。等しく、焼け付く光線浴びせかける。
発ガン作用たっぷりの紫外線は、濃縮された放射能すら効果ない体にはさしたる影響及ぼさない。及ぼさないのだが、いかんせん、暑い。非常に、暑い。
無表情の横顔に流れる汗はないが、それは単に発汗しにくい体質なだけであり、暑さはきちんと体感している。極東の震える寒さが嫌いなキレネンコは、暑いのも同じくらい大嫌いである。
しかし、卵を落とせば目玉焼きが出来そうな鉄板につけた背を彼は離さない。目の前に日差し受けてもなお冷たい、大量の水があるにも拘わらず、だ。
水―――正確には塩水。もっと適切に示すなら、海水。
砂浜を少し進んだ先、寄せたり引いたりして境界線を変える海水の集合体。
つまり、目の前は海だった。
「キレネンコさーん!キレネンコさんも海、入りましょーよー!」
「…………」
「えぇー?なんでー?冷たくて気持ち良いですよぉー」
バシャバシャと聴覚からも涼しさ伝わる、水と蹴戯れる音立てながら呼ぶプーチンにキレネンコは無言で首を振った。
イヤだ。行かない。ここにいる。
小さく首を二回揺らすだけで示された、強い拒否。潮風に乗ってブーイングに類似した声が届くが、それでも彼は動かない。
何故か。理由は簡単だ。砂浜立つ彼の足元がスニーカーだからである。
サンダル仕様のプーチンとは異なり、彼のスニーカーは海に近づいたら濡れてしまう。
スニーカーは大変デリケートに出来ている。磨きこんだ布地に塩水がかかってたりしては目も当てられない。波打ち際に近寄るのだって危険だ。
なのでキレネンコは清涼を得ることよりスニーカーを守ることを優先した。当然の判断だ。
そもそも、海に寄る事事態キレネンコは反対だった。
別に海などどうでも良い。青い水平線も光る水飛沫も、彼の胸に何ら興味呼び起こさない。それよりも海岸線をさっさと通過し、真に心の琴線掻き鳴らす新作スニーカーを手に入れてしまいたかった。
最早それは使命だ。どんな犠牲を払ってでも果たす、最優先事項。寄り道など言語道断、誰が何と言おうと断じて認めない。
その曲がることのない意思と進路をがくんと折って停車しただけでも、十分譲歩している。履いているスニーカーだけは、絶対に死守せねばならない。
砦築くよう胸の前で腕組みしたキレネンコは頑として動かないまま、「冷たくて気持ち良い」らしい海と、初めて来た海に歓喜して履物どころか裾まで濡らしてはしゃいでるプーチンを見た。無理矢理進路を止めただけあって大した喜びようである。
とりあえず広大な海原より塩水に濡れて透け見える肌へ赤い瞳定めた彼は、思った。いつ、アレは海に飽きてくれるだろうか、と。
水着も着替えもないにも係わらず海へ一直線、突入したプーチンは砂浜から赤い瞳が送る冷めた視線に微塵も気づいていない。今彼の目に見えているのは青い海、ただそれだけなのだろう。
わぁとかきゃぁとかむほぉとか意味不明の声上げて海に浸かるプーチンにも日光は燦々と降り注ぎ、獄中生活で白さ増した肌をひっそりと、着実に焦がしている。
明日は日焼けで泣くこと確定だ。だが、それも仕方あるまい―――海に寄りたいなどとごねた、ヤツが悪い。
恐らく自分が期待している以上に長く足止めを食らいそうな予感に、キレネンコははぁと溜息をついた。はぁ、全く。
と、首を折った時。彼は、足元伏せる生き物と目が合った。
「…………」
……楽しくなさそうだな。レニングラードは言う。
……楽しいはずなかろう。キレネンコは応える。
ぎょろりとした両生類の目が伝える声なき声に、キレネンコも赤い瞳持って無言で返す。淡水生物である彼もまた、海反対派の一人だった。
賛成一、反対二、棄権一で車内メンバーの多数決では海をスルーする意見が圧倒的に強かったのに、それでも停車を最終許可したキレネンコの謀反ともいえる判断を同朋である彼は特に責めない。
「…………」
別に、どっちでも良いし。そう言いたげに、モシャモシャ口を動かす。
レニングラードにとって自身の意見は声高に主張するほどの重要性がない。彼にとって食事をするのに場所など関係はない。そして食べている間は、彼はどこにいても幸せなのである。
よってコマネチを咀嚼している彼は潮風と太陽で粘液に覆われた体が侵食されるこの場所においても、大変幸福そうだった。
足元のレニングラードに、羨ましいことだ、とキレネンコは思った。
物静かでマイペースを地でいく姿勢といい動くものなら何でも食す豪放なところといい、割と性格が合致するカエルが現状を満喫している事を、キレネンコは実に羨ましいと思う。ついでにどうでもいいがその口元から時折覗く黄色い物体も恐悦至極な様子であり、羨ましいを通り越して不快になる。
キレネンコも彼らに倣い海の家でも襲撃して食料をかっぱらえられれば束の間暑さと鬱々する気分を忘れられたかもしれなかったのだが、残念ながら寂れた海岸にそれらしい屋台は見当たらない。益々、海などどうでも良い。
愛読書であるスニーカー雑誌も防水仕様でないため取り出せない。いよいよやる事がなくなったキレネンコは腕を組んだまま、とりあえず水と戯れるプーチンを注視した。
肌へ張り付く服というのは露出が基本の水着とはまた一味違った趣がある。これはこれで中々良いものだ、とキレネンコは思う。本人は自分の格好に全く頓着していないようだが、人目がないので好きにさせておく。
とことん好きにさせて、満足させて。それから、引っ張っていくしかない。
はぁ。再び口から漏れた溜息は、今度ははっきり諦めの形を成していた。
そんな彼の忍耐を試すかのように太陽は熱を放つ。ジリジリ、ジリジリ、皮膚が焼ける音すら聞こえる。暑い。我慢の延長にある導火線が着火されそうなくらいだ。
一体どれくらい経ったろうか―――いい加減砂浜に不穏な空気が漂い始めた頃。見計らったかのように、バシャッと水音が届いた。
潮風に乗って届く「キレネンコさーん!」との呼び声にやれやれ、とキレネンコは思った。やっと気が済んだのか、と。
が、すぐにそれが勘違いであった事を、彼は知らされた。
一つだけ砂浜についた足あと辿るよう、車の方へ元ってきたプーチンは。
「やっぱり、キレネンコさんも海、入りましょう?」
「…………」
気が済むどころか食い下がった。
頭から足元までびしょ濡れになって迫るプーチン。水弾く肌も眩しい彼から、キレネンコは一歩、後ずさった。
乾いた砂の上に浮かびあがる水玉模様。いたるところからポタポタ雫滴らせる相手は今、キレネンコにとって迷惑以外の何者でもない。
すっかり干されてからでないと接近は拒否する。同時に、海に入るのも断固拒否だ。
足元のスニーカーを守りつつやはり首振る強情なキレネンコに、笑顔と塩水振りまくプーチンもまた引かなかった。
「だって折角海に来たんですよ?泳ぐのは無理でも水遊びくらいしていきましょうよ!」
断る。
「冷たくて気持ち良いですよー!ずっと立ってたら熱射病になっちゃいますよ」
そんなものかからない。
「それにね、近くで見るともっと綺麗なんです!僕、初めて見たけど海って本当に青いんですね!!」
青かろうが赤かろうがドドメ色だろうがどうでも良い。
「屋台とかあったらもっと良かったですけど。暑いし、海見てたらソフトクリームとかカキ氷とか食べたくなりません?」
最早海は関係していない。だが、そんなに言うなら後で代わりに食ってやる。
お前を、と適度に塩味がしそうな相手の言葉全てにキレネンコは首を振る。
冷たかろうが気持ちよかろうが色が青かろうが服透かせた白い身体で誘惑してこようが、駄目なものは駄目だ。
スニーカーは絶対に、濡らさない。
「靴は脱いじゃえば良いですよ」
漸くキレネンコの動かない理由が足元にあるのだと気づいたプーチンは説得の方向性を変えた。だが、そういう問題ではない。
濡れるのは論外だが、肌の一部と化しているスニーカーから足を引き抜く事自体、キレネンコにとって耐え難い行為なのである。
海に浸かるときプーチンが服も下着も脱がなかったように、キレネンコもまた、靴を履いたままでいたいのだ。そして濡らすことが許されない以上もう海に入るという選択肢はない。
フルフル、キレネンコはここに来て一番強く首振る。彼は思った。
何故分からない。
人の都合を無視し、その上で嫌がることまで強要することがどれだけ相手に不快感をもたらすか。
コイツは何故、分からない。
だんだん上昇する苛立ちのボルテージに比例するよう、赤い瞳覆う瞼は下がっていく。
キレネンコは待った。耐えた。
ギラつく太陽も鬱陶しい暑さも危険に晒される大切なスニーカーも全部、寛容した。
それでも足りないと訴える、聞き分けのない、キレネンコよりも海にすっかり魅せられてしまったプーチン。
―――潮騒に紛れ、ぷちん。どこかで、音がした。
「…………」
……もう、いい。
キレネンコは決心した。強く強く、決心した。
もういい。そんなに居たいなら、居ればいい。
いつまでも、気の済むまで、とことんずっと。一人、海で遊んでいろ。
腹を決めてしまえば彼の行動は早い。
黙ってボンネットへ預けていた身を起こす。くるり海側へと向けた、焦げ付く直前だった背は海水と同じ、甘さの欠片もない。
仏の顔は三度まで、というがキレネンコは仏でもなければ神でもない。折れてやるのは一回きり、車の中で「海に寄りたい」とごねた後付け加えられた言葉に折れた、あの一回きりだ。
置いてくついでに他の同乗者も残していく。せめてもの餞別だ。荷物が減って丁度良い。
チラ、と足元から視線が飛んだ気がしたが、キレネンコは無視をする。
どっちでも良いけど。自身の身の振り方など興味のないレニングラードの、ゴクン喉が嚥下する音はそう答えているようだった。仮にそう答えてなかったとしても、キレネンコにとって関係はない。暑さと憤りとで沸き立っている彼の頭を占めるのはこれから一人目指す先に在るスニーカーのことだけだ。
運転席のドア部へキレネンコが手をかけた時、「あっ」と慌てた声が後ろから届いた。だが、今更だ。反省しても、もう遅い。冷たい塩水を被って、存分に頭を冷やせ。
「ま、待って下さいよキレネンコさん!」
「…………」
「ねぇ、待って下さいってー!」
無人の浜へ高い声響くと同時に、はしっと。取っ手掴む腕が、引かれた。
太陽に炙られて熱持った肌に貼り付くような、冷たい手の感触。
白波掻き混ぜ、掬っては投げしていた手は指先まで冷えている。海が冷たくて気持ち良いと叫んでいた意味が、少しだけ理解できた。
「キレネンコさん」
熱癒す温度に一瞬動き止めてしまったキレネンコを、プーチンが覗き見た。海よりも奥深い色した緑の瞳。赤い瞳を真っ直ぐ捉えた目には、海ではしゃいでいたときの興奮も置いていかれる狼狽もない。見つめられたキレネンコが思わずハッとするほど真剣な眼差しがそこにあった。
冷たい手に加え、その目を見るとどうしてか振り払うことが出来ない。砂浜へ縫いとめられたキレネンコは、押し寄せる音を聞いた。
浜へ押し寄せる波と、自身の胸に押し寄せ響く、声とを。彼は、聞いた。
「僕―――キレネンコさんと一緒が、良いんです」
それは―――それは、一度聞いた。
ここへ降りる前、車の中で一度。聞いたのと、同じ台詞。
「だから、だから、ね」、と続く、その言葉の後は。
「だから―――海、一緒に入りましょう!」
「…………」
ねっ、良いでしょう―――言い募るプーチンの高い声が。どこか遠い、とキレネンコは思った。遠い。潮が引いていくように、遠い。
何故か。理由は明快だ。彼の意識が一瞬、鮮明さを欠いたからである。
真っ赤な太陽も白い砂浜も青い海も目の前でそれ自体が発光しているのではないかと思うほど明るい、にっこりと微笑み浮かべる緑の瞳も。一瞬全て、色が消えた。
ぐらり。筋肉発達した足で立つ体が傾いだ気すらする。ひょっとしてこれが熱中症というやつだろうか。容赦ない日差しはいつの間にか肌を越え肉を潜り揺らがないことにかけて自負している精神すら蝕んだのか。キレネンコは、思う。
かろうじて砂浜に踏みとどまったキレネンコの腕を、「ほら、行きましょう!」とプーチンは引っ張った。ぐいぐい手を引く彼が示す進路は当然、冷たく青い、海の方角。
塩分濃い、スニーカーを劣化させてしまう場所。興味ないどころか憎しみまで抱いていた、青い色。プーチンがどうしてもとせがむ、その場所にキレネンコは。
キレネンコは。
「…………」
ドアから離れた手を目撃した目が、ぎょろりと赤い瞳を見た。
……行くのか。レニングラードは問う。
行くしかなかろう。キレネンコは返す。
行くしかないだろう―――あんな風に、言われてしまっては。
「…………」
じゃあ、行ってらっしゃい。
げぷ、と満腹の息を漏らすレニングラードに今度は返事をせず、キレネンコは僅かに身をかがめた。
履きなれたスニーカーを脱ぐ瞬間彼が得たのは、開放感ではなく納まりの悪さ。優しく抱擁する布があってこそ、彼は心の安寧を得る。居心地悪いような、もっというと自分の身を切り捨てるような。そんな悲痛な感覚に全身へ抵抗が走るが、それを無理矢理ねじ伏せ踵を引き抜く。
土踏まず、拇指、五本に割れた爪先まで。全て白日に晒された素足が、砂の上に降りた。
……熱い。
キレネンコ達が来るより前から太陽に焼かれていた砂は、先程までもたれていた車以上に熱い。ジュッ、と肉を焼くような、そんな音が聞こえてもおかしくはない。
普通なら飛び上がって走り出しそうな場所に左右の足を乗せた彼は、遠くへ―――潮の被害にあわないよう、なるべく海から遠くへとスニーカーを置く。
きちんと踵を揃えられた一足のスニーカー。まるで、脱皮だ。抜け殻と化した大切なスニーカーを見下ろし、彼は思った。
胸へぐっと押し寄せてくるのは寂寥だろうか。なんともいえない物悲しい気持ちだ。
が、滅多にない感傷に浸るキレネンコを、腕引くプーチンは待ってくれない。つい先程まで冷たいと感じていた手はすっかりキレネンコの腕と同じ体温で、足の裏焼かれるキレネンコ以上に冷たい海へと駆け出したがっているのが伝わってくる。
涼求めるプーチンが浸かりたいのは感傷ではなく海なのだ。その心は、波打つ青一色に染まっているに違いない。
そうして青い海を求めながら、キレネンコの赤い瞳をプーチンは覗くのだ。
「…………」
二度ばかり振った首に意味はない。はぁ。出そうになった溜息を彼はぐっと飲み込んだ。
頭上には相変わらずの照りつける太陽。足元には阻むもののない灼熱の砂。暑いし、熱い。人並みに、神経は生きている。
暑さと熱さの狭間に立ったキレネンコは、一歩、目的地へ向かって足を踏み出す。
目指すは、海。そういうことに、なっている。
裸足の足裏に感じる、ざらりとした粒子の感触。熱と違和感を踏みつけるよう、青色へ続く小さな軌跡を彼は追う。
白い砂浜へ残るのは、足あと、ふたつだけ。
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2010.08.08
7月分日記再録。
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